推死
ありがとう、君を推した数ヶ月は大変に楽しかったです。
推しが友達と付き合った。もう冬も終わろうかという季節なのに、真冬に逆戻りしたかのような曇天で寒い日のことだった。
裏切られた気持ちでいっぱいだった。推しが自分の名を呼ぶときも、自分のコメントを見てリアクションしてくれるときも、声いっぱいにスキが詰まっていて、それを聞くだけで嬉しかった。少ない小遣いをやりくりして投げ銭をし、だんだん認知されていくのも嬉しかった。頑張りたいと言えば眠い目をこすって配信に張り付き、落ち込んでいると言えば少ない語彙を振り絞って元気になるよう慰めた。すべては、推しとリスナーという関係性のためだ。自分を含めたリスナーすべてに(そりゃもちろん応援の度合いによって差はあれど)スキを振りまいてくれる存在を大切にしないわけがなかった。みんなのものでいてくれる推しが大好きだった。
けれど推しは付き合った。よりにもよって同じくらいの時期に推しを推し始めた、自分のリスナー友達と。
もちろん、傍目から見ても友達はいい人だったし、声だってよかった。なにより、推しの配信を大切に楽しんでいるのがよく分かった。口が堅いことを知っていたから、自分も信用していろいろリアルのことを相談したりもしていた。
けれど! けれど!
電話越しに、内緒にして、と重々念を押された。声の端々から喜びが滲んでいて、ああ、恋人でもできたのかな、めでたいなあと思っていたのだ。こんなにいい人なんだから、恋人はきっと幸せだろう。祝福の言葉を考えていた自分の耳に飛び込んできた言葉は、半分当たりで半分外れだった。
付き合ったんだよね。あの人と。
頭を鈍器で殴られたような感覚、とはよく言ったものだと思う。いや、これまでの人生で頭を鈍器で殴られたことなどないのだけれど、なるほどこういう感覚か、と妙に冷静な頭のどこかで思った。は、ともえ、ともつかない音が口から漏れて、慌てて口を閉じる。恋人が、自分たちの、推し?
絶対に誰にも言うなって言われてたんだけど、君ならいいかなって。ほら、お互いいろいろ話できるくらい信用してるじゃん。口固いのも知ってるしさ。
電話口から聞こえる声は弾んでいて、こちらの様子には一切気づいていないようだった。そっかあ、とかろうじて返す。相手は何か続けて喋っているようだったが、もう内容は頭に入ってこなかった。
「いつもありがとう! 大好きだよ!」「きてくれてうれしい」「きみがいてくれてよかった」「すき」「あいしてるよ」
推しからもらった、宝物みたいな言葉が耳の奥を通り過ぎていく。日常生活でつらいことがあっても、推しの配信があったから耐えられた。推しのスキを大切にしていることが自分のひとつの柱だった。
これが、全く知らない別の誰かだったら。推しの学生時代の同級生とか、職場の同僚とか、そんな、自分に一切関係のない人間だったらこうはならなかっただろう。寂しいけれど、推しに大切な人ができてよかったと喜ぶ気持ちのほうが大きかったはずだ。
なのに、よりにもよって、なぜ。
この汚いどろどろとした感情はどうすればいいのか。そもそもこの感情の矛先はだれに向いているのか。選ばれた友達への嫉妬なのか、選ばれなかった自分への劣等感なのか、スキを裏切った推しへの怒りなのか、これはいったい何なんだろう。
一つだけわかるのは、今この場で、通話口で楽しそうに話し続けている友達にこの感情をぶつけることだけは避けなくてはならないということだった。そっと画面に浮かぶマイクのボタンをタップし、向こうが気づくまでミュートする。そこから五分ほどして、あれっ、という声が聞こえたのでもうあと三十秒。ボタンをもう一度タップしてミュートを取り消し、最大限申し訳なさそうに聞こえる声を作る。
ごめん、親から連絡きちゃって。話さなきゃいけないから今日は落ちるね。
そっかあ、という心底残念そうな声にすらよくわからない感情がこみあげてきて、慌てて口を押さえる。ほんとごめん、じゃあね、と短く呟いて通話を切った。
追いかけるようにチャットで「聞いてくれてありがとう」と送られてきて、それが最後の引き金だった。
訳の分からない感情に押され、吐くほど泣きながら、その場でアプリをアンインストールした。それから、何度も聞き返した画面録画も、自分の投げ銭にはしゃぐ姿のスクショも、全部全部削除した。推しやリスナーたちと交流するために作ったSNSのアカウントを削除し、友達との通話履歴も片っ端から削除した。
もう何も考えたくなかった。衝動的すぎるな、とどこか冷静ない自分が笑っているのも無視して布団に潜り込み、また泣いた。
推しが炎上した、というSNSの投稿を見たのはそれからしばらくした初夏のことだった。連絡先を一切合切ぶった切ったため関連する人たちからの連絡もなく、ネットの関係なんてこんなもんだよなあと落ち着きを取り戻したころだ。ようやく名前だの感情だのが薄れてきて元気になりだしたタイミングに、まったく別界隈の友人の拡散で回