灰色の町
ママ譲りの赤毛を、と一条が口ずさむ。
俺は思わず、彼女の髪の毛に視線を投げた。
彼女の耳から溢れる音。
何回、いや、何十回と再生されたその音楽はイヤホンから漏れ、俺の耳にまで届く。
同じ曲ばかり繰り返し聴いてよく飽きないな。気が狂いそうだ。
「その歌しか知らねえの?」
学校の屋上の、更にハシゴを登ったペント ハウスに二人で腰掛けたまま、もう1時間が過ぎようとしている。 聞こえてないのか、あえてなのか、返事はない。
一条がいつも持っているCDプレイヤーは、町の電気屋で中古で買ったそうだ。
いつも何を聴いているのかと思っていたが、今日やっと分かった。
iPodの時代にCDプレイヤー。曲はCoccoのraining。
数ある曲の中からどうしてそれを選んだのかは不明。
12月の風は暴力的な冷たさで俺達の周りを通り抜けた。
ただでさえ風通しのよい屋上なのに、平気な顔して自分の世界に没頭している彼女を見ると、頭がおかしいんじゃないだろうかと本 気で心配する。
かと思えば、目の前に広がる町を真っ直ぐ見下ろしながら唐突に、寒いネと呟いたりなんかした。
そして赤いチェック柄のマフラーに顎を沈める。
瞼の上で揃えられた前髪が何本か風に撫でられサラサラと揺れた。
曲はサビを終えて、Bメロに入るところだ。
あなたがもういなくてー、と彼女がまた歌う。
そこには何もなくてー、と続けた。
なんだか趣味の悪い女。
他のみんなみたいに、浮かれた恋愛ソングだけ聴いてればいいのに。
俺は一条から目をそらした。
眼下に広がる町は、俺が生まれて育った町。
日本列島の北に位置する寒い 町。
大した観光スポットもなければ、これといった名物もない。輩出された有名人もいない。
こんなつまらない町だから、一条はあんなことをするのだろうか――
明日から冬休みに入る。
そしたら、一条とは学校が始まるまで会わなくなる。その前に話しておきたかった。
終了式を終え、みんなが体育館から教室へ戻っていく途中、俺は一条を呼び止めた。
放課後話がある、と言えば彼女はやはり鬱陶しそうな顔をしたが、渋々了承してくれた。
屋上を選んだのは、内容が内容なだけに、人の来ないところがいいと思ったからだ。
昨日見たことを伝えると、彼女はあっさりと援交を認めた。うん、やってる、とそれだけだった。
その瞬間に俺はハンマーで頭を殴られたようなショックを受けた。
(……)
言い訳をしてほしかった。
嘘でも違うと言ってほしかった。
そしたら、信じたのに。
あっけらかんとする彼女の隣で、俺はすっかり言葉を失ってしまった。そしてそれ以上何も聞けずに1時間。
明日からの冬休みで忙しいらしく、こんな時間まで校舎に残っている生徒は他にいない。
まだ午後なのに、空はどんよりと暗く厚い雲がかかっていた。いつ雪が降りだしてもおかしくないくらい、芯から寒い。
灰色の町は、いつも以上に陰気な雰囲気に見える。それとも俺のフィルターが、曇ってしまったのか。
こんなはずじゃなかった、と盛大に溜め息を吐いたつもりだったが、予想外にそれは白い靄となって、ゆったりと音もなく消えていった。
体育座りをした一条のスカートの端が、 チラチラと風にめくられるのを見ないようにと注意深く視線をそらすが、余計に意識してしまう。
そして、やっと口を開いた。
「で、どうするんだよ」
「どうする、ねェ……」
なんだよ畜生、やっぱり聞こえてたんじゃねーか。
「やめるのか、やめねーのか」
「ふふふ」
「なにが可笑しいんだ」
「いや、あんたには関係ないなーと、思ってさ」
笑いながら言うもんだから、怒る気力もなくなった。
確かにそうかもしれない。一条が誰と何をしていようが俺が口出す事ではない。
