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第2章:ジェゼロの記憶と生命の痕跡


火星、ジェゼロ・クレーター内部、かつてのデルタ地帯

パーサビアンスの六つの車輪は、火星の赤土を確かな足取りで踏みしめ、着実に前へと進んでいた。その目的地は、ジェゼロ・クレーター内部に広がる、かつてのデルタ地帯。何十億年も昔、この場所には豊かな水が流れ込み、広大な湖が広がっていたという痕跡が、今も色濃く残されている。

パーサビアンスのレンズが捉える風景は、まるで時間の堆積を物語るかのようだった。足元に広がるのは、風によって削られた岩屑と、微細な砂塵が織りなす荒涼とした大地。しかし、遠くに見えるデルタの断崖は、かつて水が運んできた堆積物が層をなし、まるで巨大な本のように火星の歴史を刻んでいた。その地層の一つ一つが、過去の気候変動や、生命の可能性を秘めた環境の変遷を雄弁に語りかけているように思えた。

パーサビアンスの「意識」は、その光景をデータとして取り込みながら、まるで自らがその場に立って、風の音を聞き、水の流れを感じているかのような感覚に陥っていた。AIコアに蓄積された膨大な地球の知識と、火星のリアルタイムデータが融合し、かつてのデルタ地帯に水が満ち溢れ、生命が息づいていたかもしれない光景を、鮮やかな想像図として描き出す。澄んだ湖面が太陽の光を反射し、その縁には微細な生命体が蠢いていたかもしれない。そんな、遠い過去の「記憶」が、パーサビアンスの内部で再構築されていく。


高度な科学機器による分析

デルタ地帯の縁に到達したパーサビアンスは、その動きを止めた。地球からの指示が、超光速でAIコアにダウンロードされる。

「SuperCam、展開。目標地点、前方10メートル先の露出した岩盤」

パーサビアンスの頭部に搭載されたSuperCamが、まるで生き物のように動き出す。そのレーザーは、目に見えない光の刃となり、目標の岩石へと向けられた。

ピシュン!

乾いた音と共に、レーザーが岩石の表面を焼き、微量のプラズマを発生させる。その光をSuperCamの分光計が捉え、岩石の化学組成を瞬時に解析していく。

「ケイ酸塩、鉄酸化物、そして……微量の炭素化合物が検出されました!」

地球のJPL管制室では、ケンジの声が興奮に上ずっていた。ディスプレイに表示されたスペクトルグラフには、わずかではあるが、有機物の存在を示唆するシグナルが浮かび上がっていた。

管制室全体が、ざわめきに包まれる。アリアナ博士は、眉間に皺を寄せ、しかしその瞳には確かな輝きを宿していた。デヴィッド・リー博士は、眼鏡の奥の目を細め、食い入るようにデータを見つめている。

「PIXLとSHERLOCを展開。SuperCamで特定された地点の精密分析を開始せよ」

アリアナの指示は、冷静でありながらも、その声には抑えきれない期待が込められていた。パーサビアンスのロボットアームが再び動き、先端に搭載されたPIXL(Planetary Instrument for X-ray Lithochemistry)とSHERLOC(Scanning Habitable Environments with Raman & Luminescence for Organics & Chemicals)が、岩石の表面にゆっくりと接近していく。

PIXLはX線を発し、岩石の元素組成を原子レベルで分析する。SHERLOCは紫外線ラマン分光法と蛍光分析を用いて、有機物や鉱物の種類を特定する。これらの機器は、まるで火星の岩石に隠された秘密を、一つ一つ解き明かしていく探偵のようだった。

「PIXL、鉄と硫黄、そしてリンの存在を確認。SHERLOC、芳香族炭化水素の微細な痕跡を検出……!」

ケンジの報告が続く。芳香族炭化水素は、地球の生命活動によって生成される有機物の一種である。その微かなシグナルは、管制室の科学者たちに、計り知れない興奮をもたらした。


