セーブしない、という選択肢
屋上での一件以来、俺と雪白月奈の関係は奇妙な形で安定していた。
俺たちはたまに一緒に登下校するようになった。といっても他愛ない会話が続くわけでもなく、気まずい沈黙がほとんどを占める。だがその沈黙はもう不快ではなかった。
彼女の日常を守るため俺は日々理不尽な「ゲーム」と戦い続けている。街中で廊下で教室で、予期せず発生する【不運】。それが【フラグ上書き】で最悪のエッチなハプニングに変換された直後、俺は即座に【セーブ&ロード】を発動する。
毎朝家を出る前のセーブ、ハプニング発生、月奈の絶望顔、即ロード、そしてやり直し。その無限にも思えるループ。その繰り返しで俺の体力は常にギリギリだったが、それでも彼女の悲しい顔は見たくなかった。
そんな綱渡りのような日常。俺はもっと確実な新しい関係への一歩を模索していた。
月曜日の帰りのホームルーム。担任教師が分厚い出席簿を教卓にバンと叩きつけた。その音で教室内の空気がビリリと震える。
「いいかお前ら、来週は地獄の中間テストだ。先に忠告しておく。赤点を一つでも取ったヤツは補習があるからな!」
その宣言に教室のあちこちから「うぉー…」「まじかよ…」という絶望の声が上がる。
「特に数学と古典! 毎年ここが鬼門だからな! 覚悟しておくように!」
教師の最後の言葉が俺、時枝優の心に突き刺さった。
数学は俺の得意科目だ。論理で構築された数式の世界はゲームの攻略と同じくらい得意。だが古典はダメだ。「作者の考えを述べよ」なんて超能力者でもなきゃ分かるわけがない。赤点はほぼ確定だった。
俺が古典の教科書を前に頭を抱えていると、隣の席の月奈が数学の参考書を開いたまま綺麗な眉をひそめて小さくため息をついたのが見えた。その姿はまるで難解な古代遺跡の謎に挑む孤高の考古学者のようだ。
彼女の白い指が複雑な数式の上をいったりきたりしている。その動きが彼女の戸惑いを雄弁に物語っていた。
(……チャンスだ)
心臓がドクンと大きく鳴る。
(これなら自然な口実で彼女ともっと話せる…!共通の敵『中間テスト』。これほど完璧なイベントフラグはない!)
俺のゲーマーとしての勘がそう告げていた。
だが同時に俺の中の臆病な自分が即座に警鐘を鳴らす。
(無理だ。断られたら? 変なヤツだと思われたら? 少しだけ縮まったこの距離がまた遠くに戻ったら…?)
脳裏にこれまでの失敗が走馬灯のように蘇る。彼女の軽蔑した瞳や絶望した顔。あの光景はもう二度と見たくない。
(どうしよう…一旦【セーブ】しておくか? 失敗したらまたロードすればいい…。リスクはない)
俺の指が無意識に何かを掴むように震える。そうだ、その手があった。安全策を取るのがゲーマーの定石だ。
だが——。
(…いや、ダメだ)
俺は奥歯をぐっと噛みしめる。
(こんなところで毎回セーブしていたら俺はいつまで経っても成長しない! これは現実世界なんだ。俺自身の足でフラグを立てに行くんだ!)
脳裏に屋上で見せた彼女の、あの花の咲くような笑顔が蘇る。あの笑顔はスキルが生んだ偽物じゃない。俺のたった一つの誠実な行動が引き出した本物の奇跡だった。
(そうだ。俺は彼女に釣り合う男になるって決めたじゃないか!)
俺は意を決して立ち上がった。
心臓は破裂しそうなほど高鳴っている。
だがもう迷いはなかった。
ガタッと俺の椅子が大きな音を立てる。教室に残っていた数人の視線が一斉に俺に突き刺さった。気にしない。今の俺の目にはただ一人、雪白月奈の姿しか映っていなかった。
一歩また一歩と彼女の席に近づく。その距離がまるで果てしなく遠いように感じた。
「あ、あの、雪白さん!」
俺の声に彼女は読んでいた参考書から顔を上げた。その紫水晶の瞳には「何?」という文字がはっきりと浮かんでいる。
「い、今帰り…? その、邪魔してごめん!」
「…用がないなら話しかけないでくれる?」
いきなりの氷のように冷たい先制攻撃。心が折れそうだ。だがここで引くわけにはいかない。
「用ならある! その…さっきのテスト範囲のことなんだけど…」
俺は必死に言葉を繋ぐ。
「数学とか…。もしかして雪白さん、苦手だったりするのかなって…」
俺の言葉に月奈は少しだけ不機嫌そうにぷいっと顔を背けた。
「…だとしたら何よ」
(よし食いついた!)
俺はパニックになりながらも震える声で、作戦の核心を口にした。
「俺、数学はその、少しだけ得意だから、教えられるかも…! そ、その代わりと言ってはアレなんだけど…俺、古典がもう本当に壊滅的で…!」
「もしよかったら、雪白さんに教えてもらえないかなって…!」
俺の必死の提案に月奈はしばらく黙って俺の顔を見つめていた。その紫水晶の瞳が俺の真意を探るように細められる。値踏みされるようなその視線に俺の寿命は確実に縮んでいた。
やがて彼女はふっと小さく息を漏らした。
「……フン。まあ、悪くない取引ね」
彼女は俺の提案の合理性を理解したようだ。そしてその口元にほんのわずかな、しかし確かな笑みが浮かぶ。
「しょうがないから、その不器用な同盟、乗ってあげるわ」
「ほ、ほんとにか!?」
俺が喜びで固まっていると月奈は「はぁ…」と今度こそわざとらしい大きなため息をついた。
「行くわよ。善は急げって言うでしょ」
彼女はそう言うと俺の腕に、その白くて繊細な手を伸ばしてきた。
そして何の躊躇もなく俺の手首をきゅっと掴む。
「へっ!?」
信じられないほどの温かみが手首の一点から俺の全身に駆け巡った。
触れた指先の驚くほど滑らかな感触。今まで感じたことのない柔らかくて、でも少しだけひんやりとした彼女の肌。
(手…手首握られてる…!? 雪白さんに!? なんで!?)
「な、何してるのよ、早く行くわよ! テストまでもうあんまり時間ないんだから!」
月奈は顔を真っ赤にしてそっぽを向きながら俺の腕をぐいっと引っ張る。
「ただし」
彼女は俺を引っ張りながら振り返りざまに人差し指を立てて俺に釘を刺した。
「変なことしたら即刻破棄だから。分かってるわよね、時枝くん」
その言葉は厳しかったが彼女の表情はどこか楽しそうだった。
俺は手首から伝わる彼女の温かさと花の蜜のような香りに完全に思考を奪われ、ただ「は、はい!」と頷くことしかできない。
こうして俺と雪白月奈の奇妙で不器用な「同盟」は、結ばれたその数分後には彼女自身の手によって最初の共同戦線へと強引に連れ出されることになったのだ。
(いきなりハードモードかよ!でも…最高だ!)
俺は先を歩く彼女の少しだけ弾むような背中を追いかけながら、心の中で高々とガッツポーズをした。