第16話【404】存在しない金庫と、最初の契約書
鉛の扉が開いた先、そこは「銀行」という言葉から連想される煌びやかさとは無縁の世界だった。 埃一つない真っ白な回廊。しかし、その白さは清潔さではなく、すべての「価値」を漂白し、無へと帰した後のような、寒々しい拒絶の色だ。
「……地下二階までは、あんなに『差し押さえ品』で溢れてたってのに」 ガモンが、不可視となった透の右腕を避けながら背後に立った。 「ここはまるで、空っぽの巨大なハードディスクの中だぜ」
サキは銃を構えたまま、壁一面に並ぶ「窓のない扉」を凝視している。 そこには数字が刻まれていない。ただ一箇所、回廊の最果てにある一門を除いては。
「404……見つけたわ」
透がその扉の前に立つ。 存在しないはずの番号。だが、透の右手の「あった場所」が、まるで磁石に吸い寄せられるようにその扉へと導かれていた。 透が左手を扉に触れようとした瞬間、回廊全体に冷徹なアナウンスが響き渡った。
『——未登録区域への干渉を確認。……当該エリアは「ユニオン規約」の適用外です』 『警告:これより先、あなたの「信用」は一切の価値を失い、あなたの「負債」のみが現実を規定します』
扉が音もなく左右にスライドした。
部屋の中央には、液体に満たされた円筒形のカプセルが鎮座していた。 その中で、無数の光るコードに繋がれ、眠りについている少女がいた。
「璃子……!」
透が駆け寄る。 カプセルの中で漂う璃子の表情は穏やかだったが、彼女の胸元には、透のものよりもさらに深い、漆黒の「痣」が刻まれていた。 それは彼女が、透を救うために投げ打った「御影グループの全与信」という莫大な負債の代償。
「……璃子。今、助けるからな」
透がカプセルに手をかけようとした時、その隣にある「古い石碑」のようなものに目が止まった。 石碑には、ユニオンのカードと同じ形状の「溝」があり、そこには一枚の、琥珀色に輝くカードが差し込まれていた。
「何だ……これ。今のカードとは、材質がまるで違う……」
「……透、触っちゃダメよ!」 サキの制止よりも早く、透の「透過した右腕」が、無意識にその琥珀色のカードに触れていた。
刹那。 透の脳内に、数字の激流が流れ込んだ。 それは現金の取引記録でも、スキルの決済音でもない。 太古から現代に至るまで、人間が「誰かを信じる」という行為に付随させてきた、全記録。
『——プロトコル:【原初の契約】を起動』 『所有者認証:神城健一……照合失敗。……直系親族:神城透を、暫定的な「債務引受人」として登録します』
石碑から琥珀色の光が溢れ出し、部屋の壁に、無数の文字が投影された。 それは今のユニオンが隠蔽している「本当の利用規約」だった。
「……見ろよ、これ。……規約第1条……『すべての信用は、一人の"最初の債務者"の負債を担保に発行される』……?」 ナギが、投影された文字を読み上げながら震え始めた。 「……そんな、バカな。世界中のカードが、たった一人の借金を基盤にしてるってこと……!?」
その時、カプセルの中の璃子が、ゆっくりと目を開けた。 だが、その瞳に宿っていたのは、透の知っている令嬢としての誇りでも、冷徹な計算でもなかった。
「……神城、くん……? 逃げて……。ここは、銀行じゃないわ」
璃子の震える唇が、真実を紡ごうとする。
「ここは……『負債』を食べて、世界を回し続けるための……巨大な心臓なの……。私やあなたは、ただの……『予備の燃料』に過ぎない……」
「燃料……だと?」
透が問い返すよりも早く、琥珀色のカードから不気味なノイズが走った。 部屋の隅、暗闇の中から、一人の人物がゆっくりと歩み寄ってきた。 ユニオンの制服を着ていない。だが、その男が纏うオーラは、先ほどの門番を遥かに凌駕していた。
「——正解だ、御影の娘」
現れたのは、中年の、ひどく疲れた顔をした男だった。 その男の胸元には、透や璃子と同じ痣があり、さらにその「蔓」は彼の首筋まで伸び、顔の半分を覆っている。
「私は『債務管理官』。……そして、この404号室で、三十年間この『原初の契約』を管理してきた者だ」
「三十年……。あんた、まさか……」
「神城健一の行方を知りたいか? 少年」 男が虚ろな瞳で透を見つめた。 「……彼は、この世界の『最初の借金』を完済しようとして……失敗した。そして、その負債の利息として、自分自身の存在そのものをこの石碑に『入金』したんだよ」
透の足元が崩れるような感覚。 父は、失踪したのではなかった。この銀行の、システムの最深部で、今も「返済」を続けさせられているのか。
「……返せ。……親父も、璃子も、全部返せ!」
透が吠えた。右手の透過した空間が、激しい黒い炎となって噴き出す。 だが、管理官の男は悲しげに首を振った。
「返してほしければ、君が代わりの『担保』になるしかない。……神城透。君の持っているそのカード、その痣……。君は、父親から『負債を終わらせる力』を継いだつもりだろうが……実際は違う」
男が石碑を指差した。 琥珀色のカードの表面に、透の名前が刻まれ始める。
「君は、父親が遺した『利息』を支払うために、特別に生み出された『決済専用の命』なんだよ」
『——特別審査:二日目。終了まで残り40時間』 『要求:神城透の「存在権利」を、御影璃子の解放と引き換えに差し押さえます。承諾しますか?』
透の目の前に、人生で最も残酷な、二者択一の決済画面が浮かび上がった。
【世界の違和感:メモ】
原初の契約: 世界の全信用が、一人の巨大な「負債」を根拠に成立しているという矛盾。
透の正体: 「決済専用の命」という言葉が示唆する、神城健一が仕組んだ真の目的とは。
現在のステータス: 神城 透
残高:-8,200,000円(※システムへの干渉により大幅増加)
信用スコア:【ERROR: ORIGIN-DEBT】
状態:右腕の消滅(透過の最終段階)、石碑との共鳴、父の真実の一部を把握
同行者:ナギ、サキ、ガモン(※管理官のプレッシャーにより硬直中)
第17話へ続く:【差押】管理官の宣告と、魂のトレード




