転校生と昼休み〔1〕
「ちぃーす、大森ぃ!」
坂道の途中、大森は自分を呼ぶ声に振り返った。淡い栗色の髪が、僅かな日の光に透けている。
彼は純粋な日本人だが、その髪色の所為で幼い頃から、よくハーフに間違われた。瞳の色も薄く、彫りの深い顔立ちが、会う者に儚げな美少年といった印象を与えさせていた。
後ろに見える景色は、薄っすらと霧が掛かっている。丁度バスが着いたらしい、同じ制服を着た沢山の生徒達が坂道を登って来る。
声の主である米山は、その生徒達の間をすり抜け、必死の形相で自転車を漕いでいた。荒い息遣いが、坂の上まで聞こえてきそうだ。大森は噴き出しそうになった。
「ふー、疲れたぁ。全く頭にくんぜ、この坂道」
横まで辿り着くと、米山は諦めて自転車から降りた。顔が真っ赤になっている。
大森達の通うS高校は小高い丘の頂上にあり、ひたすら長い坂道を登らなくてはならない。最後まで自転車を漕いで登ろうものなら、相当の運動量だ。大森はとてもじゃないが、朝っぱらからそんな体力を使う気にはなれないと、常に思っていた。
「自転車なんかに、乗って来るからだよ」
「だってさ、帰りが楽じゃん、今日から七時限目まであんだぜ。疲れてんのに歩いて帰れっかよ」
春休みが終わって、今日からやっと午後の授業が始まる。大森も面倒臭そうに顔を顰めて見せたが、本当は午後まで授業がある方が嬉しい。それは昼休みがあるからだ。大学進学を諦めている彼にとって、昼休みが学校に通う一番の目的となっていた。
「やんなちゃうよなぁ、これからは受験一色かぁ」
駐輪場に自転車を停めながら、米山はため息を吐いた。
「俺は関係ないよ。大学行く気ないからさ」
「大森お前、マジで大学行かねぇの?」
「ああ。まっ、お受験組は精々頑張りな。代わりに俺が遊んでやっから」
「なんだよそれぇ」
米山は笑った。
S高校は公立だが、この辺りでは進学校である。よほどのことがない限り、ほぼ全員が大学進学を希望する。
大森はあまり成績が良い方ではないが、それでも高望みさえしなければ、充分現役で大学へ進むことが出来る筈だ。しかし彼は入学前から、大学進学は諦めていた。親に頼るのは高校まで、そう自分に言っていた。
米山が「本当に大学へ行かないのか?」と、訊いてきたのはこれで三度目だ。しかし「何故行かないのか?」とは訊かない。中学から一緒の米山は、友人が大学進学を諦める理由に薄々気付いているのだろう。
笑いながら歩く二人の周りに、次々と人が集まってくる。大森は校舎を見上げ、可南子がいるであろう教室の窓を眺めた。
――二週間振りの昼休み。二週間振りに可南子と話せる――
教室に入ると、すでに可南子は自分の席に座っていた。教室の一番前、廊下側の席。机の上に両手を揃え、銀縁の眼鏡を掛けた顔を斜め下に向けている。真っ黒なくせ毛を耳の下で二つに結び、他の女の子みたいに色付きのリップクリームを塗ったりはしない。まるで卸したてのような、きちんとアイロンを掛けた丸襟のブラウス、赤いリボンの結び目も綺麗だ。
いつもと変わらぬ可南子の姿を確認すると、大森は他の生徒達に大声で呼び掛けた。
「みっなさーん、グッモーニン!」
「あっ!大森君、おはよう!」
「おー、大森ぃ、お前おっせぇぞ」
生憎の天気で薄暗かった教室が、大森が入ってきた途端、明るい空気に変わった。彼が一言発する度に、クラスメート達の笑い声が響く。
しかし笑いながら会話の中心にいる大森だったが、頭の中では全く違うことを考えていた。
(このまま雨が降らないといいけどな)
窓の外の灰色に曇った空を見た。
今日の天気予報は曇り時々雨。雨が降ると花壇に行けない。花壇に行かなければ、やっと午後の授業が始まるというのに、可南子と話すことが出来ない。
担任が教室に入ってきたので、生徒達は騒ぐのを止めパラパラと着席した。担任の後ろには、真新しい制服を着た見慣れない男。
「転校生を紹介する。群馬県から来たキジマケイ君だ。木島君は、群馬県の名門M高校から転校してきた。ここの編入試験でも大変優秀な成績で…………」
木島というその男は、長い真っ直ぐな前髪が目に掛かっている所為か、表情が暗く見える。長身で、クラスで一番背の高い大森と同じ位ありそうだ。だが肉付きは大森よりいい。痩せてはいるが、肩が張り出していて胸板も厚そうだ。
(なにかスポーツでも遣ってるのかな)大森は思った。
それにしても新学期が始まって数日経つ。何故初日から来なかったのだろう?
