第十一話 変身
茫洋たる海原に、『大いなるもの』が降り立った。
その衝撃で水は分かれ、土が盛り上がり、大陸が生まれた。
『大いなるもの』はその大陸に四つの神獣を産み落とした。
四獣――玄武、朱雀、白虎、青龍。
彼らは大陸を四つに分けて、玄武は北を、朱雀は南を、白虎は西を、青龍は東を統治した。
この大陸は四天大陸と呼ばれるようになり、四獣によって安寧を守られた。
――のは神話での話。少なくとも、四天大陸が公平に四分割されていたのは、千年以上昔のことである。
現在の四天大陸は、その半分を北の玄天国が占め、残りを鳳凰国、玉龍国がほぼ等分に分けていて、わずかな土地を白虎国が有している。戦乱に次ぐ戦乱の結果、国の領地は形を変え、それぞれの関係ももはや対等とは言えなくなった。
青龍を守護神として祀る玉龍国の首都、菫青。
北は山、東西は川に挟まれ、南に広がる街である。
山を背後に玉龍城があり、城の周りを囲むように中央貴族の住処、その南に下級貴族の住処、町人の町、村人の家や畑、または寺社……と続いてゆく。南にゆくほど身分は下り、やがて森や野原などに辿り着く。また、下級貴族の住処を挟むように、その東西に西市、東市があり、非常に賑わっている。
その西市を、牛車は走っていた。乗っているのは俺と、まだ男の姿をしている月國である。
時刻は早朝六時前で、まだどこの店も開店準備をしている段階のようだった。しかし、月國は楽しそうな笑みを浮かべて、御簾を少しめくり、外の様子を眺めている。
――それにしても驚くほど顔の整った娘だ。
幼い頃から迅の傍に居るし、美女と名高い吉祥ともよく顔を合わせているのに、それでも月國の美しさには目を見張るものがあった。
そんなことを考えていると、彼がこちらを見た。思わずドキッとしてしまうのは、その美しさだけでなく、瞳に宿り続けている鋭さのせいだろう。迅と同じで、彼はずっと誰かと戦っているように見える。
「そういえば、花立の試はどうなるんだ?」
「あぁ……とりあえず、事態が落ち着くまでは難しいだろうな。おそらく一カ月後くらいに再び行われると思うが」
「そうか」
それまでに城に戻れているといいけど、と月國は呟き、また外に視線を投げる。
その横顔を眺めながら、俺はぼんやりと昨晩のことを思い出していた。
「――月國を俺の家に置けと、本気で仰ってるんですか?」
迅と二人になった時、そう尋ねてみた。予想通り、迅は迷いなく頷いた。
「流石に無理があるでしょう。いくらなんでも、謹慎を受けた初品を家に置いているのが発覚したら、何か裏の関係でもあるのかと勘繰られます。最悪の場合、あなたにまで迷惑がかかるかもしれませんよ」
「発覚しなければいいだけの話だ。お前の家は城からも離れているし好都合だろう。家の者に関しては、お前が口止めをすればいい」
「私の家の状況をわかってらっしゃるでしょうに」
「あぁ、無論、わかってて言ってるのだ」
迅の声が、突然低く、不機嫌そうになった。彼はこちらをギロリと睨みつけてくる。
「お前は分家を率いる身だろう。それを自覚して動け」
「……私はそのようには思ってないので」
痛いところを突かれた気分だった。思わず顔をしかめながら答えると、彼はそこがこちらの弱い点だとわかっていながら、さらに厳しい声音で言った。
「お前がどのように思っていようと、間違いなくそうなんだ。お前は私の護衛なんだからな。自覚を持て。さもないと私を侮辱することになるぞ」
迅の声がどんどん低くなり、果てには怒りさえ滲み出す。こうなるともう手が付けられない。俺は両肩を竦めた。
「だからってこれは強引すぎますよ」
「荒療治じゃないとお前には効かん」
迅は溜息を吐いた。溜息を吐きたいのはこっちの方だった。
――俺が自宅謹慎を受けている間、迅には別の護衛がつく。迅がその護衛を気に入って、俺を護衛から外してくれればいいのに。そうすれば全てが丸く収まる。
「けど無理だろうなぁ……」
思わず声に出して呟くと、前に座っている月國が、不思議そうな顔をしてこちらを振り返った。
「どうした? 何が無理なんだ?」
「いや、お前には関係ないよ」
「……そうか」
答える月國はどこか不満そうである。俺は笑い、適当に誤魔化した。
