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氷の女王の、蕩ける笑顔

翌朝。俺は人生で初めて、制服の襟元を何度も確認し、鏡の前で寝癖と格闘した。

(やばい、完全に浮かれてる、俺…)

昨日の月奈の破壊力抜群の笑顔と、「明日ここで待ってるから」という言葉が脳裏に焼き付いて離れない。夢じゃなかった。今日から俺のラブコメが本当に始まるんだ。


(…いや、待てよ)

こういう時こそ油断は禁物だ。ギャルゲーの鉄則は、重要なイベントの前に必ずセーブすること。そして今日という一日は、間違いなく俺の人生における最重要イベントだ。

俺は目を閉じ、意識を集中させる。

「——【セーブ】」

心で呟いた瞬間、脳内にシステムメッセージが警告を発する。


>セーブポイントは1つのみです。既存のデータ『スロット1:玄関前』を上書きしますか? 【YES】/【NO】


(上書きセーブかよ…このクソゲーが!)

玄関前のデータを失うのは痛いが仕方ない。俺は心の中で強く【YES】を選択した。


>セーブポイントを作成しました。スロット1:決戦の朝


これで準備は万端だ。俺は期待と緊張で張り裂けそうな心臓を抑え、約束の場所へと向かった。


家の前には、すでに月奈が壁に寄りかかり、スマホをいじるフリをして待っていた。その耳はほんのり赤い。気まずさと期待が入り混じる、甘酸っぱい空気だ。

「お、おはよう、雪白さん」

「…うん。おはよ」

ぎこちない挨拶を交わし、俺たちは絶妙な距離を保って学校へ向かう。何を話せばいいのか分からない。昨日あれだけのことがあったのだ。彼女の顔をまともに見ることすらできなかった。


沈黙に耐えかねて、先に口を開いたのは俺の方だった。

「あ、あのさ、雪白さん…昨日は、その…大丈夫だった…?」

俺の言葉に月奈の肩がピクリと揺れる。彼女は前を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。

「…別に。何が?」

とぼけているのか本心なのか。その声からは読み取れない。

「え、いや、その、色々…あったから…」

俺がしどろもどろに言うと、彼女はなぜか少し呆れたような瞳でこちらを向いた。


「それ、こっちのセリフでしょ」

「へ?」

「あなたこそ大丈夫だったの? 昨日、膝、すりむいてたじゃない」

「え、あ、うん!全然大したことないよ!もう治ったし!」

まさか俺の心配をされるとは思ってもみなかった。俺は慌ててそう答える。

月奈は俺の返事を聞くと「…そう」とだけ短く呟いて再び前を向いてしまった。その横顔が少しだけ不満そうに見えたのは、きっと気のせいじゃない。

そして小さな、本当に小さな声でこう付け加えた。

「…別にあなたの心配をしたわけじゃないんだから。命の恩人が私のせいで怪我したってなると、寝覚めが悪いだけ」


(……命の恩人)

その言葉の破壊力に心臓が大きく跳ねる。不器用な言葉に隠された彼女の優しさが、どんな攻略情報よりも嬉しかった。


校門をくぐった瞬間、全校生徒の視線が俺たち二人に突き刺さる。

「え、あれ時枝じゃん」「隣の超絶美少女、誰!?」「なんで時枝と一緒なんだよ!?」

ざわめきが波のように広がり、教室に入ると頂点に達した。

「待って、あの子じゃない? 噂の転校生」「マジでレベル高すぎ…」「CGかよ…」「いや、問題はそこじゃねえだろ。なんで時枝と!?」


友人の鈴木が驚きとニヤニヤが混じった顔で俺の肩を掴む。

「おい時枝!一体どんな裏技使ったんだよ!教えろ!」

「るっさいな!ただの隣人だ!」

俺が鈴木とじゃれ合っていると、担任教師が月奈を「転校生の雪白月奈さんです」と紹介した。

そして先生は追い打ちをかけるように告げる。

「ちょうど良かった、今から席替えだ!」


クラス中が「よっしゃー!」と沸き立つ。俺はこのタイミングでの強制イベントに嫌な予感しかしない。

担任が手作りのくじが入った箱を教卓に置く。「よし、じゃあ順番に引いてけー」


生徒たちが次々とくじを引き、一喜一憂しながら新しい席へ移動していく。

やがて月奈の番が来た。彼女は無表情のまま席を立ち、くじを引く。

彼女が引いた席は——窓際の後ろから二番目。俺が今座っている席の、真隣だった。

クラス中の視線が俺と月奈の間に突き刺さる。

(終わった…)

月奈は俺の絶望しきった顔を見て、何かをこらえるように口元をきゅっと結んだ。そして俺に背を向け、新しい席へ向かうその瞬間、俺の耳にか細い息のような笑い声が届いた。「フッ…」。

彼女は新しい席に着くと何事もなかったかのように静かに座ったが、その肩が微かに震えているのを俺は見逃さなかった。

(今の、笑い声…? 俺、バカにされてるのか…? でもなんだか、嫌な感じじゃない…)


その後も席替えは続き、ついにクラスの全員がくじを引き終えた時。

まだ席を移動していないのは俺一人。そして教室に空いている席も、ただ一つだけだった。

——雪白月奈の、真隣の席が。


「おい時枝、突っ立ってないで早く座れ。空いてるのはそこだけだろ」

先生の呆れたような声が教室に響く。

俺はまるで断頭台へ向かう罪人のように、重い足取りで彼女の隣の席へと向かった。


(これが、システムのシナリオか…!)