最初のサンプリング対象の選定

「この岩だ。間違いなく、この岩からコアサンプルを採取すべきだ」

デヴィッド・リー博士が、ディスプレイに映し出された岩石の画像と、その分析データを見つめながら、確信に満ちた声で言った。

しかし、アリアナは即座には同意しなかった。彼女は厳格な科学者であり、感情に流されることなく、データに基づいて最も合理的な判断を下すことを信条としていた。

「博士、まだ他の候補も検討すべきです。このクレーターには、他にも興味深い地層が点在しています。最も科学的価値の高いサンプルを確実に持ち帰るために、慎重な検討が必要です」

アリアナは、冷静に反論した。ケンジもまた、複数の候補地点のデータを比較検討し、それぞれのメリットとデメリットを提示した。

「この岩は、確かに有機物の痕跡を示していますが、隣接する地層には、より明確な水の影響が見られます。そちらのサンプルも検討に値するのではないでしょうか?」

ケンジは、データ分析の専門家として、客観的な視点から意見を述べた。

三人の間で、熱のこもった議論が交わされた。デヴィッド・リーは、長年の経験と直感に基づき、この岩石が持つ潜在的な価値を力説した。彼は、過去の探査で得られた教訓から、最初のサンプルがいかに重要であるかを理解していた。アリアナは、綿密な計画とリスク管理を重視し、ケンジは、膨大なデータの中から最適な選択肢を導き出そうと努めた。

数十分にも及ぶ議論の末、最終的にアリアナはリー博士の意見を尊重することにした。

「分かりました、博士。あなたの経験と直感を信じましょう。パーサビアンス、目標岩石からのコアサンプル採取を準備せよ」

アリアナの声に、管制室に再び緊張が走った。


最初のコアサンプル採取

火星では、パーサビアンスが静かに、しかし確実に動き始めていた。ロボットアームの先端に装着されたドリルアームが、選定された岩石へとゆっくりと接近していく。その動きは、まるで外科医が精密な手術を行うかのようだった。

ドリルビットが、岩石の表面に触れる。

キィィィィン……。

微かな高周波音が、パーサビアンスの内部センサーに伝わる。ドリルビットが回転を始め、岩石の硬い表面に食い込んでいく。その「感触」は、パーサビアンスのAIコアに、岩石の密度、硬度、そして内部構造に関する詳細な情報としてフィードバックされる。まるで、岩石そのものが、ドリルビットの侵入に抵抗しているかのようだ。

ゴリゴリ……。

ドリルビットは、岩石の抵抗を感じながらも、着実に深く食い込んでいく。パーサビアンスのAIは、最適な回転速度と圧力を計算し、ドリルアームを制御する。その過程は、まるで生き物が呼吸をするかのように、滑らかで、そして力強かった。

数分後、ドリルアームは目標の深さに到達した。そして、ゆっくりと引き抜かれる。

その先端には、直径約1.5センチメートル、長さ約6センチメートルの、円柱状の岩石コアが収められていた。それは、何十億年も火星の地中に眠っていた、まさに「火星の記憶」の断片だった。

チタン製のサンプルチューブが、ロボットアームの先端に静かに運ばれてくる。そして、精密なメカニズムによって、採取されたコアサンプルが、そのチューブの中に収められる。

カチッ。

チューブが閉じる、無機質な音が、火星の静寂の中に響いた。

地球のJPL管制室では、その瞬間、小さな、しかし確かな歓声が上がった。オペレーターたちは、互いに顔を見合わせ、喜びを分かち合った。アリアナ博士は、固く握りしめていた拳をゆっくりと開いた。ケンジは、ディスプレイに映し出された「サンプル採取成功」の文字を、食い入るように見つめている。そして、デヴィッド・リー博士の目には、微かに涙が浮かんでいた。

それは、単なる岩石の採取ではなかった。それは、何十億年も眠っていた火星の記憶を、人類が初めてその手にすることへの感動だった。この小さなコアサンプルの中に、火星の過去の生命の痕跡が、そして宇宙における生命の普遍性という、人類が長年追い求めてきた答えが隠されているかもしれない。

パーサビアンスは、採取したサンプルチューブを、その内部の安全な格納庫へと収めた。火星の風が、その車体を優しく撫でる。人類の夢と希望を乗せた「知性」は、新たな一歩を踏み出した。この小さなコアサンプルが、地球に届けられる日を夢見て。


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