時間が、止まったみたいだ
その日一日、俺の抵抗は虚しく空回りし続けた。
授業中に必死に話しかけても彼女からの返事は短く他人行儀なものだけ。
昼休みには屋上で以前のように弁当を食べようと誘ってみた。月奈は戸惑いながらも断りはしなかったが、そこに以前のような和やかな空気はなく、ただ気まずい沈黙が二人の間に横たわるだけだった。
放課後、俺は半ば強引に彼女を思い出の場所へと連れ出した。
初デートで訪れたあのカフェへ、そしてクレーンゲームに熱中したあのゲームセンターへ。
「……なんだか前にもここに来たことがあるような…」
月奈はそう呟いて不思議そうに首を傾げる。だがその既視感はまるで水面に映った月のように決して掴むことはできず、彼女の記憶が戻ることはなかった。
◇
タイムリミットである日没が刻一刻と迫っていた。
公園のベンチに並んで座りオレンジ色に染まる空を眺める。もう打つ手はない。俺の心は焦りと絶望で張り裂けそうだった。
そんな俺の必死な横顔を月奈はじっと見つめていた。
彼女の瞳から朝一番の不審者を見るような色は消え、代わりに純粋な疑問とほんの少し慈しむような光が宿っていた。
「…あなた、どうして私のためにそこまでしてくれるの…? 私たち、今日会ったばかりなのに…」
そのあまりに純粋な問いに、俺の中で何かがぷつりと切れた。
俺は彼女の肩を掴みその瞳をまっすぐに見つめ返し、抑えきれない想いを魂の底から叫んでいた。
「決まってるだろ! 俺は月奈のことが…! お前のことが、世界で一番好きなんだ!」
俺の不器用であまりにも真っ直ぐな告白に、月奈の大きな瞳がこれ以上ないくらい見開かれる。
「なっ…!? なに、いきなり…!」
次の瞬間、彼女の頬は夕日よりも赤く熱く染まった。
(なんでこんなに心臓がうるさいの…?)
(なんでこんなに嬉しいの…?)
自分の気持ちの奥底にある温かい感情の正体が分からず、彼女はただ混乱していた。
やがて彼女はその混乱を振り払うように意を決した瞳で俺を見つめた。
「…あなたのこと、教えて」
「え?」
「あなたのことを教えてくれたら、何か思い出せるかもしれないから…」
その言葉に俺は戸惑いながらも自分のことを語り始めた。
「え、お、俺のこと? そ、そうだな…ギャルゲーが好きで……」
俺は『となりのエンゼル☆吐息3』のヒロイン「雪城星羅」がいかに自分にとっての女神であったかを熱弁する。そして月奈がその星羅にそっくりだと口走ってしまいすぐにパニックになった。
「あ、いや、でも今はその、星羅じゃなくて月奈のことが本当に好きだから! 代わりとかじゃなくて!」
テンパる俺の姿に月奈は思わず「ぷっ」と吹き出した。
「あははっ! なに焦ってんのよアンタ。面白い人ね」
その一点の曇りもない笑顔を見て俺はふっと肩の力が抜ける。(ああもういいか…。クエストに失敗しても、こうしてまた一から君との関係を築いていけるなら…)
「向こうに俺がいつも行ってるゲームショップがあるんだ。見ていかないか?」
俺の提案に月奈はこくりと頷いた。
◇
ゲームショップのビルの外壁には巨大な「雪城星羅」の看板が飾られていた。
自分と瓜二つの星羅の姿を見て月奈の頭に鈍痛が走る。
「待って、このキャラクター…。私、前に見たことがある…。それにこの服、自分で…コスプレしたような…」
「そうだよ! 俺のために手作りの衣装を着てくれたじゃないか! 思い出してきたか、月奈!」
俺が喜んだまさにその瞬間だった。
>不運を検知。スキル【フラグ上書き】を発動します。
(なんだよ! もう少しで記憶が戻るかもしれないってときに!)
