屋上の絶望
昼休み。教室は弁当を広げるグループや廊下で騒ぐ男子たちで、けたたましいほどの喧騒に包まれていた。
俺と月奈の席の周りだけ、クラスメイトたちの好奇と遠巻きの視線が集中しまるでスポットライトが当たっているかのような奇妙な真空地帯ができている。
月奈は机の上に自分の弁当を置きながらも、その視線が鬱陶しいのだろうか、どこか落ち着かない様子で固く唇を結んでいた。その横顔に昨日のような笑顔はない。
(……ダメだ。このままじゃ彼女がゆっくり休めない)
昨日俺はこの世界の攻略法を見つけた。不運を恐れるのではなく俺自身の行動で「幸運」を積み重ねていくこと。
今のこの状況は俺が行動を起こすべき、最初の「イベント」じゃないのか?
朝の登校はただ一緒に歩くだけで精一杯だった。でも今は違う。彼女が困っている。助けたい。
(もしここで失敗したら? また最悪のハプニングが起きたら…?)
脳裏に昨日のずぶ濡れの彼女と、その絶望した瞳が蘇る。ゴクリと喉が鳴った。
怖い。だがここで動かなければ俺はただの「隣の席の、ちょっと気になる変なヤツ」のままだ。ギャルゲーの主人公ならここで動かないなんて選択肢はない!
俺はこの穏やかな時間を永遠のものにするため、そしてこの後の「昼休みイベント」で最高の選択をするために新たなセーブを決意した。
「——【セーブ】」
心の中でそう呟いた瞬間、脳内にシステムメッセージが警告を発する。
>セーブポイントは1つのみです。既存のデータ『スロット1:決戦の朝』を上書きしますか? 【YES】/【NO】
(朝のセーブデータを失うのは痛いが仕方ない。最高の未来のためだ!)
俺は心の中で強く【YES】を選択した。
>セーブポイントを作成しました。スロット1:穏やかな昼休み
カシャッ、という幻聴が響く。これで準備は万端だ。
俺は意を決して隣の席の彼女に小さな声で話しかけた。
「…あのさ、雪白さん」
「…何?」
俺の言葉に彼女の肩がピクリと揺れる。
「よかったら屋上で食べないか? ここより静かだから」
俺の言葉に月奈は驚いて目を見開いた。その瞳は「なんでアンタと?」と雄弁に語っている。だが教室中の好奇の視線と俺の提案を天秤にかけ、彼女は一瞬だけ逡巡した後小さく頷いた。
「……分かった」
俺と月奈は連れ立つようにしてざわめく教室を脱出した。廊下ですれ違う生徒たちの「え、あの二人マジで!?」みたいな視線が背中に突き刺さるがもう気にしない。
屋上へと続く階段を上り重い鉄の扉を開ける。
途端に心地よい風が俺たちの髪を揺らした。遮るもののないどこまでも続く青い空。眼下からはグラウンドで活動する運動部の掛け声が遠くに聞こえる。
最高のロケーションだ。
俺たちはフェンスから少し離れた日当たりの良い場所に並んで腰を下ろす。
そしてそれぞれの弁当の蓋を開けた。
気まずい沈黙が流れる。だがそれは教室での息が詰まるような沈黙とは違う。時折風の音が聞こえるだけの穏やかで心地よい沈黙だった。
俺はちらりと月奈の弁当に目をやる。
そこにはタコさんの形をした赤いウインナーがブロッコリーの森の隣で可愛らしく鎮座していた。卵焼きは星の形にくり抜かれミニトマトが彩りを添えている。完璧な布陣だ。
「…それ、好きなのか? タコさんウインナー」
思わず漏れた言葉に月奈の肩が再びピクリと揺れる。
「べ、別に!好きとかじゃなくて…!彩りが、いいかなって…!」
顔を赤らめて少しムキになって否定する月奈。
「そ、そうか。いや、すごいなと思って。自分で作ってるんだろ?」
「…まあね。練習よ、練習」
「練習?」
俺が聞き返すと、彼女は、ぽつりぽつりと、今まで見せたことのない、か細い声で語り始めた。
「…昔から、見た目で色々言われるの、嫌だったから…。料理とか、裁縫とか、ちゃんとしてるって…家庭的だって思われたくて…」
そこまで言うと、彼女ははっと我に返った。
「…っ! って、何言わせるのよ!忘れて!」
ぷいっとそっぽを向いてしまうが、その横顔は、ただ照れているだけじゃない。何か、深い痛みをこらえているように見えた。
(可愛い…)
クールな仮面の下にある子供っぽくて不器用な一面。そのギャップに俺の心臓はドキドキと高鳴る。
この穏やかな時間がずっと続けばいいのに。
俺がそんなことを考えていた、その時だった。
空から大きな影が猛スピードで二人に向かって降下してくる。
ピーヒョロロ!
