そうして君は死んだのだ
土曜の朝だというのに早起きをした俺を見て、空豆を剥きながら母さんは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの、まだ5時よ」
「いや、」
一条との約束は昼過ぎなのだから、こんなに早く起きる必要はどこにもなかったのだけど、目が覚めてしまったのだから仕方がない。
しょうがなく、マラソン大会に向けてジョギングに行く為だと嘘をついた。下手に詮索されると面倒臭い。
かなり怪しまれたものの、母さんはそそくさと休日出勤の父さんのための弁当作りに戻って行った。
俺はジャージに着替え、マフラーと手袋を着けてまだ暗い明け方の外へ出た。
群青色の空には白んだ月が出たままだ。
冷たい空気を思いっきり肺に吸い込み、同じ量だけ吐き出した。走り出すと、耳が風を受けてピリピリと痛む。
近くの山からチチチと鳥の鳴き声が響いていた。
いちに、いちに。
頭の中でリズムを取りながら足を前に出す。体はすぐに温かくなり、5分も走ると背中に汗が滲み始めたが、相変わらず吐く息は白い。
(どこまで行こうかな)
商店街の方は、この時間だと朝まで飲んでいた酔っぱらいが潰れているし、生ゴミ臭い。
学校の方は、信号が多くて鬱陶しい。まぁこんな時間に走っている車なんてたかが知れているのだけど。
結局定番のジョギングコースである川沿いへ向かうことにした。
起きたてだというのに体が軽い。この調子でマラソン大会でも良い成績を納められるんじゃないだろうか。
履き古したスニーカーが泥濘を踏んだ。夜中に雨が降っていたらしい。気にせず走り続けていると、やがて駅が見えてきた。
電車だが、この田舎では何故か汽車とみんな呼んでいる。
まだ自動改札も出来ていない廃れた駅だけど、この町の人間が他県へ出る時に使う唯一の駅だ。
その駅を横切り、真っ直ぐ進んだところにばあちゃんちがある。この時間なら、もう起きて朝ごはんの仕込みをしていることだろう。
ばあちゃんが作る栗ご飯を思い出してお腹が鳴りそうになった。
ちょっと寄って行こうかなと思い、駅の方へ向かう。
その時、遠目に一条によく似た女の子が見えた。
思わず足を止めて目を凝らす。
茶色い髪に、黒いダウンジャケット。
よく見えないが、ホームに続く階段を上がっている。重い荷物を持っているのか、その足取りはかなり遅い。まるで、旅行にでも行くみたいだ。
足は自然と駅に近付いて行った。鼓動が早くなるのを感じる。先程とは違う種類の汗が額に滲んだ。
(一条? まさか。似てただけだ)
人はおらず、小さな売店もまだシャッターを閉じている。
一台しかない切符売り場を抜けると、眠たそうに立っている駅員に呼び止められた。
「きみ、切符買ってないだろう」
「あ……」
そうだ。ホームへ行くには切符を買わなくちゃいけない。
このまま帰るという選択肢は無かった。
一条は言ったのだ。俺は今日一条と約束をしたのだ。子犬を見せるという約束を。
ここで確かめないと、一生後悔するような気がした。
だって、さっきのまるで……夜逃げしてるみたいに見えた。
「今誰かホームに行きましたよね?」
駅員は少し怪訝そうな顔をする。
「え? あぁ……」
「どんな子でしたか!?」
「どんな子って……きみと同じくらいか、ちょっと年上くらいの女の子だよ」
俺はポケットの中から小銭を出し、一番安い切符を買って階段を駆け上がった。途中時刻表を見ると、始発は20分後だ。
ざっと見渡すと、まだ点いていない電工掲示板。吹きさらしのしんとしたホームには、ベンチに座った女の子が一人、俯いたままじっと座っていた。
乱れた呼吸を整えてゆっくり近付く。
ピンク色のキャリーケースを横に置き、脚を組んだ彼女の前に立つと、その顔がぴくりと反応し、俺を見上げた。
「……」
一条は相当驚いたのか、俺と目を合わせたまま動かなかった。口をポカンと開けたまま何も言わない。
