転校生と昼休み〔2〕
校舎の裏の林を、木島は一人で歩いていた。足元にはまだ、ところどころ雪が残っているが、木々の合間から漏れる日差しは暖かい。
小高い丘の上に建つS高校は、周囲をぐるっと林に囲まれている。街からだと校舎が厚い林で覆われ、平たい山のように見える。
林の中を坂道の反対方向へ進む。その先に崖があることは、朝の時点で確認済みだ。
崖際に立つと、眼下に町が一望出来る。家々や公園、木島の住む病院等が見えた。
木島が前に居た町も坂が多かった。家の裏には丁度こんな風に林があって、彼はよく独りでそこに居た。
小さな頃は、薄暗い林の中が怖かった。鬱蒼と茂る木々や腐った落ち葉が、得体の知れない不気味な生き物に見えた。だがあの日を境に暗闇は、少年にとって安息の場所に変わった。明るい場所の方が、よっぽど恐ろしい。醜い自分の姿を、嫌というほど知らしめるからだ。
眼下に広がる街はその林から見た景色と、どことなく似ている。忌まわしい記憶しかない町だが、それでもその景色を見ると懐かしいと思った。そのままふわっと、体を投げ出してしまいたいような衝動に駆られる。
木島は崖の前に座り込み、袋から取り出した惣菜パンと牛乳を腹に押し込んだ。そして食べ終えると煙草に火を点けた。
午前中は曇っていた空が、嘘の様に晴れている。青い空に煙草の煙が立ち上っていく。
学校裏に、こんな林があるのは好都合だ。独りになりたかったら、ここへ来ればいい。
木島は先程までいた教室を思い出した。能天気で詮索好きそうなクラスメート達。始終誰かが冗談を言い、笑いに溢れていた。ああいう空気が最も苦手だ。新学期初日から学校を休んだのも、その為だ。本格的に授業が始まる頃合を見計らっていたのだ。
半分まで煙草を吸ったところで、話し声が近づいて来た。くわえ煙草の数人の男子学生が、こちらに向かって歩いてくる。
(ここでも独りになれそうにないか)木島は立ち上がった。
「おっ!誰だ、てめぇ?ここで何してんだよ?」
木島に気付いた男が言った。
「見て判るでしょ、煙草吸ってたの。でもあんた達来たから、もう行くよ」
木島は目を逸らしたまま、木の幹で煙草を揉み消した。
いい場所だと思ったが、どうやらここは、この学校の生徒達の溜まり場らしい。仲間を作って煙草を吸いながら、雑談を交わす気などない。健全で正義を振りかざす奴も嫌いだが、徒党を組んで小さな悪事を企むような連中は、もっと嫌いだ。
「誰だあいつ?あんな奴いたか?」
「さぁ?見たことねぇなぁ?」
次々と現れる学生達の間を、木島は無表情で通り過ぎた。
林の中を適当に歩いていくと、しばらくして体育館の裏手に出た。そこで、ふと足を止めた。
体育館より一段下がった草むらの中、丁度、渡り廊下から死角になる場所に、一人の女生徒が座り込んでいる。よく見ると彼女の前に小さな花壇があり、どうやらそれを眺めているようだ。
女生徒は遠目に見ても明らかに背が低く、痩せているのが判る。一応制服を着ているので、この学校の生徒であることに間違いないが、そうでなければまるで小学生だ。
木に凭れ、座り込む女生徒を何気なく見ていると、しばらくして渡り廊下の方から男が現れた。さっき教室で、手を差し出してきた奴だ。確か名前は大森。女生徒の横に座り、何か話しかけている。林の中までは声が届かない。だが二人はきっと、恋人同士なのだろうと思った。ふっと口元が緩む。
木島は煙草に火を点け、林の中から二人の姿を見続けた。
***
「おっ!咲いたな。これがクロッカス?」
「うん」
「へぇ、綺麗な花だな」
大森は可南子の横に座り、咲いたばかりのクロッカスの花を見た。針の様に細長い葉の上に、黄色と紫と白の三色の花が咲いている。
「この花ってね、お日様が大好きなの。だから本当はこんなところじゃなくて、もっと日の当たるところに植えてあげたほうが良いのだけど。でも、ここでもちゃんと花が咲いてくれた。偉いね、この子達」
「この子達?」
「あっ、おかしいわね。花に、この子なんて」
「いいんじゃないの、この子で。岡沢が一生懸命手入れしてたんだ。岡沢の子供みたいなもんだろ?」
顔を向けると、恥ずかしそうに可南子は下を向いた。
「でもここもそう、日当たり悪くないんじゃないか?ほら、あっち側が東だろ?午前中とか、結構日が当たっていると思うぜ」
大森は体育館の反対側の空を見上げた。可南子も同じ空を見た。
「そうね、私が見ていない間に、お日様をいっぱい浴びているのね。だから、こんなに綺麗に咲いたのね」
眩しそうに目を細める可南子。
「なんかクロッカスって、岡沢みたいだな」
「えっ?どうして?」
「だってさ、体はこんなに小さくて細いのに、咲いた花がこんなに大きくて綺麗だろ?地面からスレスレのところで、頑張って花咲かせようって、一生懸命生きてるって感じがする。うまく言えないけど、俺、この花が一番好きだな」
