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第9章 火星軌道上でのランデブー・移送(ERO)


火星の夜空は、深淵なる宇宙の闇を広げていた。その漆黒のキャンバスには、無数の星々が宝石のように瞬き、遠くには火星の赤い球体が、いまだその姿を誇示していた。その孤独な宇宙空間を、人類の希望を乗せた火星上昇機(MAV)「アセンダント」から打ち上げられたサンプルコンテナが、静かに漂っていた。それは、直径わずか数十センチメートルの、銀色の卵型カプセル。内部には、何十億年も火星の地中に眠っていた「パン」が、完璧に密閉された状態で収められている。その小さな存在こそが、人類の宇宙における未来を、根本から問い直す可能性を秘めていた。

JPL管制室から約9,000キロメートル離れたドイツ、ダルムシュタットにある欧州宇宙運用センター(ESOC)の管制室もまた、深い緊張感に包まれていた。壁一面に広がるメインスクリーンには、火星軌道上のシミュレーション図と、その中で互いに接近しつつある二つの光点が表示されている。一つは、火星を周回する地球帰還オービター(ERO)「ホープ」。もう一つは、MAVから射出されたばかりの、サンプルコンテナだ。ホープは、ESA(欧州宇宙機関)が開発した、まさに「希望」の名を冠する宇宙船。その流線型のボディは、長大な宇宙の旅に最適化され、先端にはサンプルコンテナを捕獲するための、複雑な機構が搭載されていた。

ESOCの管制主任、エルザ・シュミット博士は、冷静沈着な表情で、コンソールに表示される数値を睨んでいた。彼女の隣では、若き軌道計算担当のピエール・デュポンが、食い入るようにモニターを見つめている。火星軌道上でのランデブーは、宇宙空間の絶対的な真空と、わずかな誤差が致命的となる精密さが要求される、至難の業だった。地球と火星間の通信遅延は依然として数分あり、リアルタイムでの直接操作は不可能に近い。


「MAVからのサンプルコンテナ、識別信号、良好。相対速度、収束中」

ピエールの声が、乾いた空気に響く。

「ホープ、最終アプローチコース、確認。スラスター噴射開始」

エルザの指示は、わずかに震えていたが、その声には揺るぎない覚悟が宿っていた。ホープの姿勢制御スラスターが、微かに燃料を噴射し、その位置をミリメートル単位で調整していく。

火星軌道上では、ホープがその巨大なアームをゆっくりと伸ばしていた。そのアームの先端には、複雑なキャプチャーメカニズム、まるで獲物を捕らえるための多関節ロボットアームが備わっている。MAVから射出されたサンプルコンテナは、その中心へと、まるで磁石に引き寄せられるかのように、ゆっくりと近づいていく。

「相対距離、50メートル……30メートル……」

ESOCの管制室では、ピエールが距離の数値を読み上げていく。彼の額には、すでに汗がにじんでいた。

JPL管制室でも、アリアナ・カーター博士とケンジ・タナカが、ESOCからのリアルタイムデータと映像を共有し、固唾をのんで見守っていた。国際協力の象徴とも言えるこのミッションは、NASAとESAの緊密な連携なしには成し得ないものだった。ケンジは、火星軌道の複雑な重力場と、そこを漂うサンプルコンテナの微細な揺れを計算し、ホープの軌道修正に役立つ情報を提供し続けた。

「コンテナの姿勢、安定。ホープ、キャプチャーアーム、展開完了」

エルザの声が、管制室に響く。

ホープのキャプチャーアームは、完全に開かれ、サンプルコンテナを待ち構えていた。アームの内部には、コンテナを確実に固定するための複数のロック機構と、わずかな衝撃も吸収する精密なダンパーが組み込まれている。

サンプルコンテナは、まるで宇宙空間を舞う小さな蝶のように、フワリとアームの中心へと吸い込まれていく。

「相対距離、10メートル……5メートル……」

管制室の空気は、張り詰めた糸のように張りつめていた。誰もが、息をすることを忘れ、ただメインスクリーンの映像に集中していた。

そして、その瞬間は訪れた。

カチャッ……。

乾いた、しかし確かな音が、宇宙空間の静寂を破り、ESOCの管制室に響き渡った。

「キャプチャー! サンプルコンテナ、捕獲完了!」

ピエールの叫び声に、管制室は歓喜の嵐に包まれた。オペレーターたちは立ち上がり、互いに抱き合い、拍手と指笛が鳴り響く。エルザは、固く閉じていた目をゆっくりと開け、その瞳には安堵と達成感が満ちていた。彼女の顔には、この歴史的瞬間を成し遂げたことへの、静かな誇りが浮かんでいた。

JPL管制室でも、アリアナは深く息を吐き、ケンジと目を合わせて頷いた。デヴィッド・リー博士は、その光景を見つめながら、目元を拭っていた。長年の夢が、また一歩、現実へと近づいたのだ。

サンプルコンテナは、ホープのキャプチャーメカニズムにしっかりと固定された。アームはゆっくりと、コンテナをホープの船体内部にある安全な格納庫へと引き込んでいく。格納庫のハッチが開き、コンテナは完全に外部から遮断された空間へと収められた。そこは、真空に保たれ、温度と湿度が厳密に管理された、まさに「パン」のための聖域だ。

「サンプルコンテナ、格納完了。ハッチ、閉鎖」

ESOCからの報告が、JPL管制室へと送られてくる。

火星軌道上を漂うホープは、その内部に、人類が火星から初めて持ち帰る貴重なサンプルを抱え、静かに次のステップへと備えていた。ランデブー・移送の成功は、火星サンプルリターンミッションにおける最大の難関の一つをクリアしたことを意味する。それは、国際協力の勝利であり、人類の技術力の極致を示すものだった。

しかし、これはまだ終わりではない。

ホープはこれから、火星周回軌道を離脱し、地球へと向かう長い旅に出る。その旅の先には、地球への再突入、そしてサンプルを収めたカプセルの回収という、さらなる挑戦が待ち受けているのだ。

宇宙の闇の中で、ホープは、その内部に火星の「パン」を抱え、静かに、しかし確かなる意志を持って、故郷への帰還の時を待っていた。遠くに見える地球の青い輝きが、その進むべき道を示しているかのようだった。


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