雨のつよい日に
「一条さんって、どうして転校してきたの?」
ある時、クラスの女子が一条に向かってそう言った。
一条は座ったたまま、ためることなく言い放った。
「親が死んだから」
「……」
これは噂好きのうちの母親から聞いた話だ。
彼女は、もともと片親で育ったらしい。
小学生の頃、唯一の肉親だった彼女の母親が事故で亡くなり、何年も親戚中をたらい回しにされた結果、今この町に厄介払いされてきたとのことだ。
時折気だるそうな横顔を見せる時の彼女は、14歳の少女などではなく、女だった。
学校にいる女子生徒の誰とも違う。
少なくとも、俺の目にはそう写った。
すれ違うたびに、近くを通るたびに、彼女から甘い匂いがする。
体育の授業前、体操着に着替えている時クラスの奴らにそう言うと、俺も俺もと何人かの奴が賛同した。
すると誰かがこう言った。
「でもさぁ、トワコもいい匂いするべ」
トワコ、とは俺達のクラスでわりかし可愛いと言われている女子だった。
「確かにトワコいい匂いするな」
「なんか、力が抜けるよな、トワコの匂い」
「違ぇーよ。トワコのはシャンプーの匂いじゃん。一条は、香水付けてんだよ、香水」
あぁ〜なるほど、と誰もが頷いた。
あの色のついたような匂いは、香水だったのか……。
小さな瓶に水が入っているだけのものなのに、随分値段がしたような気がする。
一条が預けられている親戚の家はお金持ちなのかもしれない。
「俺、あの匂い苦手」
誰かが言った。俺も俺もと何人かの奴が賛同して、その話は終わった。
その日の放課後、学級委員の俺は先生の手伝いで帰りが遅くなり、下校しようとした時にはもうほとんどの生徒が帰ってしまったあとだった。
「あーあ」
昇降口に降りた時、雨が降っていることに気がついた。
そう言えば、今朝お母さんから折り畳み傘を持たされていたんだっけ。
重いからいらないって言ったのに、『今日は午後から雨が降るって』と無理矢理押し付けられたのだ。
俺は鞄から紺色の傘を取りだし、頭上に広げた。
曇天の空がゴロゴロと低く唸っていて、大きな雨粒はどれも勢いよく地面に落ちていく。
早く帰ろうと走り出した時、前方に校門を抜けていく一条あやねの後ろ姿を見た。どこにいても目立つから、すぐに分かった。
少し走るとすぐに追い付いた。
彼女はずぶ濡れになりながら、早足で歩く。
この寒さの中、雨に打たれるのは辛いだろうな。
「……」
一条あやねには、傘を持たせてくれる大人は、いなかったのだろうか――。
俺は近くまで寄って、傘を半分、一条あやねの方に寄せた。
彼女を濡らしていた雨は止み、驚いたような顔をして一条あやねが俺を見た。
相合い傘なんて、誰かに見られたら間違いなくからかわれるだろう……けど。
「なに?」
良いことをしているはずなのに、何故か一条あやねの目を見ると後ろめたい気持ちになってしまった。
まともに話すのも、目を合わせるのさえもこれが初めてだ。
緊張しながら、俺は言った。
「傘、持ってないみたいだから……」
「いらない。家すぐだから」
ばっさりと切り捨てた一条だが、鼻先が寒さで赤くなっている。髪も、顔も、制服も濡れているのだから、当然だろう。
「家どこ?」
「鴨部」
すぐ、じゃないじゃん……。
一条あやねは迷惑そうに、額に張り付いた前髪を掻き上げる。
あぁそうですか、と一度差し出した傘を引っ込めるわけにも行かず、俺は粘った。
「俺んち途中まで一緒だから、それまで入れよ」
「……」
疑り深そうな目で俺を睨んでいたが、案外あっさり折れた。やはり寒かったのだ。
こうして俺と一条あやねは肩を並べて歩く。
何だか不思議な光景だ。昨日まで、全く関係ない相手だったのに、今一緒に帰っているなんて……。
クラスの奴らに見られたらちょっと面倒かな、と自分から誘っておいたにも関わらず、そんなことを考えてしまった。
「……」
「……」
会話はない。
俺も何を話していいのか分からない。どんなことを言っても無視されそうな雰囲気がある。
