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背負ったものの重さ

 その日の五時間目はちょうど、体育の授業があった。

 マラソン大会が来週にあるから、体育の豊田先生の気合いの入り方も半端じゃない。

 昼食の後だから体が重い。豊田は少しでも手を抜いて走っている生徒を見つけると脅しにかかるので女子も男子もみんな必死だ。

 しかしやはりというか、一条は他人事のように、木陰に座ってひとりそれを眺めていた。

 一条だけサボることを許されているのが不思議だ。そしてそれが、更に周りの反感を買う。

「いいなー、一条は特別扱いで」

「ほら、あいつ親死んでるし。先生達も気ぃ使ってんだよ」

 周りの声はいつだって、好き勝手にその場を通り過ぎていく。

 体育の授業が終わったあと、俺は一条のもとへ駆け寄った。

 いつものごとく反応は薄いけど、あからさまに鬱陶しそうな顔をされなかった。

「マラソン大会も出ないつもりなの?」

「それ、出る意味あるの?」

「うーん……」

 質問を質問で返された。まぁ、いつもの一条だ。

「走るの意外に悪くないよ。多分、一条が思ってるほど」

「あっそ」

 目は口ほどに物を言うとはまさにこの事か。

 私が思ってることなんかわかんねーだろ、と言われた気がする。

 彼女はずっと座りっぱなしで寒かったのだろう。短いスカートから出た脚がほんのりと赤みを帯びていた。

「着いてこないでよ」

 先を歩く一条が冷たく言った。こちらも振り返らず。

 彼女はチラチラとさりげなく周りを見渡しながら早足に歩く。

 教室には向かわず、他の生徒の影に隠れるようにそのまま上へ続く階段を上って行った。

「どこ行くんだよ」

「……」

 完璧に無視を決め込んでいる。

 俺は迷わず一条の後に続いた。着いてくるなと言われたけど、一条に命令される覚えはない。

 一条は三階の廊下をペタペタと歩き、一番奥のドアを開けた。そこは図書室だった。

 図書室なんて、あるのかないのかよく分からないほど誰もこない。みんな私語厳禁の部屋で本を読むより、教室で馬鹿笑いしていたいのだ。

「意外だな、一条が本読むなんて」

 静かな図書室では、いやに声が響く気がする。

 ガタガタと音を立てて椅子を引いた俺に対し、一条は呆れたように、壁に貼ってある紙を指差した。

『図書室で静かにしましょう』

(変なとこで律儀だな)

 思いつつ、そっと椅子に座る。

 向かい合って何をするのかと言えば、特に何もすることはない。

 俺は机に両肘をつき腕を組み、目の前にいる一条を見詰めた。

 一条も一条で本を読むわけでもなく、携帯を取り出して暇そうに親指を動かしている。

 これじゃあ何だか、父親と反抗期の娘のランチタイムのようだ。

「高校は、行った方がいいよ」

 彼女は、眼球だけをギロリとこちらへ向けた。

「しつこいな。あんた、高校が義務教育じゃないって知らないの?」

「知ってる。でも、行った方がいいと思う」

 一条は携帯を机の上に投げた。その衝撃でバン、と音が響く。

「余計な心配、どうもありがとう」

 口調と表情は、恐ろしいくらいに柔らかい。

 俺はつい目を反らしてしまった。ビビったんじゃない。そうじゃない。多分。

 何も言わないでいると、彼女は短い溜め息を吐いた。遠くでチャイムが鳴る。六時間目が始まった。クラスメートはみんな体育ジャージから制服に着替えて席についているだろう。

