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答えは問題文の中に

放課後。俺は月奈に引っ張られながら図書室の自習スペースに向かった。

夕日が差し込む窓際の二人用の長机。隣に座るだけで心臓がうるさい。古紙とインクの匂いが混じるしんと静まり返った空間に、お互いの息遣いだけが聞こえてくるようで、俺は緊張で死にそうだった。

他の生徒たちのひそひそと交わされる会話やページをめくる音さえも、今の俺には遠い世界の出来事のようだ。


まずは俺が月奈に数学を教える。

「えっと、二次関数の最大最小はまず平方完成をしてだな…」

「待って」

俺の説明を月奈が静かに遮った。

「その『平方完成』の理屈が分からないから困ってるんだけど」

「え、あ、そっか。ごめん」

(やばい、いきなり核心から話しすぎた!)

俺は自分の話下手ぶりに絶望しながら、ギャルゲーで培った分析力(?)を必死で働かせる。そうだ、彼女に分かるように例えるんだ。

「いいか雪白さん。二次関数ってのはいわばRPGのボスキャラなんだ。一見どこから攻撃していいか分からないだろ?」

「…はぁ?」

月奈が心底意味が分からないという顔でこちらを見る。だが俺は構わず続けた。

「でもどんなボスにも必ず『弱点』がある。二次関数における弱点、それが『頂点』だ。この頂点さえ押さえればあとはどんな攻撃(xへの代入)をしても楽勝になる。だからまずは武器(平方完成)を手にボスの弱点(頂点)を探すんだ。…どうだ、少しは分かったか?」

俺の情熱的な解説に月奈はしばらく呆気に取られていたが、やがてその口元にふっと小さな笑みが浮かんだ。

「……あなたの説明、時々よく分からないけど面白いわね。…まあ言いたいことは分かったわ。続けて」

そのほんの少しの肯定。それだけで俺の心は舞い上がった。


次に月奈が俺に古典を教える番。

彼女の教え方はまるでプロの家庭教師のように的確で無駄がなかった。

「時枝くん。あなたは『作者の気持ち』ばかり考えすぎなのよ」

「え、でもそれが問題に…」

「違うわ。古典で問われるのは作者の気持ちじゃない。その言葉が使われた時代の『ルール』よ。この『をかし』がなぜここでは『趣がある』という意味になるのか。それはこの前後の文脈と、この作品が書かれた平安時代の貴族の価値観を理解すれば、論理的に導き出せる答えでしょう?」

彼女は参考書の該当箇所を白くて細い指でとん、と指し示す。

「答えはいつだって問題文の中にしかないんだから」

そのあまりにクールで知的な横顔に俺はただ息をのむ。

すごいな、雪白さんは…。

俺は彼女に対して初めて「可愛い」とか「エロい」とか、そういう次元ではない純粋な尊敬の念を抱いていた。

この穏やかな時間がずっと続けばいいのに。

俺がそんなことを考えながら古典の問題集に向き直った、その時だった。


カチ、カチ、カチ。

シャーペンの芯を出そうとノックするがうんともすんとも言わない。中で芯が詰まってしまったらしい。

「あ、悪い、ちょっと待ってて」

俺は月奈に断りを入れシャーペンを分解して詰まった芯を取り出そうと、先端の部品をねじって外した、その瞬間だった。


ピョーン!


中から圧縮されていた小さなバネがありえないほどの勢いで飛び出した。

「あっ!」

バネは物理法則を無視した完璧な軌道を描き、俺と月奈の間の空間を横切ると、まるで狙いすましたかのように月奈のブラウスの胸元の一番上のボタンに、カチン!とありえない精度で直撃した。


>不運バッドイベントを検知。スキル【フラグ上書き】を発動します。


(嘘だろ!? なんでだよ! ただのバネだぞ!? これが不運判定とか、どんなクソゲーだ! やめろ! 発動するな! 俺はまだ、何も間違えてないはずだ!)

俺の心の叫びも虚しく、無慈悲なシステムは作動する。


プチッ!


俺の淡い期待を裏切りまず一番上のボタンが小さなバネの直撃によって糸が切れて弾け飛ぶ。

しかし悲劇はそこで終わらなかった。

(止まれ! 頼むから、そこで止まってくれ…!)

布地のテンションが崩れたことで、すぐ下の二番目のボタンにも過剰な負荷がかかり、プチッ!と連鎖するように弾け飛んでしまう。


時が止まったように感じた。

開かれたブラウスの隙間から彼女の秘密が白く柔らかく顔を覗かせている。

そこにあったのは彼女の清楚なイメージを裏切る少しだけ大胆なデザイン。純白のコットン生地の縁を繊細な黒のレースが彩っていた。そのコントラストが俺の脳を焼き切るには十分すぎた。

白い肌の上に黒いレースの影が落ちる。その下にある柔らかな膨らみの輪郭。

花の蜜のような甘い香りが俺の思考を麻痺させる。


月奈は何が起きたか分からず、きょとんとした顔でこちらを見ている。「え…?」

(見てはいけない、見てはいけない、見てはいけない…!)

心臓が警告音のように鳴り響く。ここで見惚れてしまえば俺は今までの全ての努力を失うただの変態だ。

彼女が自分の状況を完全に理解するよりも速く。

俺の体が動いた。


俺は一瞬の迷いもなく自分の視線を固く床に向けたまま椅子から立ち上がる。そして自分の体で彼女の姿を図書室の他の生徒たちの視線から隠すように壁になった。

ガサゴソと自分のスクールバッグを開け、中から、持ってきたけど今日は使わなかった体育のジャージを取り出す。

そしてそれを彼女の肩にふわりとかけた。彼女の体を完全に隠すように。


「雪白さん、これ…。使って」

俺の声は震えていたが断固としていた。視線は決して彼女の胸元には向けない。


月奈は肩にかけられたジャージと、床を見つめたまま顔を上げない俺の姿に呆然とする。そして自分の胸元がはだけていることに気づき顔を真っ赤にさせた。

彼女は俺が「見ない」という選択をしてくれたことの意味を痛いほど理解していた。

震える手で俺のジャージをぎゅっと握りしめる。


「……なんで、見なかったの…?」

震える声で彼女が問う。

「…見るわけないだろ。雪白さんが嫌な顔するって分かってるから」

顔を上げないまま俺は答える。

その言葉に月奈の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみや絶望の涙ではなかった。


彼女は優のジャージをぎゅっと握りしめると、これまでにないほど優しくそして穏やかな声で言った。

「…ありがとう、時枝くん」

俺がその声に驚いて顔を上げると、目の前には彼女の心の底からの「本当の笑顔」があった。

それはこれまで見てきたどんなCGよりもどんなイラストよりも、完璧で優しくて、そしてどうしようもなく愛おしい奇跡のような光景だった。


>重要イベントフラグを達成しました。

>対象:雪白月奈の【好感度】が、Lv2からLv3に上昇しました。

>対象:雪白月奈の【ときめき度】が、一定時間MAXになります。


脳内に響く祝福のメッセージ。俺の心臓は、まるで初めてレアアイテムをドロップした時のような、純粋な歓喜で満たされていた。

やった。俺は、勝ったんだ。

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