特別な人
「どうして薬が効かないのよ」
1人部屋に戻った王女リリアンは、椅子に腰かけると目の前のテーブルを平手で叩いた。
誰もいない部屋にバンという音が響いて、リリアンの手が痛くなっただけ。
お茶を用意した侍女がミスをしたのかと思ったが、アレックスが帰った後で問い詰めると確実に薬を入れたと証言していた。薬の効果がなかったのか、入れる量を間違えたのか、それとも、もともと彼に薬が効かなかったのかもしれない。
相手は公爵家の人間だ。薬に対して耐性があってもおかしくない。そんなことを今になって思い至ったリリアンは悔しさを滲ませた。自分も王女として色々な薬への耐性を付けさせられている。王家の人間なら誰もが通る道だ。リーンハルト公爵家もそういう教育をしていた可能性はある。
「アレックスが急に結婚なんて言い出すから・・・」
討伐で戻ってきたアレックスは国王の前で男爵令嬢との結婚の許可を願い出た。
当然その場は騒然となった。公爵家の後継者であり英雄となったアレックスなら、結婚相手など引く手あまただ。彼よりも身分の高い相手への求婚だって可能な立場だというのに、男爵令嬢を選んだ。
リリアンは、自分が求婚されると思っていた。
「なんで私じゃないのよ」
王女を妻にと言われることを期待してあの場にいたのだ。
アレックスとは幼い頃から知り合いだ。公爵家の子供は城に来て王家の子供の遊び相手になる。アレックスは第1王子の遊び相手として登城していたが、リリアンも何度か遊んでもらったことがある。
成長するにつれてお茶を飲むことだってあったし、彼はいつもリリアンに優しかった。優しいお兄ちゃんというイメージから、素敵な男性に成長していき、いつかはリリアンも花嫁として迎え入れてくれる相手になると勝手に思い込んでいたのだ。
アーベスト王国の公爵家は3つある。リーンハルト公爵の他にモルト公爵家とシャーリル公爵家があるが、モルト公爵家は年の近い子供がいなかったことで交流があまりなく、シャーリル公爵家は女の子ばかりでリリアンの遊び相手であった。
結婚相手はリーンハルト公爵家からだと勝手に思っていた。
アレックスには弟もいるが、リリアンは後継者であるアレックスが自分に相応しいと思い彼からの求婚を望んでいたのだ。
だからこそ顔も知らない男爵令嬢との結婚が許せなかった。
父親である国王はあっさり許可を出してしまって今は婚約式に向けての準備をしていると聞いていた。
早く公爵家に慣れるために現在リーンハルト公爵家の屋敷に一緒に住んでいた。アレックスと一つ屋根の下ということになる。
「アレックスさえ落とせれば婚約なんてすぐに白紙にできると思ったのに」
お茶に混ぜたのは睡眠薬。眠っている間に部屋に連れ込んで、彼が目を覚ました時にリリアンがドレスを乱して一緒にベッドに眠っていれば既成事実をでっち上げる事なんて簡単だと思っていた。
目撃者の侍女たちが大騒ぎして、国王の耳に入ればアレックスの婚約は解消され、責任を取る形でリリアンと結婚することを命令することができただろう。
そこに愛情がなくても結婚してしまえばそこからアレックスと愛を育むこともできると安易な考えを持って実行していた。
「アレックスが駄目なら、男爵令嬢を何とかするしかないかしら」
本命を手に入れられなかった。だったら、アレックスの婚約者を辞退させればいい。
顔は知らないが名前は聞いている。ヘイネス男爵家の一人娘シルヴィア。彼女自身はリーンハルト公爵家にすでに入っているので簡単に手が出せない。シルヴィアではなくヘイネス男爵家を陥れるほうが簡単かもしれない。
そんなことを考えていると扉をノックする音が聞こえた。
「リリアン、いるだろう?」
その声にリリアンは憎しみに満ちた顔から、一気に幼さが垣間見える女の子の顔へと変わった。
「お兄様」
返事をすると兄のリーヒルが難しい顔をしながら部屋に入ってきた。部屋の中を見渡してからリリアンに近づいてくる。
「荒れているかと思ったが、そうでもないな」
「何のお話ですか?」
独り言のように呟きながら近づいてきたリーヒルに首を傾げると、彼は苦笑して首を横に振った。
「なんでもないよ。それよりリリアンに話がある」
「なんでしょう」
ソファに座ったリーヒルに幼さを感じさせる妹の顔で見つめると、リーヒルがじっと見つめてきた。
変な顔をしているつもりがなかったリリアンは、頬に手を当ててみた。
「アレックス=リーンハルトの婚約の件だが、アレックス自身撤回するつもりがない。リーンハルト公爵家としてもヘイネス男爵令嬢を受け入れている。陛下も大勢の前で許可を出した手前許可を取り消すつもりがない。言っている意味がわかるな」
唐突に始まった説明に、一瞬何を言い出しているのかと首を傾げそうになったが、すぐにリーヒルの言っている意味を理解した。
それと同時にリリアンは頬が引きつりそうになるのを堪えるので精いっぱいになる。アレックスの婚約に反対したリリアンの意見を尊重して父や兄は動いてくれた。だがそれも失敗に終わったのだ。父に関しては国王として許可を出したため、撤回はできない。公爵家が考え直してくれれば変わっていたかもしれないが、それもなかった。
アレックスの考えが変わらなくても、彼との逢瀬を目撃させることでリリアンとの婚約を確実にしようと動いてみたがそれも失敗に終わり、結局アレックスとシルヴィアの結婚を阻止することが何一つできなかった結果になった。
「アレックスの意志は固い。リリアンが慕っていたことは僕も知っているけれど、こればかりはどうすることもできなかったよ」
妹のために動いてくれた兄は優しい。だが、アレックスを動かせるほどの行動力は見せてくれなかった。
「妹のためにもう少し頑張ってくれてもよかったのに」
ぼやいてみたが、リーヒルはため息をついた。兄としてやってやれることはもうないから諦めろと言っているようで、リリアンの中に悔しさが募る。
話は終わりだと言うようにリーヒルは立ち上がって部屋を出て行こうとした。
だが、扉に手を伸ばしてから思い出したように振り返る。
「リリアン。ヘイネス男爵令嬢に手を出すことはするなよ」
忠告というより警告のように聞こえ、リリアンは数回瞬きをした。
リーヒルの真剣な表情に言葉が出てこない。
「彼女は特別なんだ。それを忘れるな」
それだけ言ってリーヒルが出て行く。
特別というのはアレックスにとってということなのだろう。だからこそ結婚するのだ。
「どうして・・・」
悔しさが込み上げてきて、誰もいない部屋でリリアンが再びテーブルを叩いたことを知る人は誰もいなかった。