第九話 毒杯
やってきた武官たちや医師に連れられ、迅はすぐに部屋を出て行った。三つの杯もすぐに回収され、床に零れた毒入りの茶も、後からやってきた女官たちの手によって全て綺麗に片づけられた。
私と言えば、玉緒に「そこにいてくれ」と言われたまま、部屋で立ち尽くしていた。何かするべきかと思ったが、天上の勝手などわからなかったし、それに、先ほど目の前で起きた出来事が脳裏をぐるぐると駆け巡っていた。
迅は一口飲むか飲まないかでその違和感に気付き、さらにそれに気付いた玉緒が速やかに対処した為、ほんの少量しか口に入れていないようだった。しかし、もしあの杯を私が飲んでいたら、きっと違和感に気付くことなく、今頃この床に横たわっていただろう。何せ天上の茶など口にしたことがないのだ。普段との違いなどわかるはずがない。
私はぞっとするものも覚えながら、一方で、結果的に私の身代わりとなった皇子の身に大事がないことを祈った。
しばらく大勢の人が行き交った後、部屋には私と速水だけが残された。速水は優しい笑顔を浮かべると、椅子を引いて私を手招きした。
「どうぞ腰かけてください」
「……ありがとうございます。速水殿も……」
「私は結構です」彼は首を横に振る。「これも職務の一環ですから」
「そうですか」
自分だけ椅子に座るのも申し訳ない気がしたが、せっかくの厚意を無下にするのも同様だった。私は頭を下げ、椅子に腰かけた。
速水がにっこりとそれを見届けた後、何か言いたげに口を開き、複雑そうな顔をして再び口を閉ざした。何かを躊躇っているようだ。
「どうかしたのですか?」
「その……」
「何でもおっしゃってください」
「はい」
速水は観念したように言う。
「緑色の杯にだけ毒が盛られていたようですが……」
「……そうですか」
そうではないかと思っていた。何者かが、私に強い殺意を抱いているらしい。その何者かはこの天上にまで入り込めるのか。相手に心当たりがない。天上の人間とはろくに関わりがないのだ。
「その、あなたを疑っているわけではないんですが、」速水が言いづらそうに尋ねた。「どうして皇子が緑の杯を……?」
「皇子自身がお選びになったんです」
「迅皇子が?」
速水は不可解そうな顔をした。
その時、扉が開いた。振り返れば、平然とした表情で玉緒が入ってきていた。しかし、その額にはうっすらと汗が流れている。彼は興奮する様子もなく、あくまで普段通りの調子で言った。
「皇子の御命に別状はないそうだ」
「よかった……」
思わず安堵の息が漏れる。しかし、玉緒は両肩を竦めてみせた。
「あんまりよくもないぞ、月國。面倒なことになっている」
――玉緒がそう言い終わらないうちに、まだ彼が閉め切っていなかった扉に、割り込むようにして男が入ってきた。見覚えのある顔だ。医務室で出会った、化野宗家の男だと、すぐにピンときた。彼は後ろに三、四人の武官を連れており、そして鬼のような形相でこちらを睨んでいた。
「雪平殿」玉緒が振り返って、彼を雪平、と呼んだ。「そんな怖い顔をしてどうなさった」
「お前。これがどういう状況かわかっているのか」
雪平という男はギロリと玉緒を睨み、それからまた私を睨みつけた。彼の手は瞬時に腰の剣の柄に置かれ、戦闘態勢のまま、彼はにじり寄ってくる。
「神楽月國。怪しいとは思っていた――まさか皇子の命を狙おうとするとはな……」
「は?」私は驚いて椅子から立ちあがった。「誤解です! 玉緒に聞いてください、私は毒など盛っていません」
「こんな男の言い草など信じられん! 自らの隣で主君に毒を盛られるとは嘆かわしい」
雪平は吐き捨てるように言った。玉緒はぴく、と眉を上げたが、いたって冷静な声で返した。
「私の落ち度は認めるが、しかし、月國は犯人ではないですよ。この部屋に運ばれるまでに毒を盛られた可能性が――」
「お前はその男よりも、吉祥や速水の方が怪しいというのか?」
雪平は鼻を鳴らして言った。そう言われた玉緒は、流石に言葉を失ったようだった。彼が目を丸くしているのを見て、雪平は満足そうに唇を歪めて言う。
