セーブ禁止のキス
「…時枝くん。あなたが見ていたのは、ずっと、『私』だったの? それとも——この子だったの?」
月奈の静かで、しかし刃物のように鋭い問いかけにより、俺の心臓が氷水に浸されたかのように冷えていく。
脳内で警告音が鳴り響く。セーブはしていない。やり直しはできない。
ここで俺が答えるべき「正解」は何か?
『もちろん、君だよ』と嘘をつくか? いや、ダメだ。彼女の紫水晶の瞳はどんな嘘も見抜いてしまう。
俺は覚悟を決めた。ここで全てを正直に話すしかない。たとえ彼女に幻滅されて、この関係が今日ここで終わってしまっても。
「……両方だ」
俺の声は自分でも驚くほど静かに響いた。
「え…?」
「最初は君がこの子…『雪城星羅』にそっくりだから気になった。正直に言うと舞い上がってた。夢が叶ったんだって」
俺は一度言葉を切り彼女をまっすぐに見つめ返す。
「でも今は違う」
俺は自分の部屋に飾られた女神たちの姿を一つ一つ見つめながら、必死に言葉を紡ぐ。
「『となエン2』にあるんだ。主人公がみんなにバカにされて一人で落ち込んでるイベントが。その時誰よりも早く彼の孤独に気づいて、何も言わずにただ隣に座ってくれるのが星羅なんだ。その不器用な優しさに俺は救われた」
「彼女はいつも一人で戦ってる。名家の令嬢で天才で完璧だって周りからは言われてるけど本当は違う。家柄とか才能とか色々なものに縛られて本当の自分を誰にも見せない。それでも決して他人のせいにしない。たった一人で気高くあろうとする。その強さが俺は…眩しかったんだ」
そして俺は自分の心の一番奥にある、一番恥ずかしい部分を彼女に晒す覚悟を決めた。
「俺は…現実で誰かと話すのがずっと苦手だった。何を話せばいいか分からないし、どうせ俺なんかが話しかけても引かれるだけだってそう思ってた…。そんな俺にとって星羅の抱える『孤独』は他人事じゃなかったんだ。画面の向こうの彼女がまるで俺みたいだって、勝手に…」
「だから俺は彼女に救われてきたんだ。彼女の物語に、その生き様に、何度も何度も勇気をもらってきた。だから俺にとって彼女はただの絵じゃない。俺の…教科書で、憧れで、…唯一の女神なんだ」
だから君に初めて会った時、本当に夢かと思った。
でも——。
「今は違うんだ」
俺はもう一度月奈の瞳を見つめた。
「『近い』って言いながら、俺の腕をポンと叩いた時の、照れた顔」
「『残したら許さないんだから』なんて言って、自分の卵焼きを俺に食べさせてくれた、強引で、不器用な顔」
「『別に、深い意味はない』って言いながら、俺の手をぎゅっと握りしめてくれた、夕暮れの帰り道の、真っ赤な横顔」
「俺が見ていたのはもうゲームのCGじゃない。ちゃんとそこにいる、君だった」
「俺はもう君を星羅の代わりだなんて思ってない。俺が好きなのはクールで不器用で、本当はすごく優しい、『雪白月奈』っていうたった一人の女の子だ」
俺の魂からの告白。
もう何も隠すことはない。これが俺の全てだ。
月奈は黙って俺の話を聞いていた。その表情からはもう怒りも軽蔑も消え失せている。ただどこか遠くを見るような静かな瞳で俺を見つめている。
やがて彼女の唇がわずかに震えた。
「……私のこと、見てくれてたんだね」
その声はか細く、でも驚くほど澄んでいた。
「あなたが見ていたのは『外見』じゃなくて、その子の…私たちの『物語』だったのね」
月奈はそう言って静かに微笑んだ。
それはこれまで見てきたどんな笑顔とも違う。はにかみでも作り笑いでもない。
心の底から全ての呪いが解けたかのような、穏やかで優しくて、そしてどうしようもなく美しい笑顔だった。
彼女は俺の前にそっと一歩近づく。
花の蜜のような甘い香りが俺の心を優しく包み込む。
「…私ね、ずっと怖かったんだ。また昔みたいに見た目だけで色々言われるのが。だから本当の自分を隠して、誰も寄せ付けないように壁を作ってた」
「でもあなたは違った」
彼女の大きな瞳からぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「…ありがとう。私のこと、見つけてくれて」
その言葉に俺はもう何も言えなかった。
ただ彼女の涙があまりにも綺麗で。
彼女の笑顔があまりにも愛おしくて。
俺の胸は幸福感で張り裂けそうだった。
彼女は俺の前にそっと一歩近づく。
花の蜜のような甘い香りが俺の心を優しく包み込む。
そして月奈は背伸びをするようにほんの少しだけ体を持ち上げ、その顔をゆっくりと俺に近づけてきた。
長いまつ毛がゆっくりと伏せられていく。
俺の視界いっぱいに彼女の桜色に染まった唇が近づいてくる。
(嘘だろ…なんだこれ…? イベントか? 俺が何か正しい選択肢を選んだのか…?)
思考がショートする。脳が目の前の光景を理解することを拒絶している。
(でも綺麗だ…。吸い込まれそう…。やばい、どうする!? 正解の選択肢は!? …そうだ、セーブだ!この奇跡の瞬間をセーブしないと!)
俺はパニックの中で必死にスキルを発動させようと心の中で叫んだ。
「——【セーブ】!」
>エラー:セーブ禁止区間です
脳内に響いたのは無慈悲で冷たいエラーメッセージだった。
(セーブできない…!? なんだよそれ!じゃあこれは…ロードもできない一回きりの…本物の…!?)
もう何も考えられない。
俺は吸い寄せられるように固く目を閉じた。
あと数ミリ。
その永遠にも思える瞬間に全てが触れ合うはずだった。
——その時だった。
彼女のポケットの中でスマホがブブッ!ブブッ!と無粋な音を立てて激しく震えた。
「…っ!?」
魔法が解けた。
月奈ははっと我に返ると弾かれたように俺から飛びのき、顔を真っ赤にして俯く。
そして震える指で慌ててスマホを取り出した。
画面に表示されたのは「非通知設定」の文字。
その瞬間、月奈の顔からさっきまでの幸福な血の気がすっと引いていく。
彼女は青ざめた顔で慌てて着信を拒否し、スマホをショートパンツのポケットに押し込んだ。
「…ご、ごめん。もう帰るね」
「雪白さん…?」
俺が声をかけるが彼女は「また明日!」とだけ言い残し、逃げるように部屋を出て行ってしまった。
一人残された部屋。さっきまでの温かい空気はもうどこにもなかった。
(今のはなんだ…?)
彼女のあの怯えた瞳。
俺たちの物語に不穏なノイズが走り始めたのを、俺はまだ知らなかった。