平穏な時間
馬車に揺られる振動を感じながら、シルヴィアは通り過ぎる街の景色を何気なく眺めていた。
悪竜討伐隊が王都を出発してから1か月が経とうとしていた。
まだ悪竜に出くわしたという報告はなく、悪竜が降り立ったことで周辺に瘴気をまき散らし、そこから魔物が発生しているはずだが、その魔物と戦っているという話も聞いていなかった。
まだアレックス達はひたすら悪竜に向けて突き進んでいるだけなのだろう。
そんなことが起こっているはずなのに、シルヴィアが見ている景色は1か月前と何も変わっていなかった。
変わらない街並みに、活気ある人々。
悪竜が落ちてきた国として危機的状況のはずなのに、ここは平和そのものだった。
討伐隊が編成されて出発したときは誰もが心をざわつかせてこの先の心配をしていたはずなのに、目の前に魔物が現れたわけでもなければ、どこかで被害が出て、王都にその影響が出てこない限り、ここに住む人々は何事もなかったように生活してしまう。その気持ちはシルヴィアもわかっていた。
何もできない自分がずっと心配して生活していたところで何も変えられない。それならいつも通りの生活をしていることが討伐に行ったアレックスを心配させないことでもある。
出発の時に会えなかったという心残りはあるけれど、シルヴィアも変わらない生活をしていた。
そんな中、久々にリーンハルト公爵家から招待状が届いた。
公爵夫人からシルヴィアに直接届けられた招待状は、人を集めたお茶会ではなく個人的に遊びにおいでというお誘いだった。
父のエイターがリーンハルト公爵を助けてから関係が始まり10年になる。
シルヴィアが8歳の時から公爵家との繋がりがあるのだが、最初は父や母と一緒について行くだけの子供で、公爵家には2人の息子がいたので何度も顔を合わせて遊んでもらった。
特にアレックスは年上だったため、一人っ子のシルヴィアにとってはお兄ちゃんができたようで遊んでもらえることが嬉しかった記憶がある。彼からするとシルヴィアのお守りをさせられていたのかもしれないが。
ただ、彼との初めての出会いは公爵家で、あまり良い印象をお互いに持つことができなかった状況だった。そのことを思い出すと今では懐かしいという気持ちしか湧いてこない。
「ふふ・・・」
アレックスと初めて会った時のことを思い出してシルヴィアは無意識に声を漏らしていた。
「どうかしましたか?」
一緒に馬車に乗っているエリンが首を傾げて尋ねてきた。
「なんでもないわ。それよりも今日はどんな用事かしらね」
アレックスが悪竜討伐に向かってから初めて公爵家に招かれる。いつもなら公爵夫人に招待されてもどこかで彼が姿を見せてくれていたが、今回はおそらく夫人と2人きりのお茶になりそうだった。
シルヴィアを呼んだのには何か意図があるような気がしていた。
「何か魔法石が必要になったのではないでしょうか?特別な物はすべてお嬢さまに頼まれていますし」
公爵家はシルヴィアが魔法石の職人であることを知っている。それも他の職人が作れないような特殊で強力な魔法石を作れることも理解している。そんな存在がいるのだとわかると、何かに利用としようと囲い込む人間もいるのに、公爵家はシルヴィアを保護するように魔法石職人としての存在も隠してくれて、必要な時にだけ魔法石の依頼をしてきていた。もちろん報酬もしっかり払ってくれている。
男爵家は公爵家からすれば格下だ。いいように言いくるめてシルヴィアを利用することなど簡単だったはずだ。だが、それをすることなく今でも男爵家と友好的に接してくれていた。
だからこそ信頼できる人たちだと思い、シルヴィアも依頼をされたらできるだけ応えるようにしていた。
「もしかしたら、公子様がいないことで寂しく感じて、お嬢様に話し相手になってもらいたくて誘っただけかもしれませんよ」
エリンが思いついたように言うと、シルヴィアは苦笑していた。
「公爵家にはもう1人公子様がいるのだから話し相手はいるでしょう。アレックスがいない寂しさはあるかもしれないけれど、私を呼び寄せる必要はないと思うわ」
もう1人の公子であるエルト=リーンハルトはシルヴィアと同じ年だ。年が一緒ということで最初はエルトと仲良くさせようとしていた公爵家だったが、エルトはあまりシルヴィアと関わろうとしなかった。嫌われているわけではなかったが、同い年の異性と遊ぶことを恥ずかしく思っていたのかもしれない。エルトが距離を取っていると、いつの間にかアレックスが一緒にいることが多くなっていた。
