色を増す
冬休みも間近になった頃だった。
「一条さんと、仲良いみたいだね」
担任の田中先生に呼び出された俺は、放課後の職員室にいた。
コーヒーの匂いが充満している職員室は、どうしてこうも温かく感じるのだろう。
「仲良いっていうか……」
「一条さん、君とならちゃんとお話しするんだって?」
どうせ誰かがまた先生に下らない事を吹き込んだのだろう。
別に一条は、俺だから話すわけじゃない。俺以外、まともに話しかけないだけだ。どうして大人なのに、解らないのだろう。
「一条さんのお家に持って行ってあげてくれないかな?」
ショートカットの田中先生が、媚びるように渡してきたのはプリントの束。
ここ最近休みがちな一条の為に取って置いたもののようだ。
「一条……さん。何で休んでるんですか?」
そう尋ねると、田中先生は困ったように首を捻る。
「それが、先生にもよく分からないの。一条さんの親戚の方も、お仕事が忙しいみたいで電話しても繋がらないし。もしかしたら風邪をこじらせてるだけかもしれないけど……心配でしょ?」
先生が心配しているのは、自分の評価だろう。自分が受け持ったクラスにひとりでも登校拒否の生徒なんか出てしまったら、色々と面倒だから。
そう思ったが、何も言わずに頷いた。
確かに心配だし、何かあったんじゃないかと俺も思っていたところだ。
不貞腐れた態度を取っていても、毎日ちゃんと学校には来ていた一条。
もしかすると、前のマラソンの授業の時、俺があんなことを言ったから来なくなったのだろうか。高校に行かないと言った一条に、そのわりにはちゃんと毎日来るよな、なんて。からかったと、思われたのか。
「分かりました。今日、寄ってみます」
安心したように田中先生は微笑んだ。自分も行けばいいのに、とは言わなかった。行ったところで、一条相手じゃきっと何も変わらないだろう。
まぁそれは、俺もなのかもしれないけど……。
「お願いね」
田中先生の机にある水色のマグカップ。煎れたばかりだろうコーヒーが、のんびりと湯気を立てていた。
それから俺は、先生に教えてもらった道順を頼りに一条の家へ(正しくは一条の親戚の家へ)向かった。
薄暗くなった外には、ぼんやり白い月が浮かんでいる。
寒さでかじかんだ手をポケットに突っ込み歩きながら、寒さに耐えてまであんな短いスカートを履く一条に改めて感心した。
そして、ふたりで帰ったあの雨の日に一条と別れたスーパーマーケットを通りすぎる。
途中少しだけ寄ってみたけど、一条らしき女の子の姿はなかった。
家が近付くにつれ、少しずつ少しずつ緊張が増す。
そしてとうとう、目的の家の前まで来た時、俺の心臓は破裂しそうなくらい速くなっていた。
何せ会うのは約1週間ぶりだ。しかも、学校で会うのとは違う。一条の住んでいる家まで来たのだ。
表札に佐々倉と書かれたその家は、見上げるほど大きな三階建てだった。
きっとお金持ちなのだろう。
どっしりした門構えも立派である。うちのボロ家とは比べ物にならない。
「これが一条の……」
暫く呆然と立ち尽くしたあと、何度か深呼吸して門の呼び鈴を鳴らす。
ドキドキしながら待っていると、すぐに玄関のドアが開いた。
(一条? いや、)
一瞬、一条本人が出て来たのかと思ったが、違った。
ドアを開けたのは、同い年くらいの女の子だった。
「あなた誰?」
一言話しただけで育ちの良さが分かるような、上品な印象を受けた。
きょとんとした顔のその子に俺は、緊張してつまりながらも答えた。
「あの、えーっと、用事があって。その、プリントを一条……あやね、さんに」
彼女の名前を口にした途端、女の子の表情が変わった。
「あやねなら、いないけど」
投げるように言い放った言葉。嫌悪感を隠そうともしない。
固く閉じられた門を挟んだまま、その子は半分開けたドアから出て来ようともしなかった。
「一条さん、出掛けてるの?」
「さぁ?」
「一緒に住んでるんだよな」
「当たり前でしょ。ここ私の家」
イライラしているのが分かる。俺は更に問い掛けた。
「君は誰?」
「誰って……。この家の娘。居候のあやねと違って、本当の娘だから」
纏う雰囲気も、容姿も、一条とは全く違っていた。
きっとこの娘のそばを通っても、一条のあの香りはしないのだろう。
「最近一条、学校に来てないんだ」
「誰も何も知らないよ。ここに帰って来るのも夜遅いし」
一条が居なくても、この家の歯車は正常に動くのだろう。いや、学校だってそうだ。クラスだって、みんなだって。
でも――、俺は違う。
「あなた、あやねの友達?」
「そうだよ」
「ふぅん。意外」
