第10話【延滞】沈黙する街と、ゼロの署名
地下迷宮から這い出した透を待っていたのは、物理的な追手よりも冷酷な「世界の拒絶」だった。
自動販売機の横を通り過ぎれば、センサーが透のカード情報を読み取り、不快なエラー音を鳴らす。街灯は透がその下に踏み込む瞬間に光を失い、まるで彼という存在を歴史から消去しようとしているかのようだった。
「……徹底してるな。天利が指を動かしただけで、この街のすべてが俺の敵だ」
透は乾いた喉を鳴らし、路地の隅に腰を下ろした。右腕の透過は止まっているものの、その輪郭は陽炎のように揺れている。 ナギが心配そうに端末を操作していたが、やがて力なくかぶりを振った。
「ダメだ……。ユニオンの全インフラが、あんたのIDを『致命的なバグ』として共有してる。正規のネットワーク経由じゃ、水一杯、電力一ワットだって決済できないよ。……三百万どころか、一円も稼がせない気だ」
「……」
透はポケットから、璃子から届いた最後の手紙——端末に表示された秘匿メッセージを見つめた。 『「信用」を稼ぐのではなく、誰からも見放された「ゼロ」の場所でしかできない決済が』
その言葉の意味を反芻する。この都市において、信用は呼吸と同じだ。それがない場所。それが必要ない場所。そんなものが、この管理社会に存在するのか。
「……ナギ。この街で、唯一『ユニオンの数字』が通用しない場所がある。心当たりはないか?」
ナギは目を見開いた。しばらく沈黙した後、絞り出すような声で言った。
「……あるよ。一つだけ。でも、そこは『キャッシュ派(現金主義者)』の過激派が牛耳ってる旧市街……通称『デフォルト・ゾーン(債務不履行区)』。そこにあるのは、与信に基づいた便利さじゃなくて、剥き出しの『物物交換』だ」
「物物交換……」
「あそこじゃ、カードはただのプラスチックの板だよ。取引されるのは、現物、労働、あるいは……『命』そのもの」
透は立ち上がった。視界の端で、赤いカウントダウンが非情に数字を削っている。
『引落確定日まで:残り70時間12分』
その時、背後の闇が動いた。 九十九ではない。だが、その気配には見覚えがあった。
「……ようやく見つけたわ。神城健一の忘れ形見」
路地の暗がりに立っていたのは、ぼろぼろのトレンチコートを羽織った、顔に大きな傷跡のある女だった。彼女の胸元には、どのカード会社にも属さない「灰色の板」が揺れている。
「あんたは……」
「私は『キャッシュ派』の連絡員。御影の小娘から聞いたわよ、あんたが『親父のチップ』を持ってるって。……三百万、天利に支払うつもり? 笑わせないで。あんなのは奴らの帳簿上の数字に過ぎない。あんなものに魂を売るくらいなら、私たちのところに来なさい」
女が差し出したのは、古びた、重みのある「硬貨」だった。 それは、透の世代が教科書の中でしか見たことのない、実体を持つ通貨。
「これを……俺に?」
「それは『署名』の前払いよ。あなたの父親が、かつて私たちに託した『ある契約』の……ね」
透がその硬貨に触れた瞬間、懐の白いカードが、これまでにない異様な震動を起こした。 システムメッセージではない。脳裏に直接、父・健一の掠れた声が響く。
『……透、思い出すんだ。……本当の信用とは、数値化される前の……誰かと誰かが結んだ……ただの約束だ……』
カードの表面に、細い光の筋が走る。 それはICチップを無視し、カードの縁を縁取るようにして「肉筆のサイン」のような文様を形作り始めた。
『——規約外事象:物理的価値の接触を検知』 『カードの定義が再構成されています…… 1%…… 2%……』
「何が起きてる……? 俺のカードが……」
「……面白い。バグ・カードが、本物の『現金』に反応してる……?」 ナギが驚愕の声を上げる。
だが、その再構成を阻むように、路地の入り口に三つの巨大なライトが灯った。 巨大な回収局の装甲車だ。
「神城透。逃亡は無意味だ。貴様は現在、与信崩壊による『公共の脅威』に指定されている」
装甲車のスピーカーから、九十九の冷徹な声が響く。 彼は装甲車の上に立ち、夜風にコートをなびかせながら、透を見据えていた。
「執行を待つまでもない。……これより、一括清算を開始する」
九十九がその手にしたロングカードを、水平に構えた。 それは、今までのようなスキルの発動ではない。カードを物理的に「折る」ことで全与信を一度に解放する、禁忌の強制回収プロセス。
透は硬貨を握りしめ、ナギとキャッシュ派の女を見た。 璃子が言った「ゼロの場所での決済」。 そして父が遺した「本当の署名」。 そのピースが、九十九の圧倒的な暴力という火花の中で、一つに重なろうとしていた。
「……ナギ、女の人。……俺の後ろに隠れてろ」
「透! 何を……残高は二千円ちょっとしかないんだよ!?」
「いいや、違う。……俺の残高は、今……『ゼロ』だ。だから、何だって買える」
透がカードを構えると、再構成された文様が真っ赤に燃え上がった。 それは、ユニオンの規約を真っ向から否定する、人類最古の契約の胎動だった。
現在のステータス: 神城 透
残高:0円(※カードが硬貨と共鳴し「初期化」を開始)
負債総額:3,000,000円(※特別審査中・九十九による強制執行開始)
信用スコア:なし(エラーコード:ZERO)
状態:カードの物理変容、父の記憶の同期、キャッシュ派との接触
第11話へ続く:【チャージ】約束の重さと、灰色の雨