俺はこれから始まるであろう強制イベントの嵐を予感し、天を仰いだ。


月奈が新しい席に荷物を運び、静かに椅子に座る。俺たちの間に気まずい沈黙が流れる。

俺がどう声をかけるべきか悩んでいると、先に口を開いたのは意外にも月奈の方だった。


「……」

彼女はしばらく何かを言いたそうに唇をきゅっと結んでいたが、やがて小さな、本当に小さな声で俺にだけ聞こえるように呟いた。

「…あのさ」

「へ?」

「…知らない人だらけだから…。その、時枝くんが隣で、良かった、かも…」


——え。

いま、なんて言った?俺の聴覚は正常か?彼女は今、確かに「良かった」と、そう言ったのか?

俺が驚きにフリーズしていると、月奈は自分の発言の破壊力に気づいたのか、顔を真っ赤にして慌てて付け加えた。

「べ、別に深い意味はないんだからね!ただ、その…!あなたが一番マシかなって思っただけだから!」

そう早口で言って彼女はぷいっとそっぽを向いてしまった。その耳まで完全に茹でダコのように赤くなっている。


(……破壊力が、高すぎる…)

俺は彼女の不意打ちのデレに心臓を撃ち抜かれた。


ピコン♪ というSEと共に、俺の脳内で実績解除の通知がポップアップした。

>『実績:氷の女王の隣席』を解除しました。


(なんだこの可愛い生き物は…!これが雪白月奈の、本当の姿…!?)


最初の授業は古典。教科書を開くよう指示が出た時、俺は隣の月奈の様子がおかしいことに気づいた。

(まさか…忘れたのか? それとも新しい学校だから教科書が違うとか?)

転校初日、最初の授業での忘れ物。完璧主義者っぽい彼女にとってこれは痛恨のミスだろう。彼女の肩が小さく震えている。

(チャンスだ…!)

俺は昨日見つけた攻略法——「幸運グッドイベント」を自ら生み出す——を実践する時だと悟った。

彼女のプライドを傷つけないよう、無言で行動を起こす。自分の椅子を引き、机の脚を掴むと、ゴトッと音を立てて俺の机を彼女の机にぴったりとくっつけた。

「え…?」

驚いてこちらを見る月奈。俺は何も言わず、自分の教科書を二つの机の真ん中にすっと置いた。そして彼女の方をちらりと見て小さく頷いてみせた。


月奈は俺の行動に一瞬驚いた顔をしたが、すぐにその意図を察したようだ。彼女は誰にも聞こえないくらいの小さな声で「…どうも」と呟くと、恥ずかしそうに少しだけ椅子を俺の方に寄せた。

その時だった。

俺が先生の話している箇所を指さして教えようと教科書に指を置いた瞬間。彼女も同じ場所を追おうとしていたのか、俺の指先に彼女の繊細な指が近づく。

すると、指先からピリッと微かな静電気が走る——【不運】。


>不運バッドイベントを検知。スキル【フラグ上書き】を発動します。


「しまっ…!」

脳内に響くシステムメッセージ。だが今回の変換はこれまでとは少し違った。

世界が歪むような感覚はなく、ただお互いの指が触れた部分から、まるで磁石のような不思議な引力が生まれる。

俺と月奈の体が意図せずぐっと引き寄せられた。机の上の教科書を二人で一緒に覗き込むような、超至近距離。


花の蜜のような甘く優しい彼女の匂いが俺の思考を麻痺させる。

視界の端には彼女のシルクのような黒髪。そして目の前にはほんのりと赤く染まった、きめ細かい肌の頬。

彼女が驚いてこちらを向く。その長いまつ毛に縁どられた紫水晶の瞳が俺を至近距離で捉えた。

その瞬間、彼女の唇がふわりと花が開くように綻んだ。

それは驚きと恥ずかしさと、そして面白さが入り混じったような完璧な、優しげな笑顔だった。


ドクン、と俺の心臓が大きく跳ねる。

(——蕩ける)

その笑顔の破壊力に俺の思考は完全に焼き切れた。


「…ぷっ。近い」

月奈はそう言って悪戯っぽく笑うと、俺の腕をポンと軽く叩いた。

そして名残惜しそうに、しかし素早く体を離す。

彼女の頬も耳も真っ赤だったが、その表情にこれまでの絶望の色はどこにもなかった。ただ恥ずかしそうに、そして少しだけ楽しそうにはにかんでいる。


>幸運グッドイベントを観測。【対象:雪白月奈】の【ときめき度】が大幅に上昇しました。


脳内に鳴り響くレベルアップのファンファーレ。俺は、難攻不落のクエストをクリアした時のような、至高の達成感に打ち震えた。

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