彼女は知らない
冬休みに入った。
課題も少なく、毎日ここぞとばかりにぐうたらしていると、父さんから朝のウォーキングに誘われた。珍しい。
眠気眼をこすりながら、朝5時に家を出るとまだ世界は夜。白い月が申し訳程度に浮かんでいる。
分厚いダウンジャケットの上からマフラーをぐるぐると巻いた俺の防寒具合に対し、お父さんは薄手のジャージ。
寒くないの? と俺が尋ねれば、その内暖まると答えた。
早朝の冷たい空気が頬をチクチクと刺してくる。眠気なんてすぐに吹っ飛んだ。
(手袋もしてくれば良かった)
一緒に歩く父さんはとても早足で、俺は置いていかれないように全神経を両足に集中させるが、差はどんどんと開いてしまうばかりだった。
既に額に汗を滲ませた父さんが、こちらを振り返ってがははと笑った。
「なんだ、だらしないな若者」
「……」
見慣れた道も、この時間帯だとまた違った景色に見える。
畦道に放置されている錆びたトラックを横目に、足を進める。
前から歩いてきたおじいさんが、俺と父さんを見てぺこりと頭を下げた。
短く刈られた芝生の上を歩いている時、父さんが急に立ち止まった。この時になると、俺の身体も随分温まっていて、背中にはじんわりと汗が滲んでいた。
父さんはその場で大きく伸びをし、周りの空気をうんと吸い込み、また勢い良く吐き出した。
その瞬間に父さんの身体が二倍くらい大きくなったような錯覚に陥ってしまった。
「お前もやってみろ。気持ちいいぞ」
「やだよ、恥ずかしい」
辺りに人はいないのだから、恥ずかしいと思うことはひとつもなかったのだが、早朝から父子そろって深呼吸をするという行為自体が気恥ずかしくてそっぽを向いてしまった。
そんな俺を咎めることもなく、父さんはニコニコと笑う。
「もう帰ろうよ」
「ん、そうか? じゃあアイスでも買って帰るか」
「ええー、この寒いのに?」
「こたつで食べるアイスは格別だぞ」
「あー……」
(姉ちゃんは父さんの影響を受けてたのか……)
それから家の近くのスーパーへ行き、姉ちゃんとお母さんの分のアイスを選んでいるとき、父さんが言った。
「あんまり母さんに心配させるなよ」
え? と思わず顔を上げて父さんの顔を見る。その瞬間に分かった。
この話をするために、父さんは俺を誘ったのだ。
「この前学校、勝手にサボったんだって?」
「頭が痛くて早退しただけだよ……それに、そんな前の話今頃、」
「香澄は、お前に彼女が出来たんじゃないかって言ってたが」
「……違うよ。姉ちゃんの言うことなんて真に受けるなよ」
「そうか? あれで鋭いところあるんだぞ」
「そうかなぁ」
4人分のアイスを持ってレジへ向かった。
「いないのか、好きな子」
「うるさいなぁ、いないよ」
一条の顔を思い出して、つい赤くなってしまった。
その日、初めてこたつに入って食べたアイスは確かに美味しかった。
でもそれ以上に、とても贅沢な味がした。
「美味しいね」
いつも鬼のような顔で俺の背中を蹴り飛ばしてくる姉ちゃんも、アイスを食べている時だけはにこやかだ。
親戚の大人たちはみんな、姉ちゃんのことを美人だと言うけど、俺は怖い時の顔を知っているのであまりそうは思わない。目つきもキツいし。
「もうちょっとボリューム下げてよ」
台所からお母さんの声がした。
テレビ中継の駅伝を見ているお父さんに言ったのだ。
お父さんは渋々リモコンを手に取る。
「香澄、今日はどうするんだ」
「友達と遊びに行くー」
平然と答えながらアイスを口に入れたが、俺は知っている。彼氏とデートだ、きっと。
じっと見ると、姉ちゃんは少し俺を睨み付けながら、何よと言った。
彼氏だろ、と呟いたが、お父さんは駅伝に夢中で聞いていなかった。
もし彼氏なんてバレたら、この先門限が厳しくなるからなのか、お姉ちゃんはこたつの中で俺の足を思いっきり蹴った。
驚いたお父さんが急にどうしたのかと尋ねてくる。
喧嘩しないのー、とお母さん。
「姉ちゃんが足蹴ってきた」
「あんたが余計なこと言うからでしょ!」
空になったアイスカップを持って、姉ちゃんはこたつから出て立ち上がった。
「姉ちゃん楽しんでこいよー」
彼氏と、と心の中でつけ加える。
「子供には関係ないし!」
居間を出ていく時、ヒステリックに叫んだその言葉にむっとした。
「子供じゃないよ!もう中三だよ!」
「なんだ、ガキんちょじゃん。ガーキ」
「うるさいなぁ!」
最後の俺の声が姉ちゃんに聞こえたのかどうかは分からない。
ただ、近くに座っていたお父さんは、少し笑った。
「はは、そうか。もう中三だよ、か」
「え、なに?」
「……そうだよな。子供じゃないよな」
結局、冬休みの間、一条に会うことは一度もなかった。
遊びに行った帰りにわざと商店街の方を通ったりなんかしたけど、彼女の姿はなかった。
一条は何をして、冬休みをやり過ごすのだろう。
旅行に行ったり、遊んだりする一条を想像できない。
また、あのサラリーマンと会っているんだろうか。
それとも、ひとりで――。
どうせひとりでいるくらいなら、どこかへ誘おうかな。
そんなことを考えたが、どうしても一条の家まで行く勇気がなかった。
それに俺は、どんな場所へ連れて行けば一条が楽しいと感じるのかさえ、知らなかったのだ。