「何、してんの……」
様々な感情が喉元まで込み上がってきて、声が掠れた。俺は、泣きそうな顔をしていたかもしれない。
すると、どうして此処にいるのかと質問を質問で返される。もう、うんざりだ。
「俺の質問に答えろよ」
つい語気が荒くなった。一条は何を考えているのか未だ読めない。寒さで赤くなった彼女の鼻先だけが、妙にリアルだった。
「座れば」
促されて隣に腰を下ろす。
暫く沈黙が流れた。先程まで温かかった自分の体が、今はもうつま先まで冷たい。
「町を出るの」
予想していた答えだけにショックを隠しきれず、膝の上で拳を握りしめた。それでも、できるだけ冷静に言葉を繋ぐ。
「どこに行くの」
「東京」
「いつ、戻って来るんだよ」
「もう戻って来ない」
ぱんぱんに膨らんだキャリーケースが彼女の言葉以上に状況を物語っていた。胸が痛い。いや、重い。
「なんで、突然」
約束したじゃんか。今日。何で。
一条はしばらく何も言わなかった。俯いたままで、俺の方すら見ない。刻一刻と、始発の時間が近付いてくる。
俺は焦っていた。どうやったら、彼女を止められるか。
そもそも、俺達はまだ中学生だ。家出というには、此処から東京はあまりにも遠すぎる。向こうへ行って頼れる人なんかいるんだろうか。一条の親戚は、知っているんだろうか。
「……」
行くなと言うのは簡単だ。だがその程度の言葉で一条が考え直すとは到底思えない。もっと、相手の心を打つような言葉が必要だ。一条が俺に対してそうだったように。
だけど駄目だ。今しかないのに、なのに……今は何も思い付かない。
階段から誰かが上がってきた。先程とは違う駅員だった。彼は俺たちを視界に捉えると、またすぐ視線を逸らしてホームの先頭に立った。これから来る始発に備えているんだろう。
「本当は、もっと早くに行くつもりだった」
一条は言った。それは彼女にしては珍しいくらい、弱々しい声だった。いつもの刺々しさも消えている。
「……お金も貯まったし。誰にも何も言わないで、冬休み中にはさっさと出発して、新学期は行かない筈だった。でも気付いたら、こんなに遅くなってたの」
「……何で」
「最後に、もう一度あんたと話がしたくて」
思わず一条を見る。髪の毛に隠れて、表情がよく分からない。
何か言わないと。
考えるほど分からなくなる。
俺に会う為に?
どうして今そんなことを言うのだろう。そして、それならどうして今、町を出ようとするのか。
「行……くなよ」
彼女は静かに首を横に振る。
「俺達まだ子供だし、ひとりで東京なんて大変だよ」
「うん」
「多分すっげー苦労するよ」
「うん」
「泣くかもしれないぞ」
「うん」
「それでも、行くのか」
「うん。それでも行く」
「……」
「ねェ……寒いね」
本当に寒そうだ。彼女はお腹の前で腕を組んで、小さく貧乏ゆすりをし始める。
「一条……聞いていい?」
「いいよ、最後だし」
「俺達、もう一生会わないのかな」
「多分」
「……もう一度、会いたい人とか、やり直したいことってある? たとえば、一条の、亡くなったお母さんとか……」
一条は地面を見詰めたまま再び首を振った。
「もう一度、なんて言ってたら自分のことも許せなくなる。抱えられないでしょ、今まで起こったこと全部なんか」
よく分からないまま俺は頷いて聞いた。
「なぁ、一条のお母さんは、一条に何をしたの?」
「それは言わない」
「ごめん……」
「私に起こった出来事を、何もあんたまで背負うことないでしょ」
始発を知らせる音楽が、年季の入ったスピーカーから聴こえてきた。
駅員が腕時計を確認し始める。
時間は静かに、でも確かに進んでいた。
「なぁ、あの時さ、何で笑ったの」
「あの時?」
「屋上で」
「あぁ……」
死にたくなると言った科白に、俺が殺してやろうかと一条に言った。あの時彼女は確かに笑ったんだ。
笑う必要なんてなかったのに。泣いても、良かったんだ。
