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第7章:パンの再会と発射台


MAVの到着と設置

火星のジェゼロ・クレーターでは、SRR「フロンティア」がデポされたサンプルチューブの回収を順調に進めていた。その間にも、地球から新たな使者が赤い大地へと降り立った。それが、火星からサンプルを打ち上げるためだけに設計された、火星上昇機(MAV)「アセンダント」だ。MAVは、着陸時の最終減速に逆噴射エンジンと着陸脚を使い、フロンティアが回収作業を行う「スリー・フォークス」から約500メートル離れた、より平坦で強固な地盤に降り立った。

JPL管制室では、MAVの着陸シーケンスが成功したことに、再び安堵の声が上がっていた。メインスクリーンには、MAVの巨大な機体が、火星の荒涼とした風景の中にそびえ立つ映像が映し出されている。高さ約3メートル、まるで未来の神殿かのような、滑らかで流線型の白いボディ。その内部には、火星の地表から宇宙空間へサンプルを打ち上げるための、二段式のロケットエンジンと、回収されたサンプルチューブを格納する精密なコンテナが搭載されている。

「MAV、設置完了。姿勢制御、良好。各部展開シーケンス開始」

ケンジ・タナカの声に、微かな興奮が宿る。MAVの着陸後、機体は自動的に支持脚を展開し、打ち上げに最適な姿勢へと調整を始めた。彼のモニターには、MAVの燃料タンクの圧力、エンジンの準備状況、そしてサンプルコンテナのハッチの状態を示すデータが、リアルタイムで流れてくる。

アリアナ・カーター博士は、その映像を食い入るように見つめていた。地球以外の惑星表面からロケットを打ち上げる。それは人類史上初の試みであり、途方もない技術的ハードルが立ちはだかっている。MAVの設計には、火星の薄い大気、極度の温度変化、そして砂塵という、あらゆる過酷な環境への対策が盛り込まれていた。わずかな設計ミスや不測の事態が、ミッション全体の失敗に直結する。


SRRとMAVの連携:パンの移送

デポされた全てのサンプルチューブの回収を終えたフロンティアは、その小さな車体をMAVへと向けた。フロンティアの内部格納庫には、パーサビアンスがデポした10本の「パン」が収められている。それらは、何十億年も火星の地中に眠っていた、まさに火星の記憶そのものだ。

MAVの側面に開いたハッチから、ロボットアームが静かに伸びてきた。そのアームの先端には、SRRの格納庫と結合するための特殊なインターフェースが備わっている。

「フロンティア、MAVとのドッキングシーケンス開始」

アリアナの指示が飛ぶ。

フロンティアは、MAVのロボットアームが提示する結合インターフェースへと、数ミリ単位の精度で接近していく。カチッという乾いた音と共に、フロンティアの格納庫とMAVのアームが完璧に結合した。

その後、フロンティアの内部から、**回収されたサンプルチューブが一本ずつ、MAVのロボットアームへと自動的に移送され始めた。**それは、リレーのように、過去の探査機が託した成果を、未来へと繋ぐ象徴的な瞬間だった。チューブは、精密なセンサーによって位置と向きが確認され、MAV内部のサンプルコンテナへと慎重に格納されていく。

「Jezero-001、格納完了。Jezero-002、移送中……」

ケンジの声が、管制室にそのプロセスを実況する。彼のモニターには、チューブの移送状況を示す内部カメラの映像が映し出されている。微細なホコリ一つ許されない、超精密な作業だ。チューブがコンテナに収まるたびに、カチリと固定される音が、地球の科学者たちの鼓動とシンクロするようだった。この「パン」を傷つけることなく、完璧な状態で地球へと届けるため、あらゆる細心の注意が払われている。


パーサビアンスの「再会」:知のバトン

SRRによるデポサンプルの回収が完了した頃、遠方から一つの影がMAVに近づいてくるのが、MAVの外部カメラのレンズに捉えられた。それは、数年前に火星に着陸し、自ら「パン」を採取し、そして一部をデポしてきた、パーサビアンスだ。長年の探査活動で、その車体には火星の砂塵が積もり、風化の跡が刻まれていたが、それでもその存在感は、まさに「先駆者」と呼ぶにふさわしかった。

パーサビアンスは、MAVの安全な距離に停止した。そして、そのロボットアームをゆっくりと伸ばし、自身が内部に抱える残りのサンプルチューブを、MAVのもう一本のロボットアームへと差し出した。これは、パーサビアンスが自身で持ち続けるサンプルであり、デポされなかった「パン」たちだ。

