リアルなんてクソゲーだ
じっとりとした熱気が肌にまとわりつく。
六月十六日、火曜日。梅雨明けを宣言したばかりの空は夕暮れ時だというのに、未だにその熱量を手放そうとしない。終業のチャイムが鳴り響いてもなお、俺たちの教室は昨夜最終回を迎えた恋愛リアリティーショーの話題で沸騰していた。
「この後ウチで昨日の告白シーンを見直さね?」「なぁ昨日の最終回、納得いったか? 俺はあの終わり方ねーわー」
楽しげな声や椅子を引く音、誰かの甘い香水の匂い。その全てが俺、時枝優の周りだけを避けていくようだった。まるで俺の周囲だけが音のしない真空地帯みたいに。
俺は誰にも話しかけられず、カバンに教科書を詰め込みながら今日の聖戦のことだけを考えていた。
「時枝、お前まさか…」
その時、クラスで唯一俺の趣味を理解している友人、鈴木が声をかけてきた。
「『となエン3』か?」
「当たり前だろ!」
鈴木相手にだけ俺の口は饒舌になる。
「いいか鈴木。『となりのエンゼル☆吐息3』のメインヒロイン雪城星羅はただのクールキャラじゃない。公式サイトの隠しパラメータによれば彼女は『孤独』という属性を抱えている。だからこそ俺たちプレイヤーの『共感』が好感度上昇の鍵になるんだ。つまりだな…」
「はいはい分かった分かった。お前のその情熱を少しは現実の女子に向けりゃいいのにな」
「現実の女子なんてバグだらけの未完成品だろ。俺は完璧に調整された星羅がいればいいんだ」
そう言い捨て俺は鈴木に背を向けた。「じゃあな!」という彼の呆れたような声を背に教室を飛び出す。聖地への出撃だ。
校門を抜けた瞬間、俺は全ての鬱屈を振り払うかのように全力疾走を開始した。
そうだ、俺の世界はあの六畳間の自室で完結している。壁一面のタペストリーに棚に並べたフィギュアたち。その全てが俺の女神「雪城星羅」だ。
『現実なんて、クソゲーだ』
パラメータは上がらないし好感度も可視化されない。選択肢を間違えればロードもできない。
でもゲームの中なら俺は誰だって救えるし、誰とだって心を通わせられるヒーローになれるんだ。
商店街を駆け抜ける。クレープを分け合うカップルや談笑する同級生のグループが目に入る。彼らと自分を比べほんの少しだけ胸が痛むが、すぐに首を振って雑念を振り払う。
みんなは現実の恋愛に夢中らしいが、俺は違う。俺には、もっと大切なヒロインが待っているんだ。
店の外壁には巨大な雪城星羅の看板が掲げられており、描かれた彼女は微笑みながらこちらを見つめている。
「待ってろよ、俺の星羅…。今、迎えに行くからな…!」
俺は決意を新たに店へと続く最後の曲がり角へ勢いよく駆け込んだ。
見通しの悪い何の変哲もない交差点。その角からイヤホンをした黒髪の少女がふわりと姿を現した。
——時間が、止まった。
風になびく黒曜石のような長い髪は、まるで意思があるかのように彼女の動きに合わせて揺らめく。
陽の光を吸い込むように白い肌は微かに透明感を帯び、その下を繊細な血管が淡く透けて見えるようだ。
そして何よりも俺の目を奪ったのはその瞳だった。
深く澄んだ紫水晶の色をしたその瞳は、吸い込まれそうな輝きでこちらを見つめ返す。それは俺の魂の奥底まで見透かすような強い引力を放っていた。
彫刻のように端正なその造形。スッと通った鼻筋からわずかに開かれた桜色の唇へ、そして滑らかな首筋へと視線が吸い寄せられる。
今朝公式サイトで穴が開くほど見た愛してやまない「雪城星羅」そのものだった。まるで合わせ鏡のように寸分違わぬ少女が、現実に目の前にいる。
(嘘だろ……)
視線が吸い寄せられるように下がる。
夏用の真っ白なブラウスが悲鳴を上げていた。物理演算を無視したかのような二つの膨らみが薄い布地を極限まで押し上げ、豊満な曲線を主張する。その下には信じられないほど引き締まったくびれがあり、完璧な砂時計のシルエットを形作っていた。
スカートから伸びるすらりとした脚のラインは、もはやCGでしかありえないとさえ思っていた理想の比率だ。
微かに花の蜜のような甘く優しい香りが鼻腔をくすぐる。どこか儚げで、それでいて人を惹きつける奥深い香りだった。
(見てはいけない、見てはいけない、見てはいけない…!)
頭の中で必死に警鐘を鳴らすのに、俺の目は現実に現れた「完璧なデータ」から一瞬たりとも離せない。
「CGが…現実にレンダリングされたのか? 俺の網膜がバグった?」
心臓が体の外に飛び出しそうなくらい激しく鼓動し、混乱で思考回路がショートしそうになったまさにその瞬間。
キキィィィィッ!
けたたましいクラクションと轟音が俺たちの鼓膜を突き破った。
ハッと顔を上げると巨大なトラックが俺たち二人めがけて突っ込んできていた。
世界がスローモーションになる。
少女の透き通った瞳が驚きと恐怖に見開かれる。その美しい瞳に絶望的なまでに巨大なトラックのフロントグリルがはっきりと映り込んでいた。
脳内にギャルゲーの選択肢が明滅した。
A:大声で警告する(——間に合わない!)
B:自分が盾になる(——一緒に死ぬだけだ!)
C:彼女を突き飛ばす(——これしかない!)
理由なんてどうでもいい。本物か偽物かなんて関係ない。
俺の“推し”が俺の“女神”が目の前で死ぬ。
それを見過ごすなんて選択肢は俺のどのルート分岐にも存在しない!
「危ない!」
俺は彼のゲーマー人生の全てを懸けた自己犠牲の覚悟を決めた。少女の華奢な肩を力強く突き飛ばす。
「えっ…?」
少女が驚きの声を上げ歩道に尻餅をつく。その光景を横目に俺の体は宙を舞った。
鉄が軋む音。ガラスが砕ける音。人々の悲鳴。
身体を襲う想像を絶する衝撃と熱。骨が砕ける感覚と鉄の匂い。
薄れていく意識の中、俺が最後に見たのは助けた少女の顔ではなかった。
なぜか脳裏に鮮明に浮かんだのは愛してやまない理想のヒロイン「雪城星羅」の困ったような、そしてどこか誇らしげな笑顔だった。
(あぁ…星羅…限定版、買えなかったな……)
(でも、まあ…最後の選択肢は、間違ってなかったよな…?)
視界が真っ白な光に塗りつぶされていく。
そして俺の意識は完全に途切れた。




