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第10章 地球への帰還、そして大気圏突入


地球への長い旅路

火星の周回軌道上で、貴重なサンプルを搭載した地球帰還オービター(ERO)「ホープ」は、新たな航路へとその姿勢を転じた。火星の重力圏を離脱し、宇宙の深淵を横断する、地球への長い旅が今、始まったのだ。その旅は、単なる数百万キロメートルではない。数ヶ月、あるいは年単位の時間を要する、気の遠くなるような飛行だった。

ホープの推進システムが、微かな光を放ちながら噴射を続ける。火星の赤い球体は、徐々に遠ざかり、やがて夜空に瞬く無数の星々の中に溶け込んでいった。ホープのAIコアは、自らの内部に抱えるサンプルコンテナの安全を最優先しながら、太陽系空間を航行する。その航路は、太陽の重力、他の惑星の引力、そして微小な宇宙塵との衝突リスクを計算し尽くされた、完璧なものだった。

宇宙空間を旅するホープのレンズが捉える風景は、息をのむほど壮大だった。遠ざかる火星の赤い輝き、そして太陽へと向かうにつれて、微細な塵の輝きを増していく小惑星帯。そして、振り返れば、故郷である地球の姿が、微かな光点として視界に現れ始めた。最初は小さな青い点に過ぎなかったそれは、時間が経つにつれて徐々にその大きさを増し、青と白のマーブル模様がはっきりと見えるようになる。

JPL管制室では、アリアナ・カーター博士やケンジ・タナカたちが、定期的にホープからのテレメトリーデータを受け取り、その旅路を見守っていた。長い旅の途中には、通信が一時的に途絶える「通信ブラックアウト」の期間もあった。太陽が地球とホープの間に位置することで発生する、この不可避な期間は、管制チームにとって常に神経をすり減らすものだった。その間、ホープは完全に自律航行に移行し、AIが全ての判断を下す。

「ホープの自律航行システムは、完璧に機能しています。通信途絶期間も、異常なデータは記録されていませんでした」

ケンジの報告は、常に管制チームに安堵をもたらした。彼らは、画面上の小さな光点が、火星の記憶を抱え、確実に故郷へと向かっていることを信じ続けていた。地球が徐々に大きく、その青い輝きを増していくにつれて、管制室の期待と緊張感は、日々高まっていった。


地球近傍での分離と大気圏突入

数ヶ月後、ホープはついに地球の重力圏へと到達した。その巨大な機体は、地球の周囲を回る月をかすめるように、惑星の青い球体へと接近していく。

「ホープ、最終軌道調整開始。分離シーケンス準備」

アリアナの声が、管制室に響き渡る。彼女の表情は、これまでのどの瞬間よりも張り詰めていた。地球近傍での再突入カプセル(Earth Entry System / EES)の分離は、わずかな誤差も許されない、極めて危険なプロセスだ。

ホープの船体内部から、いよいよEESが外部へと姿を現した。それは、直径約80センチメートルの、流線型をした黒いディスク状のカプセルだ。その表面は、大気圏突入時の超高温に耐えるための特殊な耐熱シールドで覆われている。このカプセルこそが、火星の「パン」を地球へと持ち帰るための最後の砦だった。惑星保護のため、内部は厳重に滅菌され、火星の物質が地球環境に漏洩しないよう、何重もの封じ込め機構が施されている。

「EES、切り離し準備完了。最終チェック、グリーン」

ケンジの報告に、アリアナは深く頷いた。

「ホープ、EESを切り離せ」

その瞬間、ホープのロボットアームが静かにEESを放した。宇宙の静寂の中で、EESは慣性によってホープから離れていく。その小さなカプセルが、自らの力で地球の大気圏へと向かっていく。

数分後、地球の大気圏に突入したEESは、瞬く間に赤く燃え上がった。

ゴォォォォォォ……!

JPL管制室のメインスクリーンには、EESが地球の大気との摩擦によって生じる、壮絶な炎を上げる様子が映し出される。カプセルの表面温度は、数千度にも達する。カプセル内部の「パン」は、この想像を絶するGと熱に耐えなければならない。しかし、EESは、その苛烈な環境からサンプルを守るために、何重もの熱保護システムと衝撃吸収材を備えていた。内部に搭載されたセンサーは、カプセルが受けるGと温度をリアルタイムで送信し続ける。

「G、限界値に接近! 耐熱シールド、正常に機能しています!」

ケンジの声が、興奮と緊張が入り混じったものになっていた。

ユタ州の広大な砂漠地帯。人里離れたその場所は、EESの着陸地点として精密に選定されていた。上空には、NASAの追跡機が旋回し、地球へと向かう光点を捉え続けている。

「パラシュート展開、高度2000メートル!」

管制室の音声が、緊迫した状況を伝える。赤い炎の塊が、空中で突然、白い花のように開いた。メインパラシュートが展開され、EESの下降速度は急激に落ちる。

「レーダー追跡、良好。着陸地点への誤差、0.5メートル以内!」

ケンジが叫んだ。彼の指は、マウスの上で震えていた。これまでの全ての努力が、この数分間に集約される。

再突入カプセルは、パラシュートの助けを借りて、ゆっくりと砂漠の地面へと降下していく。風にあおられながらも、その軌道は驚くほど安定していた。

着陸予定時刻の直前、デヴィッド・リー博士は、静かに管制室の中央へと歩み寄った。彼は、まるで祈るかのように、モニターに映し出されたEESの姿を見つめていた。彼の人生を賭けた、火星への問いの答えが、今、目の前まで来ている。

ドスッ!

わずかに鈍い衝撃音が、管制室のスピーカーを通して伝わってきた。それは、再突入カプセルが、ユタ州の砂漠の地面に軟着陸した音だった。

一瞬の静寂の後、管制室は、これまでで最も大きく、そして深い歓声に包まれた。

「タッチダウン! EES、着陸成功!」

アリアナは、固く閉じていた拳をゆっくりと開いた。その目には、達成感と、計り知れない安堵の光が宿っていた。ケンジは、椅子に座り込んだまま、顔を両手で覆い、肩を震わせていた。そして、デヴィッド・リーは、深く息を吐き、静かに涙を流していた。

火星から地球へと、その旅を終えた「パン」が、今、人類の手に渡ろうとしていた。


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