辺境伯領
翌朝。
王都の空は、私の心のように鉛色に曇っていた。
メイフィールド侯爵邸の正門には、王家の紋章が入った馬車が停まっていた。
「エミリア…!」
「お姉様、嫌だ!行かないで!」
母は泣き崩れ、弟と妹が私のスカートを掴んで離そうとしない。
王家から派遣された護衛の騎士たちは、無理やり引き剥がすようなことはしなかった。
彼らは沈痛な面持ちで、家族の別れを静かに見守っていた。
「…エミリア様。出発のお時間です」
隊長格の騎士が、絞り出すような声で告げた。 彼は、以前私が王太子殿下の婚約者として視察に同行した際、怪我をした部下を気遣った私に、深く頭を下げてくれた人物だった。
「……ええ。分かっています」
私は、泣き叫ぶ弟を抱きしめ、精一杯の笑顔を作った。
これが、今生の別れになるかもしれない。
それでも、私が笑顔でなければ、家族は一生悔やみ続けるだろう。
「お父様、お母様、兄様。…今まで、ありがとうございました」
「エミリア、必ずお前を救い出す。すまないが少しの間だけ耐えてくれ…不甲斐ない我々を許しておくれ」
目を真っ赤に充血させた父と兄が、沈痛な面持ちで謝罪をしてきた。
でも大丈夫。私が我慢すれば、家族は今まで通り幸せに暮らせるのだ。
深く一礼し、私は馬車に乗り込んだ。
バタン、と重い扉が閉ざされる音が、まるで牢獄の鍵をかけられたように響いた。
馬車が動き出す。
窓の隙間から、遠ざかる家族の姿が見えた。
父が、雨に打たれたように立ち尽くし、何かを叫んでいる。
兄が、拳を握りしめて涙をこらえている。
(さようなら…)
王都の城壁が見えなくなり、風景が荒涼とした街道へと変わっていくにつれ、私の心は冷たい恐怖に支配されていった。
これから向かうのは、アバロニア王国の北の果て。
魔物と犯罪者が跋扈し、すべてが凍てつくと言われる極寒の辺境地。
そして何より、そこで待っているのは――。
『残虐非道』のカイル・ヴァイスハルト。
残虐な噂が次から次へと出てくる、最悪の辺境伯。
私は、そんな男の元へ「生贄」として差し出されたのだ。
◇◇◇
「エミリア様」
休憩のたびに、騎士たちは私に温かいスープや、柔らかいパンを差し出してくれた。 それは彼らが自分たちの配給を削って用意したものだと、見てすぐに分かった。
「…申し訳ありません。我々には、王命に従い、貴女様を送り届けることしかできません」
「我々は、貴女様の慰問にどれほど救われたか…」
騎士たちは、悔しげに口々に呟いた。 彼らの言葉は嬉しかった。けれど、それが余計に私の胸を締め付けた。
現場の兵士たちがこれほど慕ってくれても、クレイグ様にとっては、私はただの「無能」でしかなかったのだ。
数週間に及ぶ過酷な旅路で、私の体は痩せ細り心は擦り切れ、騎士たちの不器用な優しさと「家族を守れた」という事実だけが、私の心の支えとなった。
◇◇◇
領境の峠を越えた時、私は目を疑った。
(…え?)
窓の外に広がっていたのは、噂に聞く「死の大地」とは到底言えないものだった。
確かに空気は冷たく、遠くの山頂には万年雪が輝いている。
けれど、眼下に広がる大地は、針葉樹の森が青々と茂り、澄んだ川が流れ、王都よりも遥かに力強く、雄大な自然に満ちていた。
「ここが、辺境伯領…?」
魔物と犯罪者が跋扈する地獄だと聞いていたのに。
車窓を流れる景色は、厳しくも美しく、私の予想を裏切り続けていた。
「…綺麗な場所ですね」
御者台の騎士が、驚いたように呟くのが聞こえた。
やがて森が開け、幾つかの村と町を通り過ぎると巨大な城郭都市が姿を現した。
その中心、小高い丘の上に、その城はあった。
「あれが、ヴァイスハルト城…」
噂では、血と氷に塗れた、魔王の居城のような場所だと聞いていた。
けれど、目の前にあったのは、息をのむほどに美しい、童話の挿絵に出てきそうな「白い大理石」の城だった。
冬の陽光を反射し、真珠のように白く輝く城壁。
威圧感よりも、どこか神聖さすら感じさせる佇まい。
それは、薄汚れた王都の城壁よりも、遥かに気高く見えた。
馬車が、城の正門をくぐる。
石畳の上で車輪が止まり、重い扉が開かれた。
「…到着、いたしました」
護衛隊長が、扉を開ける。
その顔は、罪悪感に歪んでいた。
彼らにとってここは、大切な恩人を「生贄」として捧げる祭壇なのだ。
私は隊長の手を借りて、地面に降り立った。
その瞬間だった。
(…?)
靴越しに、石畳の感触が伝わってくる。
冷たいはずの石畳。
なのに、足裏からふわりと、「温かい気持ち」が流れ込んできたのだ。
それは物理的な熱ではない。
極寒の夜に外から帰ってきて暖炉の火に当たった時のような、あるいは、幼い頃に母に抱かれた時のような、懐かしく、優しい「温かさ」。
(どうして…?)
私は思わず、その場にしゃがみ込み、白い石畳にそっと手を触れた。
やはり、温かい。
まるで、この城全体が、長い旅を終えた私に「おかえり」と言ってくれているかのような錯覚。
長旅の疲れと恐怖で、感覚がおかしくなってしまったのだろうか。
それとも、この美しい白亜の城には、私の知らない魔法がかけられているのだろうか。
「…エミリア様、参りましょう。」
私が恐怖で倒れ込んだと思ったのだろうか、隊長が意を決したように声をかけた。
彼もまた、剣の柄を握る手に力が入り、震えを抑えているのがわかった。
「ええ。…行きましょう」
そうだ。ここは「残虐非道」な辺境伯の居城。
この美しい外観に騙されてはいけない。
この奥には、世にも恐ろしい残虐非道な男…そして私の婚約者が待っているのだ。
私は震える手を胸の前で握りしめ、温かい石畳の感触を唯一の支えにして、巨大な城の扉へと歩みを進めた。




