世界はバラ色でできている
1
自分は幸せなのだ、と無理に感情を強要する必要がないように、自分は不幸なのだ、と貶める必要性もこれまたない。
だけどもぼくには自分は不幸なのだと感じざるを得ない状況にある。
1つの事実として。
なぜならぼくは現在、刑務所に収監されているのだから。
西暦2104年、全世界で女性の数は男性の数の1/20にまで減少した。
理由は、西暦2020年頃に行われた遺伝子操作の副作用だと一般的に言われてる。
それは、ヒトの脳にあるバソプレッシンという物質を操作して全世界の男性が特定のパートナーとしか性交しないという現象を生み出したのが始まりだ。
当初その作用はうまく機能しているかのように思えた。事実、世の中の男性は、特定のパートナー以外には性的対象として映らなくなった。
だけども、そのパートナーにすら性的欲求が果てた者がぽつぽつと現れ始めた。
彼らは、想像上の、いわゆる二次元の異性を性的対象として認識しはじめたのだ。
男性は、現実の女性に五感をもって性欲を感じる。
しかし、二次元の女性には主に視覚だけで性欲を感じ取ることができる。
少なくとも触覚や嗅覚や味覚は不必要だった。
それはとても手頃なツールだった。そして空想上の存在故に面倒なこともなかった。
もちろんそれはとてもとても淡白で感情の流れも小さい行為ではあったが、世の男性の多くは、荒波よりも平穏を望んだ。
そもそも男にとって快楽の絶頂は一瞬なのだから、合理的といえば合理的とも言える。
その結果、男性器は退化し、大きさは膨張しても小指の第二関節くらいまでしかない者が22世紀では大多数を占めた。
出生率は極端に下がった。
そして、これもその遺伝子操作の副作用といわれているが(まだ確実な科学的根拠は実証されてはいないが)
生まれてくる子どもの殆どが雄ヘテロXY型、つまり男だった。
女性は希少種として、あらゆる面で優遇された。
特に婚姻については絶対的に女性上位な立場だった。
法律が特設され、結納金が遅れた者は刑務所へ収監された。懲役5~7年。
つまり、それがぼくだ。
2
月はとても尊大なものだと思う。
記憶をじんわりと手繰り寄せてくれる。良い思い出も、悲しい思い出も。
刑務所の鉄格子から眺める今夜の月も、あの時と遜色がない。
ぼくが彼女に恋をしたのは、3年前、つまり25のときなのだけども、その時に初めて女性がすてきな存在なのだと知った。
それまでぼくの知っている女性といえば、いつもディスプレイの中で優しく笑い、一方的に喋るだけのものだった。
それは21世紀初頭に流行したツールで、レトロ回帰が主流な現在でも何度もアップデートを重ねて利用されている。
ぼくもぼくの友人らも、架空世界の女を愛した。
だけども、ぼくはあの月の下で彼女に出会ってしまう。仕事帰りに寄った野外バーで。ジャズが流れていた。
彼女は、さっきまで笑っていたかと思うと、急に不機嫌になって怒り出す。かと思えば泣き出して、そしてまた笑った。
その生々しさにぼくはすっかり翻弄されてしまう。そして気がつけば恋に落ちていた。
*
刑務所内では12時間の労働が割り当てられている。
5時に起床し、飯を食べたら午前は塀の中の畑で野菜を作る。雑草をむしり、手頃な実を収穫する。
汗がしたたり落ちる。塀に囲まれた小さな空がやけに青かった。
東側の塀の警備はやや手薄だ。新米の刑務官があくびをしていた。
昼食を済ませたら、次は室内で家具を作る。
ぼくの担当はノコギリで箪笥の底板を切り、積み重ねる作業だ。一日に300枚がノルマだった。
渇きを潤すために水道水をコップに注ぎ水を飲む。何杯も何杯も。労働のたびに水を飲む。
水はいつもカルキ臭がして不味かった。
3
ぼくの住む国、新大和皇国は、国の中心にある岡京が首都だ。
岡京は、昔は岡山県と呼ばれていた。そしてそこはこの刑務所の所在地でもある。