だってお前、本当は、泣きそうな顔してたじゃん。何で笑ったんだよ。
「だって、それまで生きてって、あんたが言ったから」
(……確かに、言った)
「一条、死ぬなよ」
「はぁ?」
「だって……」
「私は簡単に死んだりしないよ。憎まれっ子世に憚るって言うでしょ」
「?」
「嫌われ者ほどしぶとく生きるってことよ。それでいくとあんたみたいなタイプは早死にするわね」
「はは」
遠くの線路からライトが見えた。どんどん近付いてくる。駅員が笛を鳴らし、一条は立ち上がった。
電車が錆び付いた悲鳴を上げながら目の前で止まる。
中にはぽつぽつと人がまばらに座っている。
電車はあと3分後に動き出す。
「じゃあ、行くわ」
キャリーケースを握り締めて一条は歩き出す。そして今日初めて俺の方を真っ直ぐ見た。
猫のような丸い目に、花びらのように薄い唇。
本当にもう会えないのだろうか。紺色のハイソックスも、授業中窓の外を見るあの横顔も、そして、心を激しく揺さぶるような、甘い匂いも。やがてなかったことになるのだろうか。
寂しい。
でも、引き止めることはしなかった。何故だかは、解らない。
そして俺には、一条の言っていた言葉の意味がよく分かった。
あの時屋上で彼女の放った言葉の意味が。
どうしてそんなことを言うのだろうと悲しく思っていたが、あの時の一条は、自分がいなくなることを知っていたからああ言ったのだ。
『死ぬって、ねぇあんた知ってる? 亡くなるだけじゃないんだよ。会わなくなった人は、自分にとって死んじゃったのと同じなんだよ』
『……一条は、死んじゃうの』
『うん、死ぬ。多分、死んじゃう』
「あんたが、来ないかなって、心の中で思ってた。そしたら本当に来たから、びっくりした」
「……」
「本当は、凄く嬉しかった。ありがとう」
「一条……」
雨の日にも、彼女は言った。
傘を差し出した俺に対して、ありがとうと寒さで震えながら。
「一条、」
「なに」
「……一条の中には悪魔がいる」
「何よいきなり」
「もちろん俺やトワコや雅人、みんなの中にも悪魔がいる」
「……」
「時々さ、その黒い悪魔が、自分より前に出ちゃうんだ。大きくなっちゃうんだ」
何を言いたいのか、自分でも解らない。だけど、自然と言葉が口先から滑り落ちた。
じっと下を見詰めたまま、一条がどんな顔をしてるのかも確めず俺は続けた。
「でもさ……そこで負けちゃ駄目なんだよ。その悪魔をさ、一条が、その悪魔をお前がぐいって後ろに引っ張るんだ。……みんなそうなんだ。特別なことじゃないんだ。勝てるよ、一条なら。どこに行っても……」
「……」
「だって……俺は知ってるよ……。一条が本当は、みんなに見せてる姿より、何倍も素直な奴だってこと。優しいってこと」
彼女は……自分を守る言葉を使わない彼女は、とても解りにくい優しさを持っているのだ。
そう俺は信じている。だから一条にも信じてほしい。自分自身が持つ優しさを、強さを。
一度も触れたことのなかった一条の手が、俺の手を掴んだ。
握手をするのかと思ったが、そうではないようだ。俺の手の甲を握ったまま、一条はしばらく何も言わず黙っていた。
手袋の上からでも分かる彼女の掌の冷たさ。こんなに細い体で、ここでの冬はさぞ辛かっただろうと何故か俺が申し訳なく思う。もちろん寒いからという理由で町を出るのではないのは分かっている。一条の心は一条にしか解らない。
彼女は言った。
「元気で……」
俺はどうしたって叫びだしたい衝動に駆られた。
心と体が引き裂かれるような別れなんて、今だかつて経験したことがなかった。こんな感情を俺に植え付けて勝手に去ろうとする一条に対して憎いとさえ思った。
思い出というには、彼女と過ごした時間はあまりにも短すぎた。
何とか声を絞りだし、元気で、と言い返したが、本当に伝えたい肝心な言葉が喉につかえて出ない。
もう発車の時間だ。