じっとりとした目で俺を見る。それこそ、頭のてっぺんからつま先まで。意外って、どういう意味だよ。
「心配じゃないの?」
「私、あの子嫌いだから」
「君、中学生だよね」
「うん。あなたもそうでしょ」
「君は、高校に行くの?」
目の前の女の子は酷く顔を歪めた。まるで汚ないものを見るかのような目を俺に向けてくる。
よく見ると、彼女が今着ているのは、この辺では有名な進学校のブレザーだった。
こんな大きな家なのに、一条は高校に行けないのだろうか――
結局、プリントだけ預けてきた。
帰り道、思わず俺は濃い溜め息を吐く。
あの家に一条の居場所がないのは解った。
だけど、学校にもいない、家にもいないとなると、一体彼女は何処にいるのだろう。
まさか本当に、隣町の不良とつるんで煙草でも吸っているのだろうか。
(まさかな……)
ふと頭に浮かんだのは、町唯一の繁華街だった。
あそこなら、ゲームセンターやボウリング場など学生の溜まり場がいくつかある。
そして、俺が心配している隣町の中学校も近い。
(ちょっと見てみるだけだし)
先程までぼんやりとしか見えなかった月も、今でははっきりとその姿を捉えることができる。
それに気付くと今度は、温度までぐんと下がった気がし、つい身震いした。
(お腹すいたな)
帰ろうかと思ったが、足は繁華街の方へと歩き出していた。
明日もまた、ひとつだけ空いた窓際の席を見るのは嫌だったからだ。
久しぶりに来た繁華街は、思った以上に廃れていた。
シャッターは閉まっているところが目立つし、うるさいのはパチンコ屋くらい。
人はまばらで、帰宅中のサラリーマンやOLが殆どだ。
ゲームセンターを覗いてみると、学生服の中高生は何人かいたが、一条らしき女の子は見つけられなかった。
絡まれない程度にゲームセンター内を彷徨いてみた。途中格闘ゲームの台を見学してみたり、プリクラコーナーにも立ち寄ってみたが、全て空振りに終わった。
まぁ簡単に見つかるとも思っていなかったけど。
がっかりしたような、安心したような。でもやっぱり……会って話したかったかな。
ゲームセンターを出れば、あとはボウリングかカラオケくらいしか思い付かない。あ、あとネットカフェ。
だけどどれも入るのにはお金がいる。手持ち金はごく僅かだ。
やっぱり無理かと諦めて帰ろうとした。とんだ無駄足だったと。
繁華街を抜ける時、無意識に視線がいったのは、下品に光るラブホテルのネオン。
「……」
いるわけない、と思いつつ近くまで寄ってみる。
人の目から逃れるように、ひっそりと佇むいくつかのホテルは逢い引きにはぴったりだと思った。
ホテルから出て来た男女が、学生服の俺を見て驚いた顔をする。が、すぐに表情を隠し、こそこそと繁華街の方へと歩いて行った。
この雰囲気に耐えられず、俺はホテルから離れて繁華街を抜けた。
俺もいつか、あのホテルにお世話になる日がくるのだろうか。雅人や、清田や、トワコや、そして一条も。あまり考えたくない。
気分が重くなると、無意識に目線も下になる。
俯いた姿勢のまま歩いていたので、前から歩いてきている人物が、一条だとすぐに気が付かなかった。
(――あ、)
香ったのは、あの匂い。
すぐに浮かんだ鮮やかなピンク色。冬の冷たい空気に乗って、それは俺のところに届いた。
顔を上げた時、丁度すれ違った一条あやね。
俺の方など少しも見ずに通りすぎていく。
「一条……」
叫んだつもりだったのに、口から出て来た自分の声はひどく弱々しいものだった。
それでも一条には聞こえていた。
振り返る彼女。そして少しだけ、首を傾げてこちらを見る。
俺だと気付いた時の彼女が、一瞬だけ泣きそうな顔になった。
しかしすぐに、いつもの仏頂面に戻る。
「一条、なにしてんの?」
一条は、いつもの見慣れた制服姿だった。学校に来ていないのに、制服を着ている彼女。
もしかすると、家の人にちゃんと学校に行ったと思わせる為に、わざと制服を着て家を出たのかもしれない。
だとしたら、先程の女の子に一条が学校に来ていないことを話してしまった俺は、かなり余計なことをしたんじゃないだろうか。
「今帰るところ」
特に焦るわけでもなく、一条は言った。
「嘘だ。家、反対方向じゃん」
1週間ぶりに見ると、少しだけ痩せたような気がする。寒いのか、首に巻いたマフラーをぎゅっと握り締めていた。
暫く俺を睨んだあと、なに言わずに去ろうとした。
せっかく会えたのに、このまま行かせたら意味がない。
そう思い、嫌われることを承知で、繁華街の中へ入ろうとする一条の腕を掴む。
「帰ろうぜ」
「……」
何なのあんた、と一条が言う。
俺にもよく分からなかった。