俺だけの女神(ヒロイン)
月奈の部屋に入るのはもちろん初めてだ。
「ちょっと待ってて」
そう言って彼女は別の部屋へと消えていく。残された俺はシンプルで清潔に整えられた彼女の部屋を、落ち着かない気持ちで見回していた。
花の蜜のような彼女の香りがこの部屋には満ちている。それだけで俺の心臓はもう限界だった。
そして数分後。
「…お待たせ」
現れた彼女の姿に俺は息をのんだ。
そこにいたのは俺が愛してやまないゲームのヒロイン「雪城星羅」だった。
彼女が自分で作ったという完璧なコスプレ衣装。光沢のある白い生地と夜空のような深い青のコントラスト。
背中には銀色の片翼。そして胸元を飾る繊細な黒いレース。
その全てがゲームの中からそのまま抜け出してきたかのように完璧だった。
「…どうかな…? …優くんへの本当のご褒美。ずっと考えてたんだ」
そう言って彼女が別の部屋から出てきた時、俺は息をのんだ。
そこにいたのは彼が愛してやまない「雪城星羅」のコスプレをした完璧な月奈だった。
その衣装は彼女が自ら夜なべをして作った手作りのものだった。
月奈は恥ずかしさに顔を真っ赤に染め潤んだ瞳で上目遣いに俺を見つめる。
そして意を決したように息を吸った。
「…いいよ。見て。…あなたになら、全部」
彼女はそう囁くと、かつて何度もカメラの前で取らされたプロフェッショナルな動きでポーズを取り始めた。
片足を軽く曲げて腰をきゅっと捻る。その動きだけで彼女の引き締まったくびれと豊かなお尻のラインが、信じられないほど強調される。
そして胸をぐっと張り両手を後頭部で組む。それは彼女の豊満な胸のボリュームをこれ以上ないほど誇示する大胆なポーズだった。
それは彼女が最も嫌っていたはずの「商品」としての「月白ユキ」の姿。
しかし今の彼女の表情は昔のそれとは全く違った。
恥ずかしさに耐えるように唇をきゅっと結び頬は真っ赤に染まっている。それでもその瞳は真っ直ぐに俺だけを見つめていた。
(俺のためにここまで…。俺を喜ばせるためだけに…)
彼女は恥ずかしさに震えながらも、優のためだけに気高くそして美しく、星羅の決めゼリフを心を込めて「演じて」くれる。
「忘れないで。世界があなたに背を向けても、私だけは、あなたの隣であなたを守るから」
星羅のあの決めゼリフ。そのあまりの美しさと愛おしさに俺の思考がフリーズする。
本当に時間が止まったかのような錯覚に陥った。周囲の音が全て消え去り、世界にはただ、目の前の彼女だけが存在している。
その静寂のただ中で、彼女だけがスポットライトを浴びたかのように鮮やかに輝いていた。それはまるで、彼女自身がこの世界の法則に干渉しているかのような、神々しいまでの光景だった。
月奈は恥ずかしさに震えながらも俺のためだけに心を込めて星羅を「演じて」くれた。
そのあまりにも健気で愛おしい姿に俺の胸はもう張り裂けそうだった。
「雪白さん…。俺にはもったいないよ…」
俺がなんとかそれだけを言うと、彼女はコスプレ姿のまま素の表情に戻ってふわりと微笑んだ。
「月奈でいいよ」
「え…?」
「…ううん、月奈って呼んで」
彼女は俺の前にそっと一歩近づくとこう続けた。
「あなただけは特別。…だからいいの」
その言葉はどんな甘いセリフよりもどんなハプニングよりも、強くそして確かに俺の心に突き刺さった。
二人の間に壁はもう何もない。
俺はただ言葉もなく目の前の俺だけの女神をそっと優しく抱きしめた。
その瞬間、俺の脳内にこれまでのどんなものとも違う、温かくそして優しいファンファーレが響き渡る。
ピコン♪
>『実績:2.5次元の奇跡』を解除しました。
腕の中に伝わる彼女の温かさと甘い香り。
俺はこの幸福な瞬間を脳に魂に刻み付けようとした。
そしてある重大な事実に気づきはっと息をのんだ。
(いま彼女…俺のこと優くんって…!)
初めて名前で呼んでくれた。
その事実がじわじわと俺の心を、とてつもない幸福感で満たしていく。
——だがその直後。
俺の背筋を氷水のような絶対的な恐怖が駆け巡った。
(セーブは? 俺セーブしたか?)
血の気が引いていくのが分かった。あれほどあれほど重要イベントの前にはセーブしろと、数多のギャルゲーが俺に教えてくれたのに。
(どうして俺はいつも肝心なときにセーブを忘れてしまうんだー!!!)
脳内で絶叫するがもう遅い。
この彼女が俺を「優くん」と呼んでくれた奇跡も、俺のためだけにコスプレをしてくれたご褒美も、全てがロードもできないやり直しのきかない、たった一度きりの現実の上にある。
腕の中の天国のような温かさ。
そしてすぐそばにある地獄のようなセーブ忘れの絶望。
俺はその二つの感情に挟まれながらただ彼女を強く抱きしめることしかできなかった。
◇
その頃。
都心から少し離れた安アパートの一室。
部屋の明かりはつけられていない。薄暗い部屋を照らすのはノートパソコンのモニターから放たれる青白い光だけだった。
一人の男がその光を浴びながら憑かれたようにキーボードを叩いている。
男——月奈を執拗に追いかけていたストーカーは、川に落としたカメラの代わりに新しい武器を手に入れていた。
それは「匿名性」というこの世で最も卑劣でそして強力な武器だ。
モニターには彼が常駐している巨大匿名掲示板のスレッドが表示されている。
【緊急速報】元トップグラドル“月白ユキ”、地方都市に潜伏中【画像あり】
彼は、震える指で、数日前に隠し撮りした、一枚の写真をアップロードする。
それは、月奈が一人で、手芸用品店で、コスプレ用の布やレースを選んでいる、無防備な瞬間の写真だった。
彼女は、少し照れながらも、幸せそうに微笑んでいる。
1 名無しのファンさん
見てくれ、俺たちのユキちゃんだ。
最近同じクラスの男に入れあげてるらしい。
これは、その男に媚びるための、コスプレの材料を買ってるところだ。
[写真.jpg]
カチリ、とエンターキーを押す。
スレッドは瞬く間に、悪意の渦に飲み込まれていった。
2 名無しのファンさん
うおおおお!マジか!
3 名無しのファンさん
こいつ、まだそんなことやってんのかよ。反省してねえな
4 名無しのファンさん
健気すぎて、逆に泣ける…。男に貢ぐために、一人で…
5 名無しのファンさん
この男の顔、特定するか?
6 名無しのファンさん
住所も晒そうぜ。俺たちのユキちゃんを、取り戻すんだ
男はその反応を暗く粘つくような瞳で満足げに見つめていた。
彼は持っていた月白ユキの古い写真集をギリと強く握りしめる。
「君が僕だけのユキちゃんじゃなくなったのなら…」
「僕の知らないところで知らない男と笑うのなら…」
男は恍惚とした表情で独りごちる。
「——君の全てを、この世界から、消してあげるね」