 俺は自分のジャージの袖をぎゅっと握った。無意識だった。どこからかやってきた不安に、呑まれてしまいそうだった。

「一条、」

「……」

「……痣、」

 彼女が顔をこちらに向けた。何のことか解っていないのか、珍しくキョトンとした表情を見せる。 

 雅人が見たという一条の背中の痣。俺には、誰がそれをつけたのか見当がついていた。それを確かめないと、彼女を守る術もくそもない。

 しかし、言葉が続かなかった。何と切り出せばいいのか。

「なに?」

 痺れを切らした一条が、イライラしたように言う。

「なんなの、気持ち悪いんだけど」

「……なんだよその言い方」

「言いたいことがあるなら言えばいいのに」

 呟くように一条は言った。ぶっきらぼうだけど、必要以上の冷たさは感じない。春先に降る雨のような、彼女独特の温度に押されて言葉が滑り落ちた。

「雅人が、痣、その、背中の……」

 途切れ途切れに放った俺の言葉を広い集めたのだろう。一条はそれで全て分かったような顔になった。

 あぁ、と言ってからつまらなさそうに応える。

「そう、聞いたの」

「うん……」

 すると一条は急に立ち上がり、驚く俺のそばでカーディガンを脱いだ。呆気に取られていると、あっという間に制服を捲り上げ、背中を向けた。

 露になった一条の白い背中。目に飛び込んできたのは、斑点のようについた大小様々な痣。いや……痣というより、シミのようだ。

 何も身に付けていない腰は、同い年の女の子とは思えないほど大人びた曲線を描いていたが、そのシミのようなもので存在を消されていた。

 心臓が早くなるのを感じた。言葉が出なかった。寒い図書室で背中を見せている一条。異様な光景を俺の脳はすぐには受け入れられなかったのだ。

 一条は十秒ほどで制服を元に戻し、何事もなかったかのようにまたカーディガンを羽織った。スカートまで隠れてしまう大きめのカーディガンはかの時によく似合っている。

「見たかったんでしょう」

 何故か勝ち誇ったように言われた。

 そうじゃない、と俺は首を横に降った。そうじゃない。見せてほしいなんて、思ってなかった。ただ俺は、

「それ……あいつにやられたんだろ」

 声が震えそうになった。いや、実際に震えたかもしれない。

「あいつって?」

「あの、その……援交のサラリーマンだよ」

 すると彼女は鼻で笑った。

「あの人はこんなことしないよ」

 ほとんど確信に近かったので、少し拍子抜けした。

 雅人に話を聞いた時からピンときていたのに。

 まさか他にも『そういう相手』がいるのだろうか。

「じゃあ、誰が、そんな……」

 酷いことを、と言おうとしたが止めた。彼女自身大した事と思っていないような様子だったからだ。

「もう死んだよ。だから、もういい」

「死んだ? 死んだって、その、痣をつけた人が?」

「うん、母親」

「え……でも一条のお母さんって、」

「痣じゃないよ、これ。ずっと昔につけられた火傷跡だけど、何年も取れないんだ」

 けろっとした顔で答えたっきり、一条はこちらを見ない。ただ一心に、窓の外を見詰めているだけだ。

 虐待? 体罰? 色んな言葉が頭を過った。

 同時に一条が有田先生に向かって言っていた言葉を思い出す。

「どうして黙るの」

「だって……」

「よくある不幸ネタのひとつじゃない」

 強がりか本心か、どちらにしろ自分の身に起こった過去の出来事をはっきりそう言い切ってしまう一条に、俺は気圧された。しかしその横顔に陰りはない。

「知りたかったんでしょ」

 興味本意、と捉えられているのだろうか。そんな浅いものじゃないと言いたかったが、一条の立場からすればどう見ても俺の行動は興味本意以外の何者でもなかった。

「一条のお母さんは、」

 そこまで言うと、彼女は呆れたように笑う。まだ何も言ってないのに。

「あんた、本当に次から次へと知りたいことが出てくるのね。他人にばかり興味があるなんて、しんどい人生よ」

「一条は興味がないの?」

「ない」

「じゃあ、もし……例えば友達が、ある日突然自殺なんてしたら、何があったんだろうって……助けてあげられたんじゃないかって、思ったりするだろう」

 一条がじっと俺を見据えてくる。俺は目をそらさなかった。

「生きてるイコール幸せ、ってわけじゃない人もいるとは思わないの? あんたの考えは良いんだろうけど、極端よ」

「そうかな……」

「そうよ」

 一条こそ極端だ。

 極端に周りに溶け込むことを嫌う紺色のハイソックスを見て思ったが、あえて言わなかった。

 時計を見ると、もう授業が始まって10分以上過ぎている。今のところ、俺達を捜しにくる先生の気配はない。まぁ、まさか図書室にいるとも思わないだろう。また、親に連絡されるだろうか。

 ぼんやりと考えていると、一条がふいに口ずさんだ。Coccoのraining。ママ譲りの赤毛を、と。

「そういえば一条、最近ウォークマン聴いてないな」

「壊れたの」

「え、そうなんだ……」

 傾き始めた太陽が、窓ガラスを通って一条の髪の毛を金色に染める。

 彼女は瞬きもせず、木枯らしの吹き荒れる校庭に視線を流し、やがて静かに呟いた。

「もう、聴けない……」










 放課後になり、俺と一条は揃って説教を受けた。

 職員室は相変わらず暖かく、やはりコーヒーの匂いで充満していた。

 田中先生のデスク前で二人並んで突っ立っているところを、他の先生や生徒にじろじろ見られるのもそれほど不快ではなかった。

 俺はそれらしく田中先生の説教を聞いたが、一条はつんとした表情のまま明後日の方向を見ている。

 やがて説教が終わり、暖かい職員室から冷たい廊下に出た。時間は17時前。

「一条、明日は何してる?」

 明日は土曜で学校が休みだ。

 その時、彼女が珍しく言葉に詰まった様子を受けた。

「別に、何も」

 淡々と答えたその横顔に僅かながら違和感を覚える。が、気にせず続けた。

「じゃあ、俺のばあちゃんち来ない?」

「え?」

「あのさ、ばあちゃんちで子犬飼い始めたんだ。すっげー可愛いからさ、見にこいよ。一条、犬好き?」

 平静を装ったが、かなり勇気を出して言った一言だ。

 彼女は少しの間、何かを考えるように俯いたあと、好き、と小さく言った。

「じゃあ、決まりな! 明日の昼過ぎ家まで迎えに行くよ!」

「……昼過ぎね、分かった」







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