ヒロインと女神の部屋
図書室に下校時刻を告げるチャイムが物悲しく響き渡る。
俺たちの奇跡のような瞬間は唐突に終わりを告げた。
「…そろそろ帰らないと」
俺が言うと月奈はこくりと頷く。だが彼女は自分の胸元がはだけていることに気づき、肩にかけられた俺のジャージをぎゅっと胸の前で握りしめた。その顔に再び羞恥の色が広がる。
「…このままじゃ帰れない…」
「うん…。だからそれ、着ていけば? そのまま」
俺は彼女の肩にかかったジャージを指さして言った。
「え、でも…」
「俺は平気だから。それに今の雪白さんにはそれが必要だろ?」
俺の言葉に月奈はしばらく黙って俯いていたが、やがて小さな声で「…ありがと」と呟くと、恥ずかしそうにそのジャージに袖を通した。
少し大きめのジャージに彼女の華奢な体がすっぽりと収まっている。その「彼ジャージ」状態に俺の心臓は警告音を鳴らしっぱなしだった。
夕暮れの廊下を二人並んで歩く。
俺は他の生徒から彼女が見えないよう、さりげなく彼女の隣を歩き壁になる。
校門を出て家路につく。その時だった。
俺の制服のブレザーの裾が、きゅっと小さな力で引かれた。
「え…?」
驚いて振り返ると月奈は顔を真っ赤にしてそっぽを向いている。その小さな手が俺のブレザーの裾を、迷子が母親の服を掴むように固く握りしめていた。
「…別に深い意味はないわよ」
彼女は地面を見つめたまま蚊の鳴くような声で言う。
「…ただその…ジャージ、借りてるし…。これくらいしないと不公平でしょ…?」
そのあまりにも可愛らしい言い訳と潤んだ上目遣い。
俺は彼女の意図を察し、その小さな手を自らの手でそっと包み込むように握った。
ピタッ。
彼女の手がビクリと大きく震える。
(うわ…)
手のひらに伝わる信じられないほどの温かみ。そして驚くほど滑らかな肌の感触。俺の手の中で彼女の指が緊張からかほんの少しだけ震えているのが分かった。
俺はその奇跡のような感触を逃さないよう、ただ優しくその手を握り返した。
手を繋いだまま二人は家路につく。
「…あのさ、時枝くん」
不意に月奈が小さな声で呟いた。
「あなたの数学の説明…そのRPGの例え、意外と分かりやすかった」
「え、そ、そうか? 雪白さんの古典こそすごかったけど…。まるで先生みたいで」
俺が素直な感想を言うと彼女は「フン…当然でしょ」と少しだけ得意げに鼻を鳴らした。そして続ける。
「…どうしてあんなに必死になってくれたの? 図書室で…私のために」
そのあまりに真っ直ぐな瞳に俺は心臓を撃ち抜かれる。
「え、いや、それは…!雪白さんを傷つけたくなかったから…。だから俺がなんとかしなきゃって…!」
しどろもどろな俺の答えに、月奈はふわりと花の咲くような笑顔を見せた。
「…そっか。…優しいのね、あなたって」
その言葉と笑顔の破壊力に俺の思考は完全に停止した。
やがて俺の家の前に着くと月奈は名残惜しそうに、しかしはっと我に返ったようにパッと手を離した。
「…じゃあまた明日。…あ、ジャージ、洗濯して明日返すから!」
そう言って彼女は自分の家の中へと駆け込んでいった。
俺は自室に戻りベッドに倒れ込む。まだ手のひらには彼女のぬくもりが残っているようだった。
(やばい、可愛すぎる…。これは、神ゲーだ…!)
俺は一人ベッドの上で今日の勝利の余韻に浸っていた。
その時だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴る。母親はまだ帰っていないはずだ。
俺が不思議に思いながら玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは——私服に着替えた、雪白月奈だった。
「え、ゆ、雪白さん!? どうして…ていうか、その服…」
俺は言葉を失う。
彼女は普段下ろしている長い髪を無造作なお団子ヘアにしていた。きっちりしていないせいで数本のくれ毛が、シャワー上がりなのかしっとりとした白いうなじに張り付いている。
そして服装。体のラインがはっきりと分かる少しタイトなサマーニット。それは彼女の豊満な胸の形を制服以上に雄弁に物語っていた。下はリラックスした雰囲気のショートパンツで、健康的な太ももが惜しげもなく晒されている。
さっきよりも強く香る花の蜜のような甘い匂いが俺の理性を奪っていく。
(セーブ? なんだっけ、それ。どうでもいい。今はただ、目の前の女神から一瞬たりとも目を離したくない)
月奈はそんな俺の葛藤も知らず、恥ずかしそうに数学の参考書を抱きしめる。
「さっきの続き。まだ分からないところあるから…」
彼女は勉強を口実にする。そして自分の気持ちに気づかないまま、心の声がそのまま口から漏れ出てしまった。
「…それに、もう少しあなたと一緒にいたいから…」
「え? 今何か言った?」
俺が聞き返した瞬間、月奈ははっと我に返る。
「なっ!? 何も言ってない! 空耳よ、空耳!」
顔を真っ赤にしてパニックになる彼女の姿が可愛くて、俺は「ど、どうぞ!入って!部屋で教えるよ!」と彼女を自室に招き入れてしまった。
そして、月奈は、見た。
俺の部屋の、その全てを。
(やばい、やばい、やばい! 彼女が見ているのは、俺が愛してやまないギャルゲー『となりのエンゼル☆吐息3』のメインヒロイン、雪城星羅の限定版タペストリーだ。クールで、ミステリアスで、でも、心を許した相手にだけ、儚い笑顔を見せてくれる、俺にとっての唯一の女神…。しかし、今の月奈の目には、それは、自分と瓜二つの少女のグッズで埋め尽くされた、異常者の部屋にしか見えないだろう…!)
ガラスケースの中で微笑む、星羅のフィギュア。
山と積まれた、星羅の設定資料集。
部屋の真ん中で月奈はぴたりと動きを止める。
さっきまで赤く染まっていた頬からすっと血の気が引いていく。俺と繋がっていた温かい雰囲気がガラスのように砕け散る音がした。
その瞬間、俺の脳内に、無機質なシステムメッセージが、冷たく響き渡った。
>【警告】対象:雪白月奈の【ときめき度】MAX状態が終了しました。
俺は自分の犯した取り返しのつかないミスに気づく。セーブを忘れていた。
(終わった…。俺の人生、ここで詰んだ…)
俺が絶望で固まっていると月奈はゆっくりと俺の方を振り返った。
その表情は怒りでも軽蔑でもない。ただ何もかもを理解したような静かで、そしてどこか悲しい目をしていた。
彼女は部屋で最も大きな微笑む星羅のポスターを静かに指さす。
そして静かに、しかしはっきりと俺に問いかけた。
「…時枝くん。あなたが見ていたのは、ずっと、『私』だったの? それとも——この子だったの?」