鬱陶しいと思っているだろう。余計なお世話だと。わかってる。
だけど、理屈じゃないんだ。
それに俺は、余計な事を言う奴がいなくなった世界はすごく寂しいと思う。
幾重にもなった彼女の濃い睫は、横から見ると少しだけ上を向いていることが分かる。
一条の薄い唇が、清田の家で見たAV女優のように、中年オヤジの身体を這っていると思うと、どうしたって嫌悪感が溢れた。ああ、気色が悪い。
「ほんとなんか、気持ち悪いよ。おまえ」
耐えきれずにおまえ、なんて言ってしまった。しかし彼女はまた、笑った。堪えてない。
俺は怒っていたのだ。どんな理由があろうとも、援交なんてする一条に。
そして説教してやるつもりで呼び出したのに、どう言ったら彼女が自分を改めるのか、言葉が見つからない。
ちゃんと、何を言うか考えてから呼び出せば良かった。後悔。
そもそも、どういう事故で一条の親が死んだのか、何がきっかけで援交なんてやることになったのか、どうしてクラスの誰とも話そ うとしないのか、俺には何ひとつ分からないのだ。
「ここは、寒いところだね」
「……冬だからだろ」
「ううん、ここは寒いよ。白けた町。こんな事でわざわざ騒ぐアンタもみんなも全部、下らないよそういうの」
すると一条は、制服のコートのポケットから何かを取り出した。
何だろうと思っていると、その手には何枚かの万札が握られていた。俺はハッと息を呑む。
それがどうやって手に入れられたものなのか、馬鹿でも分かるだろう。
「あげようか」
無邪気に笑った一条が、俺には泣いているように見えた。
彼女が今までその背に負ってきたものが一体何なのか分からないが、その片鱗に触れてしまった気がして、つい怖じ気づいた。
しかし、目の前で金をちらつかされて頭に血が登ったのも事実。
馬鹿にされた恥ずかしさと、 一瞬怖がってしまったことを隠すために思わず手を払った。
俺の右手は予想より強く彼女の手を弾く。万札は風に乗ってひらひらと飛んで行ってしまった。
しまった、と思ったがもう遅い。
「お、おまえが悪いんだからな」
遠くへ舞う数万円を目で追いながら精一杯の去勢を張ってそう言うが、弁償しろなんて言われたらどうしよう……と心が縮んだ気でいた俺。
そんな俺の心配を他所に、一条は言った。
「うん、知ってる」
彼女の冷静な口調に、一瞬何のことを言っているのか分からなくなった。
俺は飛んで行ってしまったお札のことを言ったつもりだが、彼女の返事の仕方は、もっと深い意図を含んでいた……ような気がする。
しばらく沈黙が流れた。
もう帰ろうかな、と思う自分と、まだ話し足りない自分が頭の中で押し問答を続ける。
「この歌聴くと、死にたくなる」
ふいに一条が言った。
片方のイヤホンを外して、真っ直ぐ正面を見詰める。
「根暗」
俺は言った。本当にそう思った。
「うん。そうかも。なんか、もういいかなって。思う」
もういい……? それって、どういう意味だろう。
「……もしかして一条んち、貧乏なのか」
ふと、だから援交なんてしてるのかもと思った。家は大きくても、蓋を開ければ借金だらけ、というのはドラマやニュースでよくある話だ。
「別に。私には、そういうのあんまり関係ないから」
「……」
彼女は高校へ行くお金も用意してもらえないのだ。
もしかして一条は、高校へ行くお金を自分で稼ごうとしているのだろうか。俺と同じように。
援交は悪いことだけど、もしそうだったのなら……
「あの、……さっきのは、ごめん」
「いいよ。本当にあげるつもりだったし。 お金はもう、いらないから」
「……」
私は無力でー、とまた歌った。 曲は延々とリピートされている。