足音さえも、この雨でかき消される。
それなのに俺の声がこの女に届くわけないと思った。こんなに近くにいるけれど。
しかし意外にも、話しかけてきたのは一条あやねの方だった。俺は驚いて、思わず握った傘を落としそうになる。
「本当はすごく寒かった。ありがとう」
まさかお礼を言われるなんて思ってもいなかった。
隣りの一条を見ると、何でもないような顔してすましている。
「一条……さん、学校慣れた?」
「うん」
「もうすぐ2ヶ月経つな」
「うん」
会話が弾まない。必要最低限の返事しか返ってこないからだ。
ありがとうなんて言われて、俺は少し調子に乗っていたのかもしれない。彼女はすぐに、心を閉ざしてしまう。
ふと、俺はなんでこんなに、一条あやねに絡もうとしてるんだろう。そんなことを思ったが、深くは考えないようにした。
「前の学校って、どんな制服だった?」
「男も女もブレザー」
「さすが東京だなぁ。この辺じゃブレザーなんて金持ちが集まる進学校くらいだよ」
「そう」
やはり弾まない。
この女がどんなことに興味があるのか皆目検討もつかない。
なんだか気を使ってばかりで疲れる。
こんなことになるなら、無視してひとりで帰れば良かった。
やけくそになった俺は、いっそ一番聞きたかったことを聞こうと口を開いた。
「なんで、そんな格好してるのさ」
一条がギロリと俺を睨んだ。
くっきりとついた二重の女の子は、この町じゃ少しばかり珍しい。
北の地方に住んでいる人間は、一重瞼が多いのだ。それは寒さから身を守ろうと、瞼に肉がついて厚くなるからだと、死んだばあちゃんに聞いたことがある。
本当かどうか知らないけど確かに俺はこの町で、こんなにくっきりした二重の奴を見たことがなかった。
「そんな格好って?」
そう言った一条あやねは、特に俺を責めるような口調ではなかった。
「靴下は、白じゃないといけないって決まってるんだぜ」
「知ってる」
「じゃあ何で、紺色の靴下履いたり、髪染めたり、ピアスつけたりしてるんだよ」
あと、香水も。
だけどそれは言わなかった。なんとなく。
一条は小さく溜め息を吐いた。
明らかに面倒くさそうな顔をしている。
つまらない奴だと言われた気がして視線を反らした。
誰もいない公園が目に入る。
ブランコや鉄棒がなす術もなく、雨にさらされていた。
こうして何もかも、ゆっくりと錆び付いていくのだろう。
やがて、一条はゆっくりと口を開いた。
「白い靴下を履いても、意味がないから」
スーパーマーケットの前まで来ると、ここでいい、と一条は言った。
そしてするりと傘から抜けて自転車置き場の屋根の下に身を収める。
「ここで、傘買うから」
「……分かった」
「じゃあね、」
スーパーの中に入ろうとする一条に向かって、俺は言った。
どうしても、さっきの言葉の意図が分からなかった。
一条は、単純にみんなと同じ格好をすることが嫌なのだろうか。
みんなと違う自分でいたいと、みんなが思っているように。
「意味がないって、どういうことだよ」
ただつまらない反抗心で校則を破ったり、ひとりでいようとしているのなら、それこそ意味が無いのではないか。
「紺色の靴下履いたり、髪を染めることには、ちゃんとした意味があるっていうのかよ」
一条は、寂しくないのだろうか。
いつもひとりで、誰かと大声で笑うこともせず。
真剣な顔しているだろう俺を一瞥したあと、彼女はいつもの声音で答えた。
あるよ、と。
「分からないの? まだ子供ね」
茫然とする俺をその場に残したまま、彼女は黙って背を向けた。
「……」
俺はひとり、傘の柄を握りしめたまま突っ立っているしかなかった。
ザァーっと雨音が強まった気がしたが、それは気のせいだったようだ。
(どうしてだろう――)
一条の言葉がいつまでも、耳にこびりついて離れない。
誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「……わかんねェ」