ボーダーライン
「今日、先生に頼まれて一条の家へ行ったよ」
「そう」
公園でホットココアを2本買い、ひとつを一条に渡した。
近くにいるのに、すっかり暗くなったせいで一条の表情はよく解らない。おまけに、外灯の電気も切れていた。
一条はブランコに腰掛けたまま、小さく揺れている。時々はぁーっと息を吐いて、その白さを確かめていた。
引き止めたはいいけど、いざ会うと何を話したらいいのか迷う。
とりあえず、どうして学校に来ないのかを尋ねてみるが。
「意味がないから」
そればかりだ。
校則を守ることも、夢を持つことも、学校へ来ることも、一条にとっては全部意味がないらしい。
「じゃあ……一条にとって、意味のあることって何だよ」
「……言っても分かんないよ」
「分かるよ。分かるように、努力するよ」
「何であんた、そんなに私に関わるわけ」
「……」
好きだから。とは言えない。気持ちを伝えるには、俺はあまりにも言葉を知らなすぎる。
「クラスメート……だからだろ」
「ふーん。易しいね」
それが皮肉だということは分かっている。だけど不思議と嫌な気持ちにはならない。
「一条、でかい家に住んでるんだな」
「別に、私の家じゃない」
そう言われ、気のきいた返しも浮かばず俺は黙ってしまった。
またつまらない奴だって、思っているだろうな……。
「あんたさ、」
ふいに口を開いた一条。彼女の方から言葉を発するなんて初めてかもしれない。
「あんた、自分の居場所って、ある?」
「え?」
自分の居場所?
予想しなかったその質問に、戸惑いを隠せなかった。どうして一条はそんなことを訊くのだろう。真意を探るには、辺りが暗すぎる。
「居場所って、どうだろう。無いよ、別に、思ったことないよ」
「じゃああんたは、自分の居場所を持ってる人間なのね」
「え、そうなのかな」
「そうよ」
どうしてそうなるのか、一条の考え方がよく理解できない。
「生まれた時から居場所のある人は、いちいち意識しないもの」
「……」
「失くして初めて、探すものでしょ」
手の中のココアがだんだん冷えていくのを感じていた。
「一条は、学校をサボって自分の居場所を探してんの」
「……」
こちらの質問には応えてくれない。
彼女の心が開きかけたと思ったのは、勘違いだったのだろうか。
「帰る」
唐突にそう言った一条は、地面を蹴ってブランコから降りた。
「帰るって、どこに」
「ちゃんと家に帰るよ」
鬱陶しそうに彼女は言う。
「明日は学校来いよな!」
もう既に背中を向けて歩き出している一条に向かって、俺は怒鳴った。
「明日だけじゃなくて、明後日も、明明後日も!」
すると彼女はもう一度振り返り、唇をきゅっと閉じたまま俺を見る。
暫くそのまま目を合わせていたが、俺は彼女がどう応えるのか気になって動けなかった。
「バーカ」
一条はそれだけ言うと踵を返し、夜を歩き始めた。
「じゃあ、まず54ページを開いて」
変わらない教室。授業中に隠れて手紙交換をする女子達。
そしてやはり、ひとつだけ空いたままの窓際の席。
頬杖をついたまま溜め息を吐いて一条の席を見ていた。
彼女は今日も学校に来ていなかった。やはり、俺じゃ一条の心を開くことはできないのだろうか。
(人の気持ちを動かすって、難しいんだな)
ちょっとセンチメンタルな気分だ。
これが、世間で一般で言う恋煩いというものなのだろうか。なんか、少し違う気もする。
1時間目が終わり、トイレに行こうとドアに手をかけた時、襟をぐいっと後ろへ引っ張られた。
「話があるんだけど」
「……なんだよ」
またトワコだ。前回と同じく取り巻きを後ろに引き連れている。
ふと、トワコと一緒に帰っていた小学生時代が頭に浮かんだ。あの頃はトワコも、もう少し大人しかった気がする。
そういえば、トワコはいつから俺に話し掛ける時ひとりで来なくなったのだろう。
「昨日、一条あやねとデートしてたわね?」
え? と思わず気の抜けた声が出た。デート?
トワコは俺の方を真っ直ぐ睨んだまま、近寄ってきた。すると後ろの何人かも一歩前へ出てくる。
「してないよ」
「うそ! 塾の帰りに見たもん!」
キンとするトワコの声が耳の奥まで響く。叫ぶたびに、彼女のポニーテールが揺れた。
近くにいた男子が痴話喧嘩だとからかってくる。
「あんたまで、不良になっちゃったの?」
「一条は不良じゃないよ」
「不良じゃん! 隣町の不良とつるんでるし!」
「それただの噂……」
「それに一条さん、援交だってしてるんだよ!」
トワコが叫んだのと同時に背後でドアの開く音がした。冷たい風がびゅうっと吹き抜ける。
目の前にいるトワコ達の顔が一瞬にして強張ったのを見て、俺は誰がドアを開けたのか解ってしまった。
「……」
振り返ると、一条はドアに手をかけたまま、俺達を見ていた。
俺は何か言おうと口を開いたが、それは一条の声によって遮られた。
「……邪魔」
何も聞いてないような顔して彼女は、俺達を押し退け教室に入った。
一条が来てくれた嬉しさよりも、彼女を傷付けてしまった罪悪感の方が大きかった。
なのに、ひとりで窓際の席へ座った彼女に、何も言えなかった。思い浮かばなかった。
「なにあの態度」
トワコが呟くと、周りの女子も頷く。
「別に来なくていいのにね」
「やめろよ、そういうこと言うの」
「だって本当だもん」
少しも反省していないトワコに、腹が立った。どうしてよく知りもしない一条に対して、そんな言葉が出てくるんだろう。
「お前いつから、そんな嫌な女になったの」
少しきつい口調で言ってしまった。
しまった、と思った時には遅かった。
数秒後、響いたのはトワコの泣き声。
わっと泣き出した彼女は、そのまましゃがみ込んで顔を隠した。
いきなりすぎて、俺は一瞬何が起こったのか理解できなかった。目の前の光景に思考がついていかず、驚いて息まで止まってしまった。泣くほどのことを言っただろうか。
我に返った時には、もう既に周りの女子達に責め立てられている
時だった。
「最低! トワコはあんたのこと心配してたのに」
「そうよ、謝りなさいよ!」
近くにいた女子達は一瞬にして、俺を責める係りと、トワコの背中を慰める係りとに綺麗に別れた。女子の団結力である。
トワコの背中を女子がさすっている。
「トワコちゃん、大丈夫?」
まるで強姦でもされたかのような騒ぎだ。
「だって、あいつが……私、あいつの為に、」
しゃくり上げながらトワコが言う。見事な泣きっぷりだ。
何だか茶番に思えて少し笑ってしまった。
教室内がざわつき始める。誰もが泣いているトワコの近くに寄ろうとした。木偶の坊のように突っ立ったままの俺を見ていたのは、一条だった。
口の端を吊り上げて、苦笑いを浮かべると彼女はふいと顔を背けてしまった。
「えー、誰が泣かしたの?」
「こいつよ、こいつ」
「すぐ泣くなよトワコー」
「男子うるさい!」
気にすんなよ、と俺の肩を叩いたのは雅人だった。どうやら男子はかろうじて俺の味方らしい。
そうこうしているうちに先生が来た。
トワコはもう泣き止んでいたが、大袈裟な先生がトワコを保健室へ連れて行った。
俺はトワコの友達からの痛い視線を受けながら、その日を終えた。
一条とは、一言も話さなかった。