「それで? その……髪結い床はどこにあるんだ?」
尋ねた途端、月國はパッと顔を輝かせて笑う。心臓に悪いな、と何気なく思った。
「もうすぐだ。幼馴染がやってるところなんだけど、久々に会うから凄く楽しみで……そこだ、止まってくれ!」
月國が牛を引いている下男に叫ぶ。牛車が止まらないうちから、月國は後ろの簾をめくり、外へ飛び出してゆく。その振る舞いに驚きながらも、俺もその後ろへ続いた。下男にそこで待っているように命じ、月國の後に続いて髪結い床の戸をくぐる。
大分年季が入った建物だが、掃除は行き届いているようで、汚さは感じなかった。内では、ちょうど月國くらいの年齢の娘が布の山を運んでいて、こちらの姿を認めないまま、叫ぶように言った。
「お客さん、ごめんなさい、まだ準備中なの」
月國が笑いながらそれに答える。
「つれないこと言わないでよ」
――一瞬ぎょっとした。頭で分かっていても、唐突に女言葉を使われると戸惑ってしまう。
声をかけられた蘭という娘は、ぴたりと動きを止め、こちらを振り返り、そして若い女性特有の甲高い悲鳴を上げた。
「月予じゃないの! 一体どうしたの!」
彼女は布の山をその場に投げ出し、こちらへ駆けてくる。月國の方も駆け寄って、軽く抱き合った。
それから、月國が身を離し、久しぶり、と微笑んだ。
「事情があってね。また奥の部屋、使わせてもらっていいかな?」
「えぇ、もちろんよ……そちらの方は?」
蘭は俺に気付き、月國に尋ねたが、彼は「ありがとう!」と叫ぶと、もう奥の部屋に飛び込んでしまった。蘭の呼びかけも虚しく、戸が閉められる。彼女は呆れたように笑いながら、改めて俺を振り返った。
俺の今日の姿は、いつも通りの黒い官服である。一般市民に衣服の色での身分は通じないだろうが、それでも服の形を見れば城の人間だとすぐにわかる。彼女は奥の部屋と俺とを見比べるようにして、「ふーん」と意味ありげな声を上げた。どことなく楽しそうである。……誤解をされている気しかしない。
「あなた、お名前は?」蘭は朗らかに尋ねてきた。「私は蘭。月予……月國の幼馴染です」
「あ、あぁ、俺は玉緒だ。月國とは、そうだな、仕事仲間といったところか」
「ははぁ、仕事仲間ね」
蘭は大きく頷きながら、次第にニヤニヤとした笑顔を浮かべ始めた。
「うーんと、玉緒さんはおいくつなの?」
「……二十三になるが」
「うん。良いと思うわ!」
蘭は両手を叩き、嬉しそうな笑い声を上げる。何が良いんだ。
「でも、本当に良かったです。せっかくあれだけの美人なのに、あの子ったら独身のまま生涯を終えそうな勢いなんですもん」
「あの、申し訳ないが俺と月國はただの知り合いで、そういう関係じゃないぞ」
「あら、しらばっくれないでくださいよ。ただの知り合いを連れて、こんなところに来るわけないでしょ?」
「いや、だから、それには事情があって、そもそも俺は彼女と知り合って一カ月も経ってない……」
「時間は問題じゃないと思う。うちの両親はお見合い結婚だったけど、今でも物凄く仲がいいし、幸せな夫婦ですよ」
「頼むから俺の話を聞いてくれ……」
蘭は「わかってますよ」と、何もわかっていない顔で笑う。
そろそろ反論するのにも疲れてきた時、奥の戸が開かれた。
「ごめん、蘭、髪だけ結い上げてくれない?」
軽い口調でそう言いながら出てきた月國の姿を見て、俺は心底驚いた。思わず口をぽかんと開けてしまったのを、蘭がめざとく気付いて、ふふっと楽しそうに笑っている。
「いいわよ、そこに座って」
「ありがとう……どうした、玉緒」
月國は呆然としている俺に気付き、呆れたように笑った。
「何でそんなまぬけな顔をしてるんだ?」
そりゃあ、まぬけな顔にもなる。
月國は、男の格好のままでも十二分の美貌であったが、いざ、女の姿になってみると、恐ろしいほど綺麗だったのである。奥の部屋から出てきた彼は胸元で絞られ、その下が緩やかに広がる衣服を身に纏っていた。胸元までは濃い紫であり、その下は薄い紫と桃色を重ねた色をしている。なんとも彼に似合う、華やかで品のある色だった。それから、わざわざ長髪のかつらを被り、簡単な化粧までしている。もはやさっきまで気さくに話していた相手だとは思えなかった。瞼と唇に差した紅が目に映える。より一層、白い肌が際立つようだった。それでいて、相変わらず誰かに媚びるつもりのない瞳が、人形のような顔をさらに引き立たせている。