ものすごい突風が吹き荒れ、月奈の制服のスカートがふわりと大きく捲れ上がる。
だが俺はもう動揺しない。
即座に彼女の前に回り込み、体を盾にしてその姿を周りの視線から完全に守っていた。
「あ、ありがとう…。あなた、いつもこうやって私のこと…。…あれ、なんで私、知ってるんだっけ…」
庇われた瞬間、月奈の脳裏にこれまでの全てが鮮明に蘇っていた。
屋上での不器用な「あーん」。
図書室でジャージをかけてくれた彼の優しさ。
そして何度も何度も俺が彼女のために体を張ってくれた、その全ての記憶が――。
「思い出した…!優くん、私…!」
月奈の瞳に確かな光が戻った。その喜びも束の間、事態は最悪の局面を迎える。
バキバキッ!と金属が引き千切れるような不吉な音が二人の頭上で鳴り響いた。
見上げると突風で根元から破壊された巨大な看板のフレームが、無数のボルトを弾き飛ばしながら俺たちめがけて落下してくるところだった。
>不運を検知。スキル【フラグ上書き】はクールタイム中につき発動できません。
脳内に響く無慈悲なシステムメッセージ。
(そ、そうか…。結局ゲームオーバーってことか…)
【ロード】はできない。奇跡ももう起きない。
(ならせめて月奈だけでも…!)
俺は最後の力を振り絞り、呆然と立ち尽くす彼女の体を全力で突き飛ばした。
「月奈ッ!」
頭上に迫る巨大な鉄の塊の影。下敷きになったらとても助からない。
俺は自分をまっすぐに見つめる月奈の、驚きと悲しみに濡れた顔を目に焼き付ける。
(ありがとう月奈。君と出会えて本当に良かった)
(これからは過去に怯えず、幸せに生きてくれ――)
突き飛ばされた月奈はスローモーションになる世界の中、愛おしさと驚きが入り混じった瞳で俺を見つめていた。
(あなたってホント馬鹿なんだから、優くん)
(優くん。そう優くん。いつも私を助けてくれる不器用で優しくて、たった一人の私だけのヒーロー、優くん)
優を失うという絶対的な恐怖。
それが彼女の中に眠っていた最後の扉を開ける。
(やだ、このままだと優くんが。私だけの優くんがいなくなっちゃう――!)
月奈の体が、まるでそうすることしか知らないとでも言うように、滑らかに、そして抗いがたい引力をもってしなる。
片方の足を軽く後ろに引き、腰をきゅっと捻る。制服のスカートがその動きに追従し、信じられないほど細いくびれのラインから、丸みを帯びた腰、そして豊かな太ももへと続く、完璧な曲線を露わにした。それは男の理想をそのまま形にしたかのような、罪深いまでの光景だった。
さらに彼女は息を吸い込みながら、迷いなく背中を反らせる。その動きに連動してぐっと突き出された二つの柔らかな膨らみは、白いブラウスの生地を薄く引き伸ばし、その圧倒的な存在感を主張する。今にも弾け飛びそうなボタンの隙間から、雪のように白い肌がわずかに覗いていた。それは暴力的なまでに生命力に満ちた、聖なる光景だった。
それは幾千、幾万の視線に晒され彼女が最も忌み嫌っていたはずの「商品」としてのポーズ。
しかし今の彼女の表情は作り物の笑顔ではなかった。
ただ愛する人を救いたいという一心だけがその瞳に気高く、神々しい光を宿している。
彼女のすべてが込められた覚醒のポーズ。
それは世界で最も美しい祈りの形だった。
死を覚悟した俺は目の前の光景にただ目を見開いていた。
(なんで今、グラビアポーズ…?)
(でも綺麗だ…。まるで時間が止まったみたいだ――)
彼女がポーズを決めた、その瞬間。
俺の頭上で死を告げていた巨大な看板の動きがぴたりと静止した。
世界から音が消えた。




