冒頭/始まりは風と共に
母は私の髪をぎゅうと後ろに引っ張ると、それを力強く結い上げ、水晶の簪を挿してくれた。芙蓉の花から幾つかの玉が垂れ下がった繊細な装飾品だった。鏡に写った姿を見て、母は感極まったように溜息を吐く。
「月予もついに宮仕えする時がきたのね」
「十八年生きれば誰もが通る道よ、お母様」
「それでも私は通っていないわよ。商家の娘でしたもの」
そうね、と私は笑い、立ち上がる。
春の風が障子の隙間から吹き込んでくる。目をやれば陽の光が庭の木々を優しく暖めていた。桜の花びらが一つ落ち、ひらひらと宙を舞った。この美しい軒先の景色を久しく見れないのかと思うと一抹の寂しさが生まれたが、朝から胸中に広がる期待に掠れてすぐに消え去った。
「あなた、官名はどうするの?」
廊下を歩く私の後を追いながら、母が尋ねてくる。
「今からそれを聞きに行くのよ」
「あら。私のところに来ないと思ったら、月矢に頼んだのね」
「ごめんなさい、お母様」
謝ったは見せたが、母の方も気にしていないようだった。いつものように明るく笑いながら、「仲のいいことね」と肩を竦めてみせた。
声を掛けてから襖を開けると、その向こうに兄の月矢がいた。今日は身体の調子が良いらしく、珍しく、朝から身体を起こしていた。月矢は、私と全く同じ顔をこちらに向け、いつものように微笑んでくれる。
「名前、考えてくれた?」
そう尋ねると、月矢は懐から一枚の紙を取り出した。
「とっても可愛い名前を考えたよ」
母が「まぁ!」と嬉しそうな声を上げた。月矢はニコニコと微笑んだまま、私にその紙を差し出してくる。私は思わず顔をしかめてしまったが、その表情を見て月矢は一層笑みを深くした。
「……ありがとう、月矢」
不愛想になるのを抑えられないまま、紙を受け取り、そこに書かれた文字をちらっと見て――私も思わず歓声を上げてしまった。すると月矢は声を上げて笑う。
「予想通りの反応で嬉しいよ」
「ありがとう! 素敵な名前だわ」
私は笑い、紙を懐に押し込むと、月矢の横に置かれている風呂敷包みの荷物を指差した。
「これは私への餞別なんでしょう?」
「そうだよ」月矢は楽しそうに笑う。「可愛い可愛い月予。城でも頑張るんだよ」
「えぇ! ありがとう! 大好き!」
私は月矢に抱き付いた。力いっぱい抱き付いてしまったからか、月矢が咳き込み、母が慌てたように静止した。そして私たちは思い切り笑い合った。
「――じゃあ、お母様。私、行ってくるわね」
「……本当に徒歩で行くの?」
「私、お姫様として城に行くんじゃないのよ」
門前で笠を被りながら答えると、母は不満そうに唇を歪めた。普段は体裁を気にするような細かい人ではないから、この晴れ晴れしい日だからこそ、こだわっているのだろう。私は大丈夫だから、私がそうしたいの、と何度も訴えて、やっと徒歩で出仕するのを許してくれたのだった。とはいえ、城まで三十分も歩けば着くのだから、徒歩でも何の問題もない。
「せっかくおめかししたのに笠まで被っちゃって」
「顔をさらけ出して歩くのは『女の恥』なんでしょう?」
「そうかもしれないけど……」
「私はもう行くわよ、お母様。また夏の休暇に戻ってくるわね」
最後に抱き付くと、母も微笑みながらぎゅうと抱きしめてくれた。後ろに控えている下男・下女たちにも会釈をし、私は笠を被り直し、荷物を持ち直して歩きだした。
――ごめんね、お母様。
心の中でそう呟きながら、家の門が見えなくなるまで、私は城の方角へと向かって歩いた。そして、自分の姿がもう母には見えないと確信してから――そのまま真逆の方向へ向かった。
「髪、切ってくれる?」
幼馴染が勤めている髪結い床の戸を開けた途端にそう言うと、客を出迎えようとしてやってきた幼馴染――蘭がぎょっと両目を丸くした。
「ちょ……月予じゃない! 何してるの? 今日から宮仕えじゃないの?」
「そうよ。待ちに待った宮仕えの日よ。だから早く髪を切ってくれる?」
「待って、全然話がわからないんだけど」
髪結い床に朝早くから来る客はいなかったようで、店にいたのは私だけだった。蘭の制止を無視し、勝手に入り込んで行く。
「早く早く! 遅刻するわけにはいかないから!」
いつも使っている場所に座り込み、荷物を投げ出して、母が最後に付けてくれた水晶の簪を引き抜く。
「ど……どれくらい切るの?」
「凄く短くして」
「凄く短くって……肩くらい?」
「耳の辺りまで切ってしまって」
そう言うと蘭は呆れたような声を上げた。
「それじゃあ男じゃないの!」
「それでいいのよ。お願い、やって頂戴」
蘭を振り返り、そう頼むと、彼女も私が冗談で言っているのではないと察したらしかった。ごくりと息を呑んでから、鋏を手に取り、私の方へ近づいてくる。しばらく沈黙があった後、彼女は私の髪を切りだした。蘭は女だから、と馬鹿にされ、顧客は少ないが、その腕は父譲りで達者だ。みるみるうちに髪は短くなった。首筋に心地よい涼しさを感じた頃合いに、蘭が古ぼけた柄鏡を渡してくれた。覗き込んでみれば、長かった黒髪は耳の下からすっかり消え失せていた。切ってくれ、とお願いしただけなのに、きちんと似合うようにしてくれている。