一条が電車の中に乗り込む。
発車します、と駅員の声。
「ねぇ、そういえば」
彼女は最後に、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「あんたの名前、何だっけ」
次の瞬間。
答える前にドアは閉まる。
電車が走り出した音に隠して、君が好きだと言った。
線路の向こうに消えていった電車を見送ると、辺りはまた静寂に包まれた。
さっきの駅員もどこかへ行ってしまったようだ。次の電車が来るのはあと一時間後。
俺はその足でホームを駆け下り、駅を飛び出した。
走って走って走って。冬なのに暑かった。
向かったのは雅人の家。先程までに比べると、空は随分明るくなっていたが、当然まだ寝ているだろう。
それを分かっていたが、迷わず玄関のチャイムを鳴らした。
少ししてから中から鍵が外される気配がする。
「あれ、早起きだね。どうしたの?」
出てきた雅人の妹は、眠そうな目をしぱしぱさせながら尋ねてきた。息を切らして突っ立ってる俺を不思議そうに見上げる。
「雅人、起こしてもらっていいかな」
「うん」
ドアが一度閉められ、すぐに中から、お兄ちゃーん! という声が聞こえた。
そのまま待っていると、再びドアが開いた。
不機嫌な顔した寝起きの雅人が寒い寒いと言いながら出てくる。
「何だよ、こんな朝っぱらから」
そう言ってガシガシと寝癖のついた頭を掻いた。
「なに? お前走ってたの?」
「雅人、」
「あ?」
「一条が……」
俺達は三年生になった。
クラスはそのまま繰り上がって教室の顔ぶれはそのままだ。
相変わらず放課後になると清田の家に集まる毎日だったが、受験も重なってその回数も段々と減っていった。
「やっぱ滑り止めでB高受けた方がいいかなー」
「でもお前、A高推薦だろ?」
「うーん……」
初めは俺も先生たちから一条のことを聞かれたりもしたが、知らないの一点張りで通した。今ではもう、誰も一条の話はしない。
はじめから居なかったようなそんな空気になっている。
彼女が今何をしているのか、東京でどんな暮らしをしているのか、そもそも本当に東京へ行ったのか、俺にもそれを確める術はない。
一条がいてもいなくても、みんなの歯車は滞りなく回る。
人も疎らになった放課後の教室。雅人は部活の時間だ、とスポーツバッグを持って立ち上がった。
「お前どうする、帰る?」
「いや、ちょっと職員室寄ってく」
「そっか。じゃあな」
「おう、また明日」
雅人が教室を出たあと、俺も荷物をまとめて席を立った。
窓から見えた校庭の木には、もう桜が咲いている。
窓の外を授業中、熱心に見詰めていた彼女はこの木が桜の木だと知っていただろうか。
東京へ去ってしまうことを躊躇わなかった一条はもう既に揺るぎない強さを潜めていたんだろう。そしてやはり、彼女の居場所は此処ではなかったのだと改めて思う。此処では彼女の強さを持て余してしまう。それを彼女自身誰よりも解っていたのだ。
だけど、と俺は思う。
あの日、あの時の全てが無意味なものだったとは、誰にも言えないのだ。
そして俺は、今思うと随分あっさり彼女を見送ってしまったことに対して少し後悔している。
力ずくでも、電車に乗るのを止めれば良かった。何より、もっと自分の感情をぶつければ良かったのかもしれない。ぶつけても良かったのかもしれない。たとえ結果は、変わらなかったのだとしても。
俺は今でも、ふとしたときに彼女が現れるんじゃないかと思うことがある。
たとえば商店街を横切った時、たとえば授業中、たとえば図書室で勉強をしている時。色んな場所に一条あやねは現れる。
そして言うのだ。
寒いね、と。
だけど俺は頷かない。
だってもう、この町には暖かい春風が吹いている。
そして、とても大切なものだった気がするのに、俺には彼女のあの甘い匂いがどんなものだったのか、もう分からなくなってしまった。
そうして君は、死んだのだ。