プロローグ
真っ暗な空に虫の羽音だけが響き渡る。
高い木々に隠れ、月も星も見えない。
微かに洩れる光が、足元の濡れた落ち葉を申し訳程度に儚く照らすだけだ。
不気味な音が耳に入るたび、繋いだ手に力が入る。
「大丈夫だよ。怖くないよ」
そう言った声の小さな手も、じっとりと汗ばんで震えていた。
足を止めてから、どれくらい時間が経っただろう。
Tシャツが体に張り付いているのは、自分の汗か、それともこの霧の所為か。冷たい風が濡れた体を更に凍らせる。
真上にある木々はユサユサとその体を揺らし、まるで大きく口を開いた魔物のようだ。鋭い牙で今にも襲い掛かろうとしている。そして足元には無数の虫たち。獲物が力尽きるのを待っていた。
漆黒の闇に包まれ、自分がどこにいるのかさえ、既に分からなくなっている。
感じるのは、ただ左手にあるぬくもりだけ。目を閉じていても開いていても、さほど変わらないだろう。ならば目を閉じていれば良いのか。そうすれば襲い掛かろうとする木の葉も、足元で蠢く何かも見なくて済む筈だ。
だか恐怖がそれを許さない。
風が止んだ。それと同時に遠くの方から草を分け入る音と、低いうめき声のようなものが聞こえてきた。
「なんだろう?なにかこっちに来る……」
林に住む小動物ではなさそうだ。
「逃げなきゃ。なんか来る。逃げよう」
音はどんどん近づいてくる。繋いだ手を握り締め、立ち上がった。
(きっと血に飢えた獣だ。さっき足を擦り剥いたから、その血の匂いに吸い寄せられて来たんだ)
ゆらゆらとした光が、音のほうに見え隠れしている。恐怖が最高潮に達したとき
「違うよ!人だ、探しに来てくれたんだ!!」
足元から甲高い叫び声が聞こえた。
突然大きな光を浴びせられ、目の前が真っ白になった。
――おかあさん――
少年は繋いだ手を離し、光の方へ両手を広げた。
目を開けると、白々と夜が明けかけていた。カーテンの隙間から、細い光が部屋に差し込んでいる。
「……夢か……」
また同じ夢を見た。これで何度目だろう。必ずあの場面で目が覚める。
それは幼い日の記憶。あの日あの後、少年は自分が何者であるかを知った。以来、暗闇を怖がる子供ではなくなった。あれからもう、11年の月日が流れた。それでも繰り返し同じ夢を見る。
何度も何度も小さな手が、あの日の少年を責め続けていた。
起き上がり時計を確認すると、まだ五時前だった。随分早くに目が覚めてしまった。
悪夢の続きは勘弁だが、こんな時間に起きてもすることがない。もう一度ベッドに横たわり、汗ばんだ手の平を眺めた。
夢の中ではあんなにはっきりとしていた小さな手のぬくもりも、目が覚めると完全に消えうせている。
縋りつきたくても、二度とあの手に触れることは出来ない。
しばらくしてドアの向こうから、スリッパで廊下を行過ぎる音が聞こえてきた。
完全に夜が明けたようだ。
木島圭は新しい制服に着替え、ドアを開けた。
「おっ、似合うじゃないか」
ダイニングに入って来た制服姿の16歳の少年を見て、男は開いていた新聞を折り畳んだ。
(こんな平凡な制服に、似合うとか似合わないとかあるのか?)少年は軽く微笑み、椅子に腰掛けた。
「あら?今朝は早いのね」
今度はキッチンから現れたエプロン姿の男の妻が、驚いた顔をして動きを止めた。
「すぐに圭さんのも用意するから待っていて頂戴。目玉焼きでいいかしら?」
焦ったように言う。
「目玉焼きはいらない。このパン貰ってもいいかな?」
少年は目の前のバスケットに入ったクロワッサンに手を伸ばした。
「どうぞ、今、お紅茶を持ってくるわね」
男の前に目玉焼きの乗った皿を置き、妻はキッチンへと戻って行った。
「それを着てきたってことは、今日から学校に行く気になったか?送って行ってやろうか?」
スプーンでカップを掻き回しながら、男が言った。
「場所も分かるし、独りで行けるよ」
少年は笑顔を作って言った。高校に行くのに送り迎えだなんて、甘やかしすぎだろ。それとも本当に行くかどうか疑っているのかな?
「でも先生に、ご挨拶した方が良いのじゃないかしら?」
と、戻って来た男の妻。要らないと言ったのに、その手には目玉焼きの乗った皿がある。
「挨拶なら手続きの時にしてただろ?小学生じゃないんだ、引率はいらないよ」
カップに入った紅茶を一気に飲み干し、少年は席を立った。
「ごめん、叔母さん。目玉焼きはやっぱりいらない。もう行く」
「えっ?行くって、学校に?まだ早いでしょ」
「ちょっと早めに行って、探索してくるよ」
鞄を肩に掛け、少年は足早に家を飛び出した。
外は夢の続きのように、薄い霧が掛かっていた。
***
「本当に学校に行ったのかしら……」
「制服を着ていたんだ、行ったに決まっているだろう」
不安げな表情の妻に、男は笑って言った。
新学期が始まって、既に数日が経っている。しかし甥は、ずっと部屋に引き篭もったままだった。
声を掛ければ、笑顔で返事をする。だが、その目は笑っていない。あのくらいの年頃の少年ならば、無気力、無関心は珍しいことでもないだろうが、彼の目の冷たさは尋常ではない。まるで死んだ魚のようだ。完全に光が失われている。
彼の目から光を奪ったのは、紛れもない自分の実兄だ。誰もがそれに気付いていながら、何の手だてもしないまま、彼を成長させてしまった。
「新しい学校で、お友達が出来るといいのですけどね……」
「そうだね……」
自分にも妻にも、彼を救ってやりたいという気持ちはある。だからここに呼び寄せた。しかし今は、その傷口に触れないようにするだけで精一杯だ。そもそも自分達には子供がいない。普通の子育てもしたことがないのに、果たしてどれだけのことが出来るのであろうか。
男はため息を漏らすまいと、カップに口を付けた。
***
昭和五十六年四月。北海道の春は遅い。やっと雪が解け始めた。坂の上の桜は、まだ蕾も出ていない。
裸の桜の木を目指して、木島は長い坂道を登っていた。
一歩を踏み出す足に自然と力が入る。生憎の曇り空の下、坂道は凍結していた。
頂上は多分、行き止まりだ。向こう側へ下りる道はないだろう。下りるとするなら、今登っている道を戻るしかない。
喩え戻ってみたとしても、立ち止まってみたとしても、きっとまた、この坂を登ることになる。自分で道を選ぶことは許されない。そもそもそんな気力さえ、自分には残されていない。
途中から勾配がきつくなってきた。もうすぐゴールだ。桜の木の向こうに、薄汚れた建物が見える。
あの場所に辿り着いても、恐らく自分は変われない。この坂を登り、帰りは下って行く。その繰り返しを、ただ続けるだけだ。
坂の頂上に着くと木島は、建物の裏に真っ直ぐ進んだ。
思った通り、そこは崖になっていた。
鬱蒼と茂る草むらの向こうに、灰色の町が見えた。