甲高い鳴き声。一羽の大きなトンビだ。その狙いは月奈の弁当の中の真っ赤なタコさんウインナー。
「危ない!」
俺が叫ぶのと月奈が「きゃっ!」と悲鳴を上げるのはほぼ同時。これが今回の【不運】だった。
>不運を検知。スキル【フラグ上書き】を発動します。
「やめろぉぉぉぉ!」
俺の心の叫びも虚しくスキルが発動する。「弁当のおかずを奪われる」という不運は回避された。トンビは寸前で獲物を見失い空へと急上昇していく。
しかしその代償はあまりにも大きかった。
バサッ!
トンビが二人のすぐ横を通り過ぎる際に起こした強烈な翼の風圧が、真下から月奈のスカートを煽り、まるでパラシュートのように、あるいは祝福される花嫁のヴェールのように、ふわりと大きくまくり上げてしまった。
時が止まったように感じた。
青空の下、彼女の秘密が無防備に晒される。
淡いピンク色の生地にサイドに小さなリボンがあしらわれた可愛らしいデザインのパンツ。それは彼女の清楚さと隠された女の子らしさを同時に体現しているようだった。
薄い布地が彼女の丸みを帯びた柔らかなラインをありありと描き出している。
花の蜜のような甘い匂いが風に乗って俺の鼻腔をくすぐる。
俺の脳はその圧倒的な情報量を処理できずに完全にフリーズした。
風が止み重力に従ってスカートが元の位置に戻る。だが起きてしまった事実は変わらない。
月奈は弁当を持ったまま完全に固まっている。その顔は青ざめ、さっきまでの穏やかな表情はどこにもない。彼女はゆっくりと壊れた人形のように自分の弁当を見つめ、そして俺の顔を見る。
その瞳には軽蔑でも怒りでもない。ただどうしようもない「諦め」と、「やっぱりこうなるんだ」という深い絶望の色だけが浮かんでいた。
「…………もう、いやだ…」
か細い消え入りそうな声で彼女はそう呟いた。
「ちが、今のは、鳥が…!俺のせいじゃ…!」
俺の必死の弁明も彼女の耳には届いていない。
月奈は静かに立ち上がると食べかけの弁当をその場に残し、ふらふらとした足取りで屋上の出口へと向かっていった。
その背中があまりにも小さく、儚げに見えた。
シーン……
一人屋上に残された俺。目の前には彼女が残していった可愛らしい手作り弁当。タコさんウインナーがどこか悲しげにこちらを見ている。
彼女が俺のために作ってくれたわけじゃない。それでもこの弁当には、彼女が言っていた「ちゃんとしてるって思われたい」という、不器用で切実な願いが詰まっていたはずだ。
俺はそれを、最悪の形で踏みにじった。
この最悪の結末を受け入れるしかないのか?
いや、ダメだ。彼女のあの顔を見たままで明日を迎えるなんて絶対にできない。
(ロードするしかない。でも戻れるのは、ついさっき俺が上書きしたばかりの昼休みの教室だけだ。鳥が襲ってくる数分前にしか戻れない。この絶望的な状況をどうすれば変えられる? 何度やり直しても、また同じ結果になるだけなんじゃないのか…?)
絶望的な自問自答。だが答えは一つしかない。
たとえ同じ結末が待っていようと、何もしないよりはマシだ。
俺は屋上のフェンスに寄りかかり、青すぎる空を一度だけ見上げる。
そしてこの絶望的なループに再び挑むことを覚悟して、固く目を閉じた。
「——ロード!」