ようこそ、ギャルゲーみたいな現実へ
俺の意識は底なしの暗闇からゆっくりと浮上した。
目を開けてもそこに映るものは何もない。上下左右すべてが真っ白な無限の空間だ。痛みも熱さも匂いも音もなく、五感というインターフェースが完全に機能停止している。死んだのか? 天国か地獄か、あるいはロード中の待機画面か。トラックに轢かれたはずの身体に不思議と何の感覚もなかった。
俺がそんなゲーム的な思考を巡らせていると、目の前の空間にピコンという無機質な電子音が響き、レトロなアドベンチャーゲーム風のテキストボックスが浮かび上がった。
>【SYSTEM】
存在しないはずの心臓がドクンと跳ねる。
テキストが機械的なタイプ音を立てて一文字ずつ表示されていく。
>規定値の善行ポイント到達を確認しました。
>『自己犠牲的英雄行為』に特別ボーナスが付与されます。
>あなたの願い「ギャルゲーのような日常」の実現をサポートします。
「善行ポイント…? クソゲーみたいな仕様だな…」
思わず声に出たが自分の声が響くことはない。これは死後の夢か、それとも誰かの高次元的なイタズラか。俺の葛藤を無視するようにシステムメッセージは無慈悲に続く。
>以下のスキルを授与します。
>戦略スキル【セーブ&ロード】
>日常スキル【フラグ上書き】
次の瞬間、膨大な情報が脳内に直接流れ込んできた。痛みを伴わない純粋なデータの奔流だ。
【セーブ&ロード】とは任意の時点を記録して時間を巻き戻す力。ただしロードには術者の『体力・精神力』を大きく消耗するという。
【フラグ上書き】とは術者に降りかかる『不運』を自動的に『幸運』へ変換する力。ただしその幸運は必ず『エッチなハプニング』になるという、致命的なバグ、いや「仕様」付き。
>この仕様でゲームを開始しますか? 【YES】/【NO】
選択肢が表示される。俺が何かを考える前に【NO】の選択肢がフッと点滅して消え、【YES】のボタンだけがカチリという硬質な音と共に強制的に選択された。
視界が再び真っ白な光に包まれ、俺の意識は急速に遠のいていった。
「はっ…!」
俺は自室のベッドの上で勢いよく上半身を起こした。
窓から差し込む西日が部屋の埃をキラキラと照らしている。壁には愛する「雪城星羅」のタペストリー。鼻腔をくすぐるのは昨日食べ散らかしたポテトチップスの油とPCファンが吐き出す生ぬるい匂い。いつもの部屋の匂いだ。
俺は慌てて自分の体を確認する。痛みも怪我もどこにもない。
「夢、か…。だよな…。トラックに轢かれてスキル授与とかありえねーし…」
そもそもさっきの出来事は都合の良い夢に違いない。
ヒロインそっくりの女の子がこんなクソゲーみたいな現実にいるわけがないんだから。
そう結論づけようとする。だが体には鉛のような倦怠感がまとわりついていた。まるで三日間徹夜でゲームをした後のような強烈な疲労感。これも気のせいか…?
俺は時刻を確認しようと枕元のスマートフォンに手を伸ばす。
その指が画面に触れようとした瞬間、視界の右下に半透明のテキストボックスが出現した。
>【チュートリアル】スキル名:セーブ&ロード。意識を集中させることで、現在の状況を【セーブ】できます。
「ひっ…!?」
俺は短い悲鳴を上げてスマホをベッドの上に落とす。
夢じゃなかった。現実だ。あの白い空間もクソゲー仕様のスキルも全部。
俺の部屋は俺にとって唯一の安全な聖域だったはずだ。なのにその聖域が得体の知れない「ゲーム」に侵食されている。
この部屋は、俺の日常は、本当に「ギャルゲー」になってしまったのだ。
パニックに陥る俺の耳に階下から母親の呑気な声が響いた。
「優ー!起きてる? お向かいにユキシロさんって人が引っ越してきたから挨拶に行きなさい! お母さん今からパートだからお願いね!」
「——ゆきしろ…?」
その名前に俺の心臓が止まる。
まさか偶然か? それともあの『システム』とやらが仕組んだのか? これが最初の「イベントフラグ」だというのか?
行きたくない。でも行かなければならない。これが俺の「ゲーム」の始まりなのだから。
俺はおぼつかない足取りで玄関に向かう。軋む廊下の一歩一歩が処刑台への階段のように重い。
ドアノブに手をかける直前、俺はふと足を止めた。
脳裏にあのチュートリアルメッセージが蘇る。
(……試してみるか? まさかとは思うけど…)
もしこれが本当にゲームなら、もし本当にスキルが使えるなら。
最悪の事態に備えて保険をかけておくべきだ。ギャルゲーの鉄則は重要なイベントの前に必ずセーブすること。
俺は目を閉じ意識を集中させる。ゲームのセーブ画面を強く、強くイメージする。
「——【セーブ】」
心の中でそう呟いた瞬間。
カシャッというカメラのシャッター音のような幻聴が脳内に響き、視界の隅に再び半透明のテキストボックスが一瞬だけ表示された。
>セーブポイントを作成しました。スロット1:玄関前
「……マジかよ」
乾いた笑いが漏れる。どうやら俺は本当にこのクソゲーみたいな現実と向き合うしかないらしい。
俺は意を決してドアを開けた。
隣の家の玄関の前に彼女は立っていた。
今は先程の制服姿ではなく白いシンプルなワンピース姿だ。夕暮れの光が彼女のシルクのような黒髪を柔らかく照らす中、彼女が玄関の段ボール箱から顔を上げてこちらを向いた。
そして二人の視線が交差した。
間違いない。
事故の時に俺が突き飛ばしたあの少女だ。
俺が愛してやまない雪城星羅と瓜二つのあの顔。
風がふわりと吹き、花の蜜のような甘く優しい香りが鼻腔をくすぐる。
事故の直前、意識が遠のく中で感じたあの香りだ。
脳内でトラックのブレーキ音とガラスの砕ける音がフラッシュバックする。そうだ、彼女はあの時確かにそこにいた。そして俺は彼女を助けて…。
俺自身の記憶はそこで途切れている。
彼女が俺を認識した。
涼しげな瞳がありえないものを見るかのように大きく、大きく見開かれる。桜色の唇がわなわなと震えた。
その表情は恐怖というよりも純粋な「驚愕」と「混乱」。そして目の前の非現実的な存在を理解しようとする必死の「探求心」が入り混じっていた。
彼女は幽霊でも見るかのように後ずさることも忘れて俺に釘付けになっている。
俺は震える指を彼女に向けかすれた声を絞り出す。
「あ……あな、たは……」
それに対し彼女が目の前の存在の正体を問いただすように、か細くしかし芯の通った声で問い返す。
「あなた…あの時の…。あなたは私を突き飛ばして…それで消えたはず…。煙みたいに一瞬で」
「——あなた、一体、何者なの?」