「ねぇ、ちょっとカッコ良くない?」
大森の耳に、女生徒のひそひそ声が入ってきた。
その声を聞き、とっさに視線が可南子の方に向いた。後ろからだと表情までは分からない。だが特に、転校生に関心がある風でもなさそうだ。いつもと同じ、少し俯き加減で座っている。
「君たちも二年に進級した。来年度は受験だ。これからは気合を入れて…………」
担任の話がだらだらと続く。結局毎回、最終的にはその話だ。
大森はぼんやりと、窓の外を眺め欠伸をした。
(早く昼休みにならないかな)
東の空が、急に明るくなってきた。
休み時間になると生徒達は、一斉に転校生の席に押し寄せた。大森の姿もある。
「よぉー転校生、俺、大森! よろしくなっ」
笑顔で手を差し出したが、木島はその手をチラッと見ただけで、すぐに視線を逸らせた。
「……ああ、よろしく」
「あり?まっ、いっか」
大森は手を引っ込めた。木島は無表情で、机に頬杖を着いている。
「ねぇ、木島君ってすごいのね。さっき先生、言っていたじゃない?名門高校から来たって」
「ところでお前、なんでこっち来たの?親の転勤かなんか?」
「まあ……そんなとこ」
クラスメートの質問に、木島は一言、二言、簡単に返事をしている。返事はするものの、目を合わせようとはしない。真っ直ぐ前に向けられた目は、どこを見ているのか判らない感じだ。
そのうち木島の反応につまらなくなった生徒達は、散り散りに去っていった。大森だけがいつまでも、木島の机の前に座り込んで一人で喋っていた。
喋りながら大森は、新しいクラスメートを観察していた。木島はさっき女子が言っていた通り、確かにいい男である。整った目鼻立ち、幅広の肩の上に乗った小さい顔は白く、どこか中性的な感じがする。しかし近くで見ても、やはりその表情は暗い。切れ長の吊り上った目の奥にある瞳は、今日の天気の様に曇っていた。
「なぁ木島ぁ、学校来たのは、今日が初めてか?びっくりしただろ、あの坂道。何で来たんだ?自転車か?」
「……徒歩」
「だよなぁ、それが正解だよ。確かに帰りは楽だろうけど、あの坂を自転車押して歩いたんじゃ、朝から疲れちまうよな」
木島は返事をしない。大森は気にせず話し続けた。
「なんでこんな辺鄙なとこに、学校造ったんだろな?中学の同級生の中には、あの坂が嫌で、ここを選ばなかった奴だっているんだぜ。まあ、それを除けば結構いいとこだから、がっくりすんなよ」
入学前から坂道の存在を知っていた大森でも、初めて登った日は(これから毎日これを登るのか)と、ため息を吐いた。他所の土地から来た木島は、それ以上に気落ちしただろう。
坂の多いこの町の中にあっても、S高の長い坂道は有名だ。長い上に途中から、かなりの急勾配になる。この時期はまだ涼しいからいいが、夏になって日差しが強くなると一層辛い。
だが頂上から見る景色は、なかなかのものだ。もう少しすると、遅い春を迎えた山の新緑が、美しい季節になる。新緑の山の向こうには、まるでミニチュア模型のように、お行儀よくビルが建ち並ぶ街の景色。坂の上から街を見下ろしていると、清々しい風が額に浮き出た汗を乾かしてくれた。