「杯に茶を入れたのは吉祥、それをここまで運んできたのは速水だ。どちらも月國よりも付き合いが長いだろう。奴らを疑うより、月國を疑う方が自然ではないか? ええ? それとも、疑えない理由でもあるのか?」
玉緒は何も答えなかった。その視線がどこともいえない、宙を睨みつけている。彼も答えに窮しているようだ。どうやら、私を疑う様子はなさそうだが、だからといって吉祥も速水も疑えない――そんな風に見えた。
吉祥。
あの美しい女官。
私を氷のような目で睨みつけてきた。
あの視線の意味が、気にかかる。
だからといって、彼女が毒を盛ったのだと考えるのは早計すぎる気がした。
そこまで考えた時だった。
開かれたままになっていた扉から、知らない女官が駆けこんできた。その女官は涙で顔をくしゃくしゃにしており、悲鳴に似た泣き声を上げながら、私の胸板に飛び込んできた。思わず両腕で受け止めるが、肩と脇腹の傷が激しく痛む。顔をしかめたが、女官は気付かないまま、私に縋っておいおいと泣いている。
そして、こんなことを言い放った。
「月國様! 私にはこのような所業、無理でございます! どうかお許しくださいませ、どうかお許しくださいませ……」
「へ……」
その場の全員が唖然としている中で、女官だけがしゃくりあげている。
しばらく誰もが動けないでいると、雪平が怒りに震えだし、腰の刀を引き抜いた。
「これはどういうことだ。説明しろ、神楽月國」
「どういうことも何も――」
――私は、この女官を知らなかった。
何とか両肩を掴み、自分から引きはがす。彼女はただただ泣きじゃくっていた。化粧が崩れ、酷いありさまになっている。
「もう白状しましょう? 月國様。失敗したのですから、もう……もう……どうしようもございません……」
彼女は震えていた。その震え方が異常なほどだった。何かに怯えているように見えた。
私は訳が分からずに何も言えないでいたが、刀を抜いた雪平が傍まで駆け寄ってきた。
「どういうことだ。何に失敗した、答えろ!」
随分と頭に血が上っているようだ。剣の切っ先を私の顔の近くでちらつける。その腕は怒りからか震えており、力加減を誤って斬られてしまいそうな恐怖感があった。
「落ち着いてください、雪平殿」
「これが落ち着いていられるか!」
玉緒が、雪平の肩を引いた。しかし、雪平はその手を払いのけ、私と女官に一層距離を詰めてくる。女官は真っ青な顔をして、私にしがみつくようにしながら言った。
「わ、わ、私たちは……第二皇子の殺害を企てました……」
――私、たち?
ぎょっとして女官を見た。彼女は私の腕にしっかりと抱き着いている。私たち、というのは、私と彼女、ということらしい。
玉緒が眉をひそめるのが見えた。雪平が怒りで震えながら、剣を構える。
「そこに直れ、叩き斬ってやる……」
「――剣を下げろ、雪平」
雪平が剣を振りかぶろうとした途端、玉緒が冷ややかな声でそう言った。雪平は鬼のような目で玉緒を振り返ったが、鋭い瞳で睨み返され、ごくりと息を呑んで剣を下げる。玉緒は雪平を背中で追いやるようにしながら、私と女官の前に立った。彼は鋭く、冷たい目をして私と女官とを睨んでいる。
女官がぶるぶると可哀想なほど震えながら言った。
「私と月國は恋人関係でございます。私はこの方の子供も宿しております……」
女官が必死な口ぶりでそう言い、自らの腹に手をやった。確かに、言われなければ気付かぬ程度であるが、わずかな膨らみがそこにあった。
――玉緒がその言葉でこちらを見た。その顔は場違いにぽかんとしていて、いつもの意図的な抜けではなく、思いがけない言葉に呆気に取られているのだと分かった。かく言う私もぽかんとして彼の顔を見返していた。彼は少しだけ首を傾げた。私は全力で首を横に振った。
だって、そんな――女と女がいくら交わっても子供は出来ないだろう。
「待ってくれ、私は貴女とは面識もないよ。なんでそんな嘘を吐くんだ……」