遥か北には蝦夷共和国がある。蝦夷共和国は現在、ロシアからの干渉を受けて混乱しているらしい。
そもそもこの二つの国は第三次世界大戦が起こるまで一つの国だった。戦争で東地域が壊滅し、国は二つに分かれたのだ。
蝦夷共和国がロシアからの干渉を受けている同様、新大和皇国も、中つ国から属国になるよう、圧力をかけられていた。
そしてその影響はこの刑務所までに及んだ。
結納金の滞納の刑罰は、新大和皇国では懲役5~7年と定められている。
しかしながら中つ国では、結納金滞納は極刑、つまり死刑となっていた。
国が変われば法も変わる。中つ国は己れの国の法律をグローバルスタンダードとして位置づけようとしていたのだ。
それはもちろん、世界の大国であることを示すためだ。
先の大戦でアメリカが負け、中つ国も痛手を負った。勝利国はロシアだったが、そのロシアも傷跡が深く、中つ国は、対ロシア勢力に対抗しようと躍起となっていた。
中つ国は、そのためのプランとして、新大和皇国を支配下に置きたかった。そして政治的介入を行った。
だから、ぼくは国の都合により、収監されて2年目の秋に、刑罰を懲役5年から、死刑へと変更された。
4
彼女について考える。
ぼくは彼女を愛している。それは間違いない。
だけど、と不安になる。その愛情が一方的になり、逆に彼女を傷つけているのではないか、と。それが怖い。そして、残念だけど、恐らく事実だ。
ぼくと彼女は恋におちて結婚した。
だけどぼくは貧乏だった。
国で定められている額の結納金を納めることは到底無理だった。
だけども彼女の側に居たかった。
欲求はシンプルにそこだ。
だけど、と思う。現実を無視して強引に結婚したことで、ぼくは彼女を傷つけてしまったのだ。
そしてぼく自身も捕まり裁判を受け、刑務所へ入れられた。
結果、国の都合で、課された刑が変更となり、最悪の極刑となった。
そんな心身とも疲れ果てた中で毎日、狭く青い空を見上げて畑作業で汗を流した。
一呼吸置いて、手を休めた。
東側塀を担当する新米刑務官がつかつかとやってきて、さぼるな、と怒号を浴びせて銃の柄でぼくを殴る。こめかみから血が流れた。
それを見たその刑務官は、どうせ死ぬから別にいいよな、と笑ってぼくの顔に唾をかけた。
真っ赤に焼けた鉄の雨が降る。
その雨がぼくにあたり、身が悶える。叫び声をあげる。悲鳴。だけど、鉄の雨は止むことなしに容赦なくぼくの身に叩きつける。
精神は疲弊し切っていた。
寝転がると壁に囲まれた狭く青い空が見える。綺麗だった。
青い?
そして綺麗?
ぼくは問うた。
このような状況に置かれても空は青くてそれを綺麗だと思えた事実に。
心臓がどくどく鳴る。
ぼくは何かが分かりかける。
心臓は鳴っているのではない、動いているのだ。
目を見開いた。鉄の雨など降ってはいない。そこには青くて綺麗な空があるだけだ。昼の月も見える。
月はただそこにあるだけだった。
そしてその月に思いを馳せるぼくがいる。ただそれだけのことだ。
起きあがりコップに水を注いで飲んだ。変わらずカルキ臭がしたが、美味かった。
ぼくの身体は水を欲していた。そしてその欲求を満たして補給し、美味いと思った。それだけだ。以上も以下もない。
途端に、この世界が明るくバラ色に輝いているように見えた。
この感覚を大切にしようと思った。
いつかまた忘れかけたとしても精神のチューニングを行えば、バラ色でできたこの世界を堪能することができる。
ぼくは深呼吸をした。酸素が身体中に巡る。心臓がどくどくと動いている。素晴らしいリズムだ。
ぼくは走り出し、背中を向けた新米刑務官に襲いかかった。そして拳を振り下ろす。一発、二発、三発。
そして渾身の蹴りを刑務官の顎先めがけて放った。
虫のようにぴくぴく動いている奴の身体から銃を奪う。
迷っている暇はない。東側の塀を越えて脱走するのだ。
ぼくは走り出した。
辺り一面には、強いバラの香りがたちこめている。