「ありがとう。ちょっと奥の部屋を借りて良い? 服を着替えるから」
返事を待つのも惜しく、奥の座敷に飛び込み、月矢に貰った風呂敷包みを広げ、そこに彼が入れてくれた服を取り出した。逸る気持ちを抑えながら身を通してみると、驚くほどぴったりである。
「蘭、」
呼びかけながら戻ると、蘭が部屋の隅で項垂れていた。どうやら泣いているらしく、思わずぎょっとしてしまう。
「何で泣いてるの」
「だって……友達が宮仕えする機会を奪っちゃったんだもの……これ、私、きっと、止めるべきだったんだわ。ええ、知ってるのよ。あなたが官女になんかなりたくなかったのくらい。自分より能のない男の為にせっせと働くくらいなら世捨て人にでもなった方がましだっていつも言ってたものね……でも止めるべきだったよね……世捨て人なんか……」
「蘭、こっちを向いて」
「ごめんなさい……なんかもう……どうしよう……あなたに合わせる顔がないの」
「蘭」私は笑った。「いいからこっちを見て」
蘭はシクシクと涙を流しながらこっちを振り返り、そして素っ頓狂な悲鳴を上げた。あまりの驚きで尻餅をつき、我に返って、痛そうに腰を撫でている。それから噛みつくような勢いで立ち上がって詰め寄ってきた。
「あんた何考えてるの!? バカなの!? バカなのは知ってたけど……何考えてるの!?」
そう叫んでから、彼女はふと口を閉ざし、そしておそるおそる尋ねてきた。
「……え? 月予よね? 月矢さん……じゃないよね?」
「髪を切ったらとても似てるでしょう。元々そっくりって言われるけど」
私は答えながら、床に投げ出された柄鏡を拾った。そこには、男性用の官服を着た若い青年の姿が写っている。我ながら完璧だ。
「蘭。これあなたにあげるわ。お礼よ」
唖然としている蘭に水晶の簪を渡すと、彼女は青ざめた顔をして首を横に振った。
「そんな高価なもの受け取れないわ」
「対価よ。あなたの腕はこれだけの価値があるわ――違うな」
私は気付き、にやりと笑う。
「――君の腕にはこれだけの価値がある。自信を持ってくれ」
そう言って蘭の手を取り、水晶の簪を滑り込ませると、彼女は反射的に顔を赤くし、それからすぐに眉をよせた。
「……月予、あんた本気なの」
「月予じゃないよ。これからは」
私は月矢から貰った紙を広げて見せた。そこには繊細で美しい字で、
――月國
と書かれていた。
「神楽月國。神楽家に生まれた双子の兄として、月矢の代わりに宮仕えをしてくるよ――官女ではなく、れっきとした一人の官人としてね」
*
春は退屈だ。めでたく宮仕えを始めることとなった若者たちが幾百人も雲門前に並び、その名が呼ばれるたびに前へ歩みだして令状を受け取りに来る。いかんせん人数が多すぎるので、この新年初めの恒例行事は朝から昼近くまで行われる。長く退屈な行事に春の気候はそぐわない。
とはいえ、若者たちとしては、雲の上の存在である皇帝や皇子に、厚い布越しと言えど謁見できる初めての機会である。名前を呼ばれて前に来るものはみな高揚した面持ちをしていた。しかし、それでも他のものは眠たそうに睡魔を堪えている。遠くの方では膝を付きながらもゆるゆると頭が揺れているものも何人か伺えた。まぁ、布の向こうの王家の人間はとっととうたた寝を始めているに違いないから、誰も咎めるものはいなかった。
――暇だな。
こういう行事で最も苦しいのは自分のような護衛職であるとつくづく思う。のんきにうたたねする訳にもいかないし、しかし護衛をするとしても特別なことはめったに起こらないし。そんなことを思いながら、今日何度めかの欠伸を素知らぬ顔で噛み殺そうとした時、ふとざわめきが聞こえた。
睡魔が襲うとはいえ、年初めの荘厳な儀式であるから、私語を漏らすものは滅多にいない。声が漏れるとしたらそれは相当な場合である。職業柄、身構えたが、すぐにざわめきの正体に気が付いた。
名前を呼ばれて立ち上がった青年が、恐ろしいほどに美しかったのだ。彼はハイと涼やかに返事をして、肩で風を切りながら前へと歩み出てくる。真珠のように白い肌と鴉の濡羽色の髪。すっきりとした目鼻立ちに、薄い唇、きりりと尖った輪郭線。身のこなしも無駄がない。刀のような鋭い美しさだった。人々の動揺に反応したように、ざわりと一陣の風が吹いた。青年の前髪が風に舞う。真っ直ぐに前を見つめる瞳の眼光がぎらりと輝いていた。
――思わず嘆息を吐いてしまい、口を押えた。しかし、声を漏らしたのは自分だけではなかった。周りの官人もほうと息を漏らしており、大きなざわめきとなった。
青年はしかし、少しも動揺することなく前へ進むと、令状を読み上げる官人の前で片膝を着き、言葉を待った。
「――神楽月國。今日より貴殿の魂を龍の子である皇帝、並びにこの国に捧げよ」
官人が震える声で読み上げる。
月國と呼ばれたその青年は、涼やかに伸びてゆく声で応えた。
「御意――」
プロットは考えてありますが、書き溜めしてないので、のんびり更新していきます。