それは、まるで親が子に、あるいは師が弟子に、長年の努力で得た知のバトンを渡すかのような、感動的なシーンだった。パーサビアンスとSRR、そしてMAV。異なる役割を持つ三つの機械が、火星の赤い大地で連携し、人類の壮大な夢を繋いでいく。

MAVのロボットアームが、パーサビアンスから受け取ったサンプルチューブを、SRRからのサンプルチューブと共に、内部のコンテナへと収めていく。全ての「パン」がMAVに集められた瞬間、JPL管制室に、小さな、しかし深い感動の波が広がった。

「全サンプル、MAVに格納完了」

ケンジの声に、アリアナは静かに目を閉じた。デヴィッド・リーは、その光景を食い入るように見つめ、目頭を抑えていた。彼の人生を賭けた夢が、まさに現実のものとなろうとしていた。


打ち上げ準備の最終段階

全てのサンプルがMAVに格納されると、打ち上げに向けた最終チェックが始まった。MAVのシステムは、自動で最終診断を実行していく。姿勢制御スラスターのテスト、推進剤タンクの圧力確認、ナビゲーションシステムの最終キャリブレーション。

JPL管制室では、ケンジがMAVのあらゆるバイタルサインを綿密にモニタリングしていた。彼のモニターには、燃料タンクの残量、各エンジンの温度、そしてペイロード(サンプルコンテナ)の状態を示す無数の数値が並ぶ。わずかな異常も許されない。

「博士、液体水素・液体酸素推進剤の充填、最終段階に入ります」

ケンジが報告した。MAVは、火星の希薄な大気中で効率的な推進力を得るため、極低温の液体燃料を使用する。火星での燃料充填は極めて困難な作業であり、その一つ一つが技術的な挑戦の塊だった。

アリアナは、冷静な声で最終確認の指示を出す。「各セクション、最終点検報告を。発射台周辺クリアランス、再確認。打ち上げウィンドウの最終気象予報を提示せよ」

火星の夜明けが近づいていた。打ち上げは、火星の自転と地球との位置関係を考慮し、最も効率的な軌道に乗るための厳密なウィンドウが設定されている。その時間帯の火星の気象条件(風速、気圧など)も、打ち上げの成否を左右する重要な要素だ。管制室の誰もが、息をのんでその時を待っていた。


倫理と挑戦の狭間

MAVの打ち上げ準備が進む中、デヴィッド・リー博士は、アリアナに問いかけた。

「アリアナ、この打ち上げが成功したとして、私たちは一体何を持ち帰るのだろう?」

彼の問いは、単なる技術的な成果への期待に留まらない、より深遠な意味を帯びていた。

アリアナは、リー博士の視線の先に、メインスクリーンに映し出されたMAVの姿を見つめた。

「火星の岩石と土、そしてそこに秘められた過去の記憶です。そして、もし可能であれば……生命の痕跡を」

リー博士は静かに頷いた。

「私たちは、地球外の物質を、地球という閉鎖的な生態系に持ち帰る。そこには、潜在的なリスクも存在する。未知の微生物の存在、あるいは、その化学組成が地球環境に与える影響。その倫理的な問いに、私たちはどう向き合うべきだろうか?」

アリアナは、この問いが持つ重みを理解していた。彼女自身、このミッションの初期段階から、サンプルリターンの倫理的側面について深く議論を重ねてきた。厳重な封じ込めシステム、地球帰還時の滅菌プロトコルなど、万全の対策が取られているとはいえ、宇宙の未知に対する完全な保証はない。

「リスクは承知しています、博士。しかし、人類がこれほどまで火星に惹きつけられ、生命を探し続けるのは、根源的な好奇心によるものです。私たちは、宇宙における私たちの位置づけ、生命の普遍性という問いに、答えを見出したい。そのために、このリスクを乗り越える必要がある。これは、単なる科学的探求を超えた、人類の『知』そのものの挑戦だと信じています」

アリアナの声には、科学者としての揺るぎない信念と、未来への強い責任感が込められていた。デヴィッド・リーは、その言葉に深く頷いた。彼の目には、長年の夢が現実となることへの期待と、その先に広がる新たな知への探求心、そして未だ見ぬ真実への静かな問いが宿っていた。

火星の赤い大地にそびえ立つMAVは、夜明けの光を浴びて輝き始めていた。それは、人類が宇宙へと放つ、希望と挑戦の光だ。


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