神よ。私は罪を犯している……ような気がします
聖堂の片隅には二つの扉が並んでいた。私は案内をしてくれた信者の指示の通りに手前のドアを開け小部屋に入る。その小部屋は「告解部屋」と呼ばれ、信者たちが個別で自らの罪を司祭に告白し、神のゆるしを得る場となっている。
向かいの小部屋に人の気配。モザイクのように細かい格子の向こう側をよく見ると、すでに司祭が控えていた。二つの部屋は壁で仕切られていて、信者は司祭に窓越しに罪の告白をする。告白を聞く司祭は、神に取り次ぐことで罪をゆるす。告白の内容は、神と信者だけの秘密。司祭が、情報を外部に漏洩することは絶対にないという。
「無理を承知でこちらからお願いをしておきながら今更なのですが、信者でもない私が、本当にこのような場で懺悔をしてよろしいのでしょうか?」
北風で乱れた黒髪を撫でつけながら椅子に座り、スカートの上に両手を重ね、私は姿勢を正す。
「もちろんです。ご安心下さい。神は、分け隔てなく、全ての人々を憐れんで下さいます」
向かいの小部屋から返事が聞こえる。想像していた声と違う、とても若い声だ。格子窓の向こうに目を凝らし、声の主を見るともなく見る。わ、本当に若い。三十代後半? たぶん私と同じ歳ぐらい? 司祭と言えば、なんとなく白髪のおじいさんを想像していたので、思わず面を喰らってしまった。
「私の顔に何か付いていますか?」
「……いいえ」」
しまった。観察しているのを見透かされてしまった。若い司祭が私を見て、優しい笑みを浮かべている。……どうしよう、司祭が私を見ている。……うわあ、まだ見ている。……何だか知らないけれど、ずっと見ている。……凝視し続けている。
「あの~、私の顔に何か付いていますか?」
「すみません。つい見惚れてしまって……」
「はあ?」
「いや、その、今の発言は忘れて下さい」
若い司祭は、しばらく動揺を隠しきれない様子でシドロモドロになっていたが、やがて気を取り直し――
「父と子と聖霊の御名によって。アーメン。さあ、それでは、神の いつくしみに信頼して、あなたの罪を告白して下さい」
――そう言って告白を促した。「はい」と返事をし、大きく深呼吸をした後、私は静かに話し始める。
「神よ。私は罪を犯している……ような気がします」
「……え? いまなんと?」
格子窓の向こうから司祭が聞き直す。声が小さくて聞き取れなかったのであろうか。私は、先ほどより声のボリュームを上げ、滑舌よく言い直した。
「神よ、私は罪を犯しているような気がします」
「気がする?」
「はい。気がするのです」
「罪を犯しました――という告白ではなくて?」
「まさか。手前味噌ですが、私は根っからの善人です。罪を問われるような行いなど、生まれてこのかたしたことはありません。ただ、なんとなく罪を犯しているような気がしてならないのです」
「気がするだけ?」
「だけです。……え、実際に罪を犯した者でなければ、神は憐みを下さらないのですか?」
「う~ん、そんなことはないと思いますけど……申し訳ございません。司祭として長らく人々の告白を聞いてきましたが、今までにない展開でしたので、少々混乱をしてしまいました。気を悪くなさらず、どうぞ続けて下さい」
聖堂の片隅にある小さな告解室で、私は告白を続けた。
――――
神よ。私は罪を犯しているような気がします。取り分けて、人のものを盗んでいるような気がしてならないのです。先ほども申しましたが、私は根っからの善人。実際に、ものを盗んだことなど一度もありません。なのに昔から「盗んだかもしれない」「盗んだような気がする」という恐怖に、ずっと怯えて生きているのです。
子供の頃からそうでした。小学三年生の時に、隣の席の女の子がニオイ付きの消しゴムを持っていた。授業中に、その子が書き間違いをして消しゴムを使うと、甘酸っぱいパイナップルのニオイが、私の机まで漂った。ある日、その女の子のニオイ付き消しゴムが何者かに盗まれるという事件が起きた。
「このクラスに泥棒がいます! 先生は大変ショックです!」
ホームルームで、担任の女性教師が犯人捜しを始めた。生徒全員に目をつぶらせ――
「誰にも言いません! 先生にだけ教えて! お願いです、盗んだ者は正直に手を上げて!」