大森はクロッカスに目を落としたまま言った。
(うわっ、くさっ!! なに言ってんだ、俺)
チラッと横を窺うと、可南子は赤い顔をして俯いていた。
***
「よぉ木島ぁ、これから暇か?今さ、皆でお前の歓迎会してやろうって話してたんだ。ちょっと付き合えよ」
終業のチャイムが鳴ったのと同時に、大森は後ろから木島の肩に手を回した。
「俺は遠慮しとく。またな」
そう言いながら、木島は乱暴にその手を振り払った。
「へっ?お前がいなかったら、歓迎会になんないじゃんか」
しつこく食い下がったが、木島はさっさと帰り支度を済ませ教室を出て行った。
「なんだよ、付き合い悪い奴だな」
米山は呆れ顔だ。
休み時間の間もそうだったが、木島は他の生徒達を明らかに避けていた。転校してきて緊張しているのかも知れないが、人見知りをする大人しい性格とも思えない。
折角、打ち解けるチャンスを作ってやろうと思ったのに台無しだ。そう思った大森だが、
「まぁ、いいじゃん。それよかどこ行く?」
明るく応え、今度は米山の肩に手を回した。
次々に教室を出るクラスメート達。可南子も教室を出て行った。
大森は朝登った坂道を、友人達と連れ立って下っていた。同じ制服を着た生徒達の中に、一人で歩く可南子の姿が見えた。パンパンに膨らんだ鞄を、重そうに持って歩いている。
皆と同じ量の荷物の筈だが、体の小さい可南子が持つと大荷物に見える。まるで真新しいランドセルを背負った小学一年生だ。なんだか気の毒な感じもするが、そんな姿もやっぱり可愛い。
「なにニヤニヤしてんだよ」
米山に言われ、はっとした。
「べーつにぃ、しっかりお勉強もしてきたし、これからがお楽しみの時間だと思ってさ」
「よく言うよ、授業中寝ていたくせして」
「お前だって寝てただろ?」
大森は笑いながら、米山の頭を小突いた。そして気付かれないように、片側の肩を下げて歩く後姿を横目でチラチラと見ていた。
***
初めて登校した日から木島は、昼休みになると毎日林へ向かった。だが奥の崖には、あまり近づかないことにした。思った通り、この学校の生徒達の溜まり場になっていたからだ。
仕方なく体育館の裏手で昼食を取り、煙草を吸った。
一本目の煙草を吸い終えた頃、あの女生徒が花壇にやってくる。最近になって、同じクラスの女子であることに気付いた。教室の一番前の席に座っている子だ。
名前は岡沢可南子。近くで見ても、やはり小学生のようだった。体も顔のパーツも、全てが小さい。今時珍しい野暮ったい髪型に、銀縁の眼鏡。全体的に地味な感じがする。
彼女が他のクラスメート達と、雑談をしている姿は見たことがない。いつも独りで、俯いて席に座っている。しかし同じ独りでも、自分とは違う。俯いてはいても、誰かに話し掛けられると笑顔で受け答えをしていた。
最初の日に目にした大森は、時々しか現れなかった。三、四日に一度花壇に来ては、彼女の横に座り、短い間一緒に花壇を見ている。
大森は彼女とは反対で、かなり見た目が派手だ。作り物のように整った濃い顔。長い栗色の髪。背が高く、同じ制服を着ている生徒達の中で一際目立つ。
それに派手なのは見た目だけではない。声が大きく、仕草も芝居じみていて大袈裟だ。そんな彼の周りには、自然と人が集まってくるようだった。
しかし誰彼ともなく陽気に話しかける大森が、何故か彼女とだけは教室で口を利いていなかった。花壇の前では仲が良さそうに寄り添っているのに、教室ではお互いに無視を決め込んでいる。そんな様子が、木島の興味を更に惹いた。
『奈津美、
北海道へ来て、もうすぐ一ヶ月になる。朝晩は冷え込むが、日中は暖かくなってきた。
校庭の桜が満開だ。学校に続く長い坂道を登りきると、桜のアーチが出迎えてくれる。
叔父貴の家の桜も咲いた。隣に植えてある梅も、まだ花を付けている。驚いたことに、こっちでは桜と梅が同時に開花するんだ。
新しい学校にも、だいぶ慣れてきた。この辺りでは進学校だと聞いていたが、M高に比べたら随分暢気な感じだ。俺も暢気に遣ってるよ。叔父貴や叔母とも、今のところいい関係が続いている。俺も大人しくしているし、二人ともあまり干渉してこない。毎日が静かで穏やかだ。やっぱり、こっちに来て良かった、そう思う。
今日も俺は、学校裏の林へ行った。今日は花壇の前に、大森の姿もあった。例の彼女と話をしていた。何を話しているのかまでは判らない。聞きたいとも思わない。楽しそうな二人の姿を、俺はただ、見ているだけだ』
手紙を書き終え、木島は煙草に火を点けた。広い部屋は、ライターを机に置く音さえ響くように感じる。
カーテンを開けて窓の外を眺めると、闇の向こうに病院の白壁が薄っすらと見える。いくつかの部屋から洩れる小さな灯りが、ポツポツと木島の顔に重なって窓に映っていた。