蘭がその後ろに回り、手慣れた様子で長髪を結い上げていく。月國は手鏡で自らの顔を確認し、困ったような顔をした。
「久々に化粧したから、やっぱり違和感があるなぁ」
「そう? とっても綺麗よ。天女みたいだわ。ねぇ、玉緒さん」
蘭は楽しげに笑いながら問うてくる。そこにいたずらな悪意を読み取る余裕もなく、俺は素直に頷いていた。しかし、月國はからかわれたと思ったらしい。わざとらしく不機嫌そうな顔を作った。
「そういうのいいから」
「やだ、お世辞じゃないわよ?」
蘭が、髪を結い上げた合図として、月國の肩を叩いた。月國は手鏡をもう一度覗き込み、蘭に満足そうに微笑みかけてから、こちらを振り返った。
「さ、行こう、玉緒」
「……あぁ。邪魔したな、蘭」
「いえいえー! また来てね」
蘭が手を振っているのを背後に、髪結い床を出たが、俺は本当にいいのか? という気持ちでいっぱいだった。それが顔にも出ていたらしく、牛車に乗りこんだ途端――下男もぎょっとした顔で月國を見ていた――月國に怪訝そうに尋ねられた。
「何で難しい顔をしてるんだ? そんなに変か?」
「……女が男の家に転がり込むって、どうなんだ?」
「質問に質問で返すなよ」月國は眉をひそめながら答える。「今更だな。家といっても玉緒が一人で暮らしているわけでもないし、問題ないだろう」
「まぁ、そうかもしれないけど……たとえそうだとしても、よく、知り合って間もない人間の家に転がり込む勇気があるな」
「知り合って間もないけど、玉緒のことはそれなりに信頼してるから」
月國はまた笑った。思わず視線を逸らしたが、彼はそれには気付かず、無邪気に指を折っている。
「弓勝負の時、わざと外してもらったこと。夜に襲われてる時に助けてくれたこと。女であることを黙ってくれてること。三度も恩があるもの」
そうか、と答えようとしたが、その前に彼は不機嫌そうに指を一つ戻した。
「いや、でも、一度、私を見捨てようとしたか。私が牢座敷に連れていかれそうな時に」
「あぁ……」
「まぁ、玉緒には玉緒の事情があったんだろうけど」
噛みついてこられるかと思ったが、彼はあっさり引き下がった。迅よりは物分かりが良いな、とついつい主人と比べてしまい、笑みが零れる。すると、彼はハッとして俺の顔を見た。そして戻した指をもう一度折り曲げた。
「……あなたにはたくさん助けてもらっているな」
彼はしみじみとした調子でそう言った。それが感慨深げというよりも、老人を労わるような口調だったので、かえって疲れをどっと感じた。
「労わってくれ」
「頑張る」
「いや、やっぱり頑張るな」
冗談で言ったが、月國が存外に真面目な顔をして頷いたので、慌てて手を振って否定した。
「どうして?」
月國が心底驚いた顔で尋ねてくる。ここまで問題に問題を重ねておいて、よくそんな顔が出来るものだ。
「お前が頑張るとろくでもないことになるのが目に見えてる」
「不愉快な言い方だな」
月國は眉を跳ね上げた。見た目は華やかな天女になっても、中身は石頭のままらしい。
こういう頑固者にはきちんと説明を重ねるより、とっとと話を進めてしまう方がいい。迅と過ごした長年の勘がそう告げていた。
「まぁ、それはいいとして、」
と、いうと、月國はさらに不満そうな顔をしたが、大人しくこちらの言葉の続きを待っている。
「一つだけ、俺の家へ行く前に頼んでおきたいことがある」
「何だ? しばらく居候させてもらうんだから、恩返し代わりだ。何でもするぞ」
「それは良い心がけだ。……うちの家の者をあんまり刺激しないように頼む」
月國はきょとん、とした顔になった。
こいつには難しいかもしれないな――と思いながら、俺は続けた。
「特に叔母には気を付けてくれ」
ここから玉緒の家編がスタート。
最近はシリアス続きだったので、何気ない会話の掛け合いとか書いててとっても楽しかったです。
個人的に蘭ちゃんをまた出せてよかった。
玉緒が月國を「彼」呼びしてるのはわざとです。
読んでくださりありがとうございました!精進します。