なんで? 俺はそう聞こうとした。
だけど俺の思う、なんで? の先には聞きたいことがありすぎて、何から聞いたらいいのか分からなくなった。
それに、ひとつを聞いてしまえば彼女の生い立ちから全てを聞かないと気が済まないだろう。
(……)
冷たい風が頬を切り裂く。酷く痛い。
耳に残るのは、あの一言。
死にたくなる、と言った彼女の科白。
一条がやって来るまでは、テレビゲームの攻略法とか漫画の発売日とか、テストでカンニングをする方法とか、そんなことしか考えていなかった俺にとっては重い。重すぎる。
そもそも聞いたって、答えてくれるとも思えない。
「簡単に、死ぬって言うなよ……」
やっと絞り出した言葉がこれだった。
「ふぅん。なんで?」
試すように一条が問う。
「何でって……本当に死んだらいけないだろ」
「あぁ、私の母親みたいに」
「……」
何でもないことのように一条が言うから、俺はまた言葉を奪われてしまった。
彼女がにっこりと笑うたびに、失われていくものは一体何なのだろう。
「一条さ、高校行きたくない……?」
「行きたくない。しつこい」
即答だった。希望を根こそぎ殺がれたような気分に落ち込む。
「昨日のさ、相手のサラリーマンさ……どうやって知り合ったの?」
質問ばかりする上に、ころころと話の主語が変わる俺にうんざりしているかもしれないが、仕方ない。俺だって混乱したままなんだ。
刑事ドラマの取り調べみたいに、順序よくなんて話せない。言葉よりも先に感情が走ってしまう。
でも彼女は文句ひとつ言わない。それも当然だろうというように構えている。
「これで」
一条はピンクの携帯を俺に見せた。
出会い系とかいうやつだろう。
この町の大人が女子中学生をお金で買うなんて、信じたくない。
それを伝えると、彼女は鼻で笑った。いつか美術の先生に対して見せたような、軽蔑の眼差し。
「この町この町って、あんた達言うけど、都会でも田舎でも、住んでるのは同じ人間だからね」
「……やめろよ」
「なにが?」
「その、……援交」
「もうしないよ」
「え、本当?」
「うん。もうお金はいらないから」
「お金の為とかじゃ、ないの?」
「そうだよ。でもだいぶ貯まったし」
「何のために?」
彼女がゆっくりと俺の方を見る。
その真っ白な肌の向こうで、空に雷が走った。
いつ降り出してもおかしくないのは雪ではなく、雨だったのだ。
一条の潤んだ唇が動く。彼女は質問に答える代わりにこう言った。
「死ぬって、ねぇあんた知ってる? 亡くなるだけじゃないんだよ。会わなくなった人は、自分にとって死んじゃったのと同じなんだよ」
その瞬間、彼女がとても遠い存在になったように感じて、無償に泣きたくなった。
どうしてそんな事を言うのだろう。
彼女の選ぶ言葉はいつだって、必要以上に俺の心を深く抉る。
「……一条は、死んじゃうの」
「うん、死ぬ。多分、死んじゃう」
「俺が、」
「なに」
「俺が殺してやろうか」
一条の瞳が微かに揺れた。 期待と戸惑いを含んだその瞳。
そこで初めて、ちゃんと目が合った。
よく見るとなんてことない。 同い年の、普通の『女』だ。
「だから、それまで生きて」
一条は何度かまばたきを繰り返したあと、満足そうに笑みを浮かべた。
彼女が笑う場面は何度か見たが、どれも相手を嘲笑うようなものばかりだった。
だけど今の笑顔は、
「あ、」
雨が降り出す。湿ったにおいと、急激に下がったように感じる空気。
空が一層暗さを増し、屋上のアスファルトに黒い染みがポツポツと落ち始めた。
「いちじょ……」
「帰る」
あいにくの雨に遮られ、数十センチ先にあった彼女の笑顔は、ねずみ色の町に埋もれてしまっていた。