アレックスとも初めての時は印象が良くなかったが、彼はすぐにシルヴィアに優しく接してくれるようになって、シルヴィアも心を開くようになった。
彼とまともに話をするようになったのは王立学園に入学する少し前だった。学園生活ではそれほど接点があったわけではないけれど、顔を合わせれば挨拶はしていた。彼がどうして最初シルヴィアを避けていたのか、途中から普通に接するようになったその心境の変化を本人に聞いたことがない。
いつの間にか今の関係になっていたというのが正しい。
機会があればいつか聞いてみたいと考えているシルヴィアだ。
そんなことを考えていると、馬車の速度がゆっくりと落ちていることに気が付いた。外を確認すると公爵家に近いことがわかる。
「もうすぐ着きますね」
エリンが膝の上に置いている小さな箱を抱え直した。久しぶりの訪問なので、シルヴィアが作った魔法石をお土産に持ってきていた。悪竜討伐に作ったような強力な物ではなく、日常で使う弱い力の魔法石だ。それでもシルヴィア製は他より長持ちするとか性能がいいと言われるので、時々持って行っていた。これくらいの魔法石なら、元となる魔石も安価で手に入るし、簡単につくことができる。
馬車が停まって公爵邸に到着したことがわかると、馬車の扉が開かれた。
エリンが箱を抱えて先に降りると、シルヴィアも顔見知りの公爵家の執事が手を貸してくれたので降りる。
「お待ちしておりました」
いつもと変わらない対応にシルヴィアはエリンが持っていた箱の中身を説明して預けた。
「奥様が中でお待ちです」
公爵夫人は体が丈夫ではないので、出迎えには来ない。これもいつも通りで、シルヴィアは案内の侍女に促されて一緒に公爵邸に入っていった。
「公爵夫人のご様子に変わりはありませんか?」
歩きながら前を歩く侍女に声を掛けてみた。
「いつもと変わらず過ごしておられます。ですが、アレックス様が討伐に行かれてから何も連絡がないため、最近少し気落ちしているように見える時があります」
周りには気を遣っていつも通りに振舞っているようだが、この侍女の目はごまかせなかったようだ。
シルヴィアの両親よりも年上に見える侍女は、長年公爵家に仕えて公爵夫妻を見てきているベテランだ。些細な変化も見逃さない侍女の鑑とも言える。後ろを歩くエリンも密かにこの侍女に憧れを抱いているのだが、それは秘密だ。
「こちらになります」
通された部屋は男爵家が客人を向か入れるための部屋の倍以上はある広さだ。
いつ来ても広い部屋に、黒髪を綺麗に結い上げて、少しだけ憂いを感じさせる緑の瞳が印象的な公爵夫人セレン=リーンハルトがソファに座っていた。
「ようこそ」
本来なら立ち上がって挨拶をするところだが、セレンは座ったままシルヴィアに自分の横に座るように促してくる。
「お久しぶりですセレン様」
「シルヴィアも元気そうでよかったわ。ひと月前に無理をして倒れたと聞いた時は心配したのですよ」
「少し休めばすぐに良くなりました」
ひと月前と言えば悪竜討伐のために魔法石を作った時だ。魔力も気力も体力もすべてを使い果たすように強力な魔法石を作ったはいいが、シルヴィアは出発当日にアレックスに魔法石を渡せる状態ではなかった。デイビットが代わりに渡してくれたが、公爵家にもシルヴィアが倒れたことは伝わっていた。
あの後お見舞いにいろいろな品を送ってくれていた。
怪我をしているわけではなかったので、数日ゆっくり休めばシルヴィアはすぐに回復していた。
それでも無理をさせたと思った公爵家が気を遣ってくれたのだ。
シルヴィアは討伐に参加するわけではないので、自分ができることをしてアレックスの助けになりたいと思いやっただけのこと。そこに後悔はない。
「セレン様もお変わりありませんか?」
「体調はいいわ。少しだけ屋敷内が寂しく感じることはあるけれど、それ以外は変わっていないわね」
その寂しさがアレックスがいないことなのは聞かなくてもわかっていた。寂しさを紛らわすために親しくしているヘイネス男爵家のシルヴィアに会うことにしたのだ。
それにシルヴィアの様子も確認したかったのだろう。