そう言いかけると、官女は両手で顔を覆って、また泣き始めた。
「どうしてそんなことを仰るのですか。今回のことを、私だけに押し付けるつもりなのですか!? 私は、あなたがどうしてもと仰るから、嫌だったのに、あなたの為に、毒を入れたのに、どうして……」
「何の目的で毒を盛った? 誰かに指示されたのか?」
玉緒が低い声で尋ねた。官女はびくんと身体を震わせ、青ざめた顔をしながら言葉を選んでいる。
「えぇ……えぇ、もちろん、私どもが私情で皇子を殺すことはございません……あの方にお願いされたのです……」
「あの方?」
玉緒が尋ね返したが、女官はがたがたと震え、泣くばかりで答えない。
何かが、おかしい気がした。
いや、そもそも面識のない女が私との子供を宿した、共謀して毒を盛った、と言っているのがそもそもおかしいのだが。それにしては、女官の雰囲気がおかしい。自分で自分の罪を告白し、騒ぎ立てているにしては、嫌に怯えているように見えた。涙も、演技ではなく、恐怖心から次から次へ溢れ出しているように見えた。現に、その顔はずっと引き攣っている。
「……一体どうした?」
私は今の状況も忘れて、私は官女の手を握り、自分の方を向かせながら尋ねた。彼女はハッとした顔で私を見上げ、そしてくしゃくしゃに泣き潰れた顔をさらに歪ませた。そこには先ほどまでとは違う感触があった。彼女は息を吸い込み、泣いて枯れ果てた声で言った。
――助けて。
私の耳がそれを捉えるや否や、彼女はヒュッと鋭い息を吐いた。両目が大きく見開かれ、彼女はあ、あ、と声にならない声を零す。彼女は泣きながら自分の喉を掻きむしり、そしてその赤い唇から泡を吐いた――その様子は、武が死んだ時とよく似ていた。
「しっかりしろ! 大丈夫か!?」
私は女官の手を力強く握り締め、尋ねた。彼女はぼろぼろと泣きながら、私の手を握り返してきた。
そして、その力がふっと消え去った。
その感覚を、昨日も味わったばかりだった。
彼女はぐらりと身体を揺らし、そのまま私に倒れ込んでくる。私は傷口が開くのも厭わずに彼女を受け止めた。
玉緒がハッとして近くにやってきて、彼女の顔を覗き込んだ。そして首を横に振った。
「……亡くなっている」
私の胸に頬を預けている彼女は、まだあどけない顔立ちをしていた。私と同い年くらいだろうか。
――助けて。
さっきの小さな声が耳にこびりついていた。
腕に抱えていた女官は、速水が抱き寄せてくれ、そのまま床に寝かせてくれた。速水は呆然としながらも、その少女の瞼を、手のひらで押し下げてやっている。目を閉じると、彼女は一層幼く見えた。
不意に、くらくらとした揺らめきを感じた。視界がぼやけ、思考が遠くへ離れていく。ふっ、と身体が軽くなったような、気味の悪い感覚がやってきた時、誰かに力強く抱き寄せられた。そこで初めて、自分が失神しそうになったことに気付いた。体勢が崩れたところを、彼に支えられたらしい。
顔を上げると、すぐそこに玉緒の顔があり、予期していなかった距離に驚いた。彼は苦悩で眉間に皺を寄せ、心配そうに私を見ている。
「大丈夫か」
「大丈夫だ」
私は反射的にそう答えていた。
先ほどは、誰に指示をされなくても能動的に動いていた武官たちが、一人の少女の死に戸惑って立ち尽くしている。威勢が良かった雪平も、言葉を失って立ち尽くしていた。
一体何が起きているのだ。
この女官は誰なのだ。
どうして――私の周りで人が死んでゆくのか。
――大丈夫なわけがない、と思った。
それを見透かしているように、玉緒は、私を支える手を離さなかった。
「……香鈴?」
細く震えるような声がした。その方を向くと、青ざめた顔をした吉祥が部屋に飛び込んできたところだった。
ブクマしてくださった方、感想を書いてくださった方、励みになってます、ありがとうございます。
読んでくださっている方には本当に頭があがりません。
本当にありがたいし、幸せだなぁと実感しています。
ここまで読んでくださりありがとうございました!




