最悪の報せ
その日は天気が良くて、侍女のエリンが来る前に男爵令嬢のシルヴィア=へイネスは目が覚めるとベッドから起き上がっていた。
カーテンをしているのに、しっかりとした日差しがあることがわかる夏の晴天。
「今日もいい天気ね」
ここ数日は晴れの日が続いていて、起きるのに気持ちがいい。
腕を天井に向け伸ばして体をほぐすように背伸びをすると、扉をノックする控えめな音が聞こえた。
「お嬢様、もうお目覚めでしたか」
入ってきたシルヴィア専属の侍女エリンはすぐにカーテンを開けてくれる。
夏の日差しが一気に部屋に降り注いで、薄暗かった部屋が明るくなった。
「天気がいいと早く目が覚めるわ」
顔を洗うための水を用意してくれて、冷たい水は夏の季節には気持ちがいい。
「今日は出かける予定もないし訪問客もいないから、動きやすくてラフなドレスがいいわ」
「わかりました」
エリンがすぐにドレスを用意してくれて着替えを済ませると、そのまま朝食のため部屋を出た。
朝食はいつも家族で一緒にというのがヘイネス男爵家の決まりとなっている。
シルヴィアが食堂に入った時にはすでに両親が朝食の並べられている席に座っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようシルヴィア」
シルヴィアが挨拶をしながら入ると、父のエイターが頷きながら挨拶をしてきて、母のアリアが穏やかに返事をしてくれる。
いつもと変わらない朝に思えたが、少しだけ違和感があった。
椅子に座ったシルヴィアはその違和感を払拭できないまま父親の顔を窺った。違和感は父にあったのだ。
いつもと同じ挨拶をしてくれたはずなのに、どこか落ち着かないような不安そうなものを感じ取ってしまった。気のせいだと言われてしまえばそうかもしれないと思える程度だったので、シルヴィアも敢えて追及することなく何気なく父の様子を見るだけにしていた。
すると、食事が始まってすぐ、エイターがシルヴィアを見て戸惑うような態度をした。それだけでやはりいつもと違うことがわかる。
「どうかしたの?」
何か言いたそうだけれど、言うのを躊躇っているような雰囲気。
「確証があるわけではないが」
そう前置きしてからエイターは近くにいた執事長のヘルンを呼んだ。彼は手に新聞を持っていて、それをシルヴィアへと差し出す。
新聞は毎日エイターが読むために屋敷届けられるが、シルヴィアが目を通すことはほとんどない。重大な事件や政策などで知っておくべきだとエイターが判断したときに家族に読むようにと促される程度にしか目にしない物だった。
その新聞を差し出されたことで、何か重要な記事があるのだとすぐにわかった。
「表紙をお読みください」
ヘルンが新聞を差し出しながら言ったので、シルヴィアは言われたとおりに表紙面に視線を落とした。
すると表紙一面に大きな文字と小さな文章。それに謎の生き物が描かれていた。
最初に気になるのはその絵だったけれど、見たことのない黒い生き物がシルエットだということに気が付いて、絵よりも文字を読むべきだと判断する。
「・・・悪竜飛来」
大きく書かれた文字を読んで、胸の奥に冷たいものを感じた。
次に小さな文字を読む。
「アーベスト王国に30年ぶりの悪竜が確認される。大平原のど真ん中に堂々と降り立ち、瘴気をまき散らして、周辺の環境に異常が出ていることも確認された」
声に出して読むことでそれが現実だということがはっきりと認識できた。同時に胸に重たい何かが落ちていくのもわかった。
「またアーベスト王国に悪竜とは運が悪いな」
エイターの声に穏やかな雰囲気でいたアリアも暗い表情をした。
悪竜とは20年から30年に一度空から謎の生命体が落ちてくる存在の総称を示している。いろいろな姿形をしていて、統一性はない。新聞のシルエットの生き物は大きな翼を2対持った巨大なトカゲのような姿をしている。今回の悪竜がこの姿なのか、ただ想像で描いているのかわからなかった。
「前回の観測もアーベスト王国でしたよね」
「そうだな。僕も10歳の子供だったから、騒ぎになっていたくらいの記憶しかないが、隣国に落ちるのではなく王国の山の麓で発見されたという記憶はある。あの時も国を挙げて悪竜討伐に騎士たちが動いたのも記憶している」
アリアとエイターは前回の悪竜確認の時には10歳だった。シルヴィアが生まれる前の話なので、2人の会話を聞いているしかない。
「今回もアーベスト王国で討伐することになるから、これから準備などで騒がしくなるだろうな」
「たしか悪竜が降り立った土地を所有する国が討伐をする決まりなのよね」
アーベスト王国がある大陸は3つの国が存在している。西側と中央と東側で分かれていて、アーベスト王国は中央の国だ。広大な平原が広がっている豊かな国ではあるけれど、悪竜が現れると瘴気が発生して植物が枯れて生き物が逃げてしまう。緑豊かな国が大地がむき出しの枯れ果てた土地に様変わりするのだ。
各国は悪竜が降り立った領土で討伐する国を決めている。自分の国に現れたのなら自分達で討伐することが絶対的な決まりとなっていて、もしも他の国に討伐を要請する時は莫大な資金を提供して協力を求めなければいけない。