エルトがいるから寂しくないだろうと勝手に考えていたシルヴィアだったが、セレスなりの気遣いがあったことに今さら気が付いた。
「今日はゆっくりできるのでしょう。久しぶりに会ったのだしたくさんお話ができると嬉しいわ」
シルヴィアが隣に座ると、目の前に用意されたお茶とお菓子を口にしながら、2人の会話が弾んでいった。
ひと月会っていなかったので、その間に何をしていたのか、お互いの報告をするような会話になった。
会話の中にアレックスのことは出てこない。悪竜討伐がどこまで進んでいるのか、公爵家でも把握できていないようで、セレスはシルヴィアの話を聞きつつ、自分の話だけをしていた。
リーンハルトなら何か情報がありそうだと密かに思っていたシルヴィアだった、話が悪竜関係にならないことで、気にはなっても成果が出るまではじっと待つことしかないのだと思った。
「来月は国王様の誕生祭のパーティーがあるはずだけど、今回は延期になりそうね」
そう思っていると、急に話が変わって悪竜に少しだけ関わりのある会話になった。
「両親もそんな話をしていました。悪竜討伐が終わるまでは盛大なパーティーは開かれないだろうと」
「何よりも悪竜討伐が最優先ですからね。個人的な小さなパーティーやお茶会程度なら許されているけれど、王家主催の大きなものはしばらく控えることになるでしょう」
小さい集まりも禁止なってしまうと社交の場を失ってしまう貴族たちは情報交換ができなくなってしまう。そうならないためにも個人の屋敷に人を集めて行うことは許されていた。社交場は貴族にとって重要な場でもあることを王家も理解している。
「今度わたくしも久々に友人を数人呼んでお茶会をするつもりなのよ。派手なことはしないつもり。ただ友人たちとお茶を飲みながら近況を報告し合う程度になるでしょうね。その時はシルヴィアもいらっしゃい」
公爵夫人に呼ばれる友人ならシルヴィアが呼ばれることはないと思っていたのでのんびり話を聞いていたが、急にお茶会に誘われてすぐに返事が出来なかった。
「え、でも・・・」
自分が男爵令嬢であることは自覚している。両親が懇意にしてもらっているおまけのような気持ちでいたため戸惑ってしまった。
「あなただって立派な貴族令嬢ですもの。私の大切な友人として招待したいわ」
「あ、ありがとうございます」
公爵夫人が懇意にしている人たちだと考えると、なんだか今から緊張してしまう。
その反応にセレスは苦笑しながらお茶を飲むのだった。
「シルヴィア嬢」
その後も他愛ない話を続けていると、扉をノックする音が聞こえてセセレスが返事をする前に部屋に男性が入ってきた。
「まぁ、あなた。そんなに急がなくてもシルヴィアは逃げませんよ」
入ってきたのは現公爵のディール=リーンハルトだった。アレックスと同じ金髪は綺麗に刈り込まれていて40代半ばでも快活さを失っていない印象があった。瞳の色もアレックスと同じ。彼が年齢を重ねたらこんな素敵な男性になるのかと想像できてしまう。
「あぁ突然ですまない。仕事から戻って来たのだが、シルヴィア嬢が屋敷に居ると聞いて少し話がしたかったんだ」
少し慌てたように入ってきたディールだったがセレスに指摘されて少し申し訳なさそうにしてから、落ち着いてシルヴィアに話しかけてきた。
「私にお話ですか?」
今日はセレスに招待されて来ただけなので、ディールと話すようなことはないと思い首を傾げる。ただ、彼がシルヴィアと話がしたいと言ってきたということは、ただの世間話をしたいわけではないこともわかっていた。
シルヴィアがセセレスに視線を向けると、彼女は困ったように肩を竦めた。
「せっかくのお茶会だけれど、仕方がないわね」
シルヴィアを招待したのは彼女だ。妻が楽しんでいるところに邪魔をしてしまったディールは返す言葉がないようで申し訳ないと小さく謝っていた。
「私の執務室で話をしたい」
「わかりました」
重要なことを話すことはわかっていたけれど、どうやらこの場で話せる内容ではなかったらしい。ディールに促されて彼の執務室に移動することになった。
「帰りに高いお菓子でも要求しておきなさい。私達の時間を奪った罪滅ぼしくらいはさせないと駄目よ」
立ち上がった時にセレスはそう言ってシルヴィアを見送ってくれた。それに苦笑してからシルヴィアはディールの後を追っていった。