「あの道の他に、下に行く方法はないのか?」
それまで黙っていた木島が、初めて自分から質問してきた。
「えっ?ああ、ないよ。坂の反対側は崖だし、他はぐるっと林に囲まれてるだろ?あ、そうか、崖って言っても分からないよな。後で校舎の周りを案内してやるよ」
「いや、いい」
木島はチラッと前を見ると、下顎を突き出した。いつの間にか、教師が黒板の前に立っていた。
「おい、大森、いつまで喋ってんだ。早く席に戻れよ」
教師は呆れ顔だ。
「やべっ」
大森は慌てて自分の席に戻った。木島の観察に夢中で、チャイムが鳴ったことにも気付かなかった。次の授業は苦手な数学だ。大森はため息を吐いた。昼休みまで、あと三時限もある。
***
「おっ、やったね、ポテトサラダが入ってる」
「大森お前、それ好きだなぁ。昨日も食ってたじゃないか」
「うまいんだもん。米山も食うか?ちょっとやるよ」
母親の作るポテトサラダが大森は大好物だ。他所で食べるものと味が違う。何がどう違うのかと聞かれたとしても答えられないが、とにかく母が作ったものの方が断然美味しい。
「いらねぇよ。芋ばっか食ってたら屁が出る」
「こらこら米山くん、お下品だなぁ。食事中に屁とか言っちゃいけませんよぉ」
笑いながら顔を上げると、木島が無表情のまま教室から出て行こうとしていた。
「あれ?どこ行くんだよ木島、一緒にメシ食おうぜ」
「いや、外で食ってくる」
片手に提げたビニール袋を振り上げ、木島は教室を出て行った。
「なんか暗そうな奴だよなぁ」
「名門高校から来たから、俺等となんか口利けねぇてさ」
「見た目はかっこいいんだけどね。なんか陰があるっていうの?」
「おー?一目惚れかぁ?おい大森ぃ。お前、女子の人気盗られそうだぜぇ」
友人達は勝手なことを言い出した。引き合い出され大森も笑って見せたが、あまりいい気分はしない。 女子に人気があると言われても、それはこの顔の所為だと知っている。自分には他に、誇れるものなど何もない。その証拠に可南子は、いくら待っても振り向いてくれない。頭のいい可南子は、自分が見かけだけで中身が空っぽだと気付いているのだ。
大森は木島の後ろ姿を見送ったあと、可南子の方を見た。遠くの席で可南子は、一人で弁当を食べている。
「見事に外れたな、今日の天気予報」
窓の外を眺め呟くと
「この分なら帰りまで持ちそうだな」
と、米山が言った。
(帰りなんて、どうでもいい。昼休みさえ晴れていればいいんだ。……あれ?)
気が付けば可南子の姿が、いつの間にか教室から消えている。
(やばい、ゆっくりし過ぎた。折角晴れてきたのに昼休みが終わってしまう)
大森は急いで弁当を片付けた。
「何だよ大森、そんなに慌てて、どこ行くんだよ」
「あー、ちょっとウンチ」
いつもと同じ、苦しい言い訳。でも本当のことは言いたくない。
「やだぁ、大森君」
「お前またかよ。ちゃんと朝、家でしてこいよなぁ」
「さっきは屁とか言うなとか、言ってたくせによぉ」
笑いながら適当に相槌を打って、大森は教室を飛び出した。
勿論、トイレの前は素通りだ。