ずっと昔に隣国と領地を巡っての戦争が起こったことがあったが、アーベスト王国とその西側にある国シルクロッド王国の大戦だった。歴史書ではシルクロッドが攻め込んできて、アーベストの領地を奪っていった。だが、その戦争の中、悪竜が攻め込んできていたシルクロッド王国に落ちてきた。そのため攻め込んできた国は侵略している余裕がなくなった。戦争で戦力を費やしてしまっていたのだ。そこへ悪竜の討伐が重なり、国が滅びるのではないかというところまで追い込まれた。それを助けたのが攻め込まれていたアーベスト王国だった。悪竜を協力して倒すことで戦争自体も収束したのだが、その時に攻め込んできた国に協力金と戦争での賠償金など、それこそ経済的に国が滅びそうな金額を提示していた。
深い反省と今後アーベスト王国に攻めこまないという誓約を交わすことで、賠償金だけは払わせたが、アーベストはシルクロッドを破綻させるようなことはせず、国は何とか持ちこたえた。その後東側の国も含めた3か国で悪竜討伐時の条件を取り決め、協力金は莫大になった。
戦争で侵略するよりも自分達の国の軍事力を高めて悪竜が降りてきた時の備えをするべきだという考えに変わり、国同士の戦争はそれ以降なくなった。
「アーベスト王国の軍事力は3国の中で一番と言われているから、悪竜討伐にも精鋭部隊を送り込むはずだ。半年もすれば討伐したという報せが来るだろう」
国の歴史を思い出していると、エイターが話を続けていた。
悪竜討伐の歴史も長い。その中で討伐には少数精鋭の部隊が投入されることが多く、半年ほどで討伐されることが多かった。
シルヴィアにとっては今回が初めての悪竜なので、どんな生き物でどれだけの被害が出るのか、討伐がどれほどのものなのかは聞いた話だけで想像するしかない。
「精鋭部隊なら、アレックスも選ばれるのかしら・・・」
ポツリと言った言葉に、部屋の中が一瞬にして凍り付いたように静かになった。
「そのことなんだが・・・」
急にエイターが声を低くした。深刻そうなその様子にシルヴィアは自分の言葉に重みを感じてしまった。
「討伐部隊には指揮官として公爵家か、侯爵家が選ばれるのが基本だ。稀に王族が出ることもあるが、今回はリーンハルト公爵家が指揮官として選ばれたらしい」
らしいというのは新聞にそう書いてあっただけで、エイター自身が確認したわけではない。それでも信頼のできる新聞社の記事なのでリーンハルト公爵家が中心となって動いていることは真実だった。
「それって・・・」
「現公爵が動くとは思えない。指揮をしているのはアレックス=リーンハルト公子のはずだ」
リーンハルト公爵家には2人の子供がいる。長男のアレックスは現在21歳で、騎士団には所属していないが剣の腕は騎士団のエースと呼ばれている騎士に匹敵すると言われている。公爵家の後継者でもあるから危険な討伐は避けるべきだと思われるが、公爵家にはもう1人息子がいる。もしもの時は彼が後継者として公爵家を繋いでくれることもあり、今回リーンハルト公爵家に討伐の要請が出たそうだ。
エイターのゆっくりと噛み締めるような言葉に、シルヴィアは食事の手が完全に止まって、鼓動が速くなっていくのを感じた。
アレックスとは幼い頃からの知り合いだ。きっかけはエイターが偶然リーンハルト公爵を助けたことだった。そこから家族ぐるみの交流が始まり、公爵家と男爵家では関わり合いになることはない立場だったのに、今では名前で呼び合う程の親交になっていた。
「アレックスが討伐に」
「シルヴィア、気をしっかり持ちなさい。あなたがここで狼狽えても公子様は討伐に行く現実が変わるわけではないわ」
呆然とした呟きに、気合を入れるように冷静な声でアリアの声が響いた。
顔を上げれば心配そうにしている父と、しっかりとシルヴィアを見つめている母がいる。
アリアの言う通りシルヴィアがここで取り乱したとしても公爵家の悪竜討伐は変更になることはないはずだ。これはすべて王命で決められている。
シルヴィアに止める権限もないし権利もない。それに悪竜討伐に選ばれるということは名誉なこととされている。命がけの討伐になるため、勝利して帰って来られれば英雄となり、国王陛下から褒美ももらえる。ただし、無事に戻ってくることが条件にはなる。
アレックス=リーンハルトは騎士団には所属していなくても公爵家の騎士団で鍛えられた腕は王国騎士団のエースに匹敵すると聞いていた。彼ならきっと悪竜討伐を成功させて無事に戻ってきてくれるはずだ。
「そうね。私が騒いでも仕方がないわね」
気持ちを落ち着かせてシルヴィアは呼吸を整えると覚悟を決めたように頷いた。
「私は私にできることをするわ」
その宣言を待っていたかのように両親が頷いてくれる。
「まずはリーンハルト公爵家に連絡を入れてみよう。本人から直接話を聞いた方が詳しいことがわかるだろうし、シルヴィアのすべきことがはっきりするだろう」
エイターは娘が何をしようとしているのか理解している。だからこそ公爵家と連絡を取ってくれようとしていた。
「そうね。直接訪ねるのは忙しいかもしれないけれど、手紙くらいはもらえるかもしれないわ」
アリアも前向きに話をしてくれる。
「そうとわかればすぐに準備をしなくちゃ」
手が止まっていたが、食事を再開して食べ終わると、シルヴィアはすぐに自分にできることをするために部屋に向かうのだった。