――なんて、ありがちな展開に。長い沈黙が教室を支配する。犯人がなかなか白状をしない。私も他の生徒たちも、しばらく目をつぶったまま。ただもう時間ばかりが過ぎて行く。
目をつぶっているからこそ感じる教室の張りつめた空気。耐え難い空気だ。その渦中にいて、私は、だんだんと自分が犯人のような気がしてくる。身に覚えは無い。でも、なんとなく自分は罪を犯しているような気がしてならない。
おそらく私が盗んだ。きっと私が犯人なのだ。たぶん皆もそう思っている。ここで私が手を上げれば、全ては丸く収まる。たぶん皆もそれを望んでいる。
そっと、手を上げる。さあ、この後、先生に職員室に呼び出されたら、どう答えよう? 美味しそうなニオイに釣られて魔が差しました。消しゴムは、あまりに美味しそうで食べてしまったので、もうありません。うん。そう答えよう。
人のものを盗んでいるような気がする。大人になった今も、この恐怖は止みません。
以前、歓楽街を歩いていたら、後方から「ひったくりよ! 捕まえて!」という叫び声がした。情けないことに、私は反射的にビルの陰に身を隠していた。そこから人混みの中を逃走する窃盗犯を目撃しつつ、犯人と一緒に猛ダッシュで逃走したい衝動を禁じ得なかった。
コンビニで、買い物をしていてもそうだ。後ろめたいことなど何もしていないのに、店員さんが防犯メジャーで私の身長を目測しているような気がしてならない。カウンターの奥の扉がゆっくりと開くと、そこには防犯ボールを大きく振りかぶった店員がいて、私にめがけてボールを投球してくるとしか思えない。
デパートの商品棚に、たまたま自分が下げているショルダーバックと同じバックが陳列されているのを見つけちゃった日にはもう大変。店を出た途端に、万引きGメンに呼び止められる気がしてならない。そんな時にどこからかパトカーのサイレンなんて聞こえてきちゃったらもうおしまい、どう考えても私を捕まえに来たとしか思えない。
――――
胸の内に溜まった恐怖を一気に吐き出すように私はまくしたて――
「ああ、神よ。こんなふうだから私は四十歳を目前にしてまだ独身。私みたいな盗人かもしれない女と結婚をしてくれる男性がいるとは到底思えません」
――最後に軽くそう自嘲をした。すると、終始黙って私の話を聞いていた司祭が、やがて優しく寄り添うような声音でこう言った。
「どうやらあなたはここに来るべき人間ではないようです。なぜならあなたは罪人ではなく患者だからです」
「患者?」
「はい。あなたは強迫性障害という病気なのです。病気は病院で治しましょう。私の知り合いに良い精神科医がいるので、よろしければ紹介して差し上げます。なんなら私が付き添いましょう。今から病院までお送りしますよ」
「いやいやいや、ご好意は有難いですが、司祭様にそこまでしていただくのは、さすがに気が引けます」
「お気になさらず。私がそうしたいのですから。正直に言います。私はあなたに一目惚れをしました」
「ひ、一目惚れ?」
「はい、この格子窓越しにあなたを見た瞬間、運命の人だと思いました。分かりやすく言います。私は、あなたの顔が、めちゃくちゃタイプなのです」
「いきなりそんな。恥ずかしいです」
「もちろん、見た目だけではありません。あなたの告白を聞いて、私はさらに深くあなたに心を奪われた。私はあなたのように繊細な人が大好きだ。お願いです。よろしければ結婚を前提として私とお付き合いをして下さい」
え? なに? どういう状況? 教会の告解室の窓越しに、若い司祭からいきなり熱烈なプロポーズをされてしまったわ。
こうして私たちの交際が始まった。あとで分かったことだが、実は彼には奥さんがいた。ただし、親が勝手に決めた不本意な結婚だったとか、新婚当時から生活は冷めきっていたとか、あのガサツな性格には心の底から辟易しているとかで、しばらくして、彼は奥さんと離婚をした。
やがて私たちは結婚をした。結婚をして分かったことだが、彼は教会で司祭をする傍ら、二つの私立幼稚園と三つの老人ホームを経営する優秀な実業家だった。彼の優しいサポートのおかげで、私の強迫性障害はケロッと完治し、今では街一番のセレブとして悠々自適な生活をしている。
ああ、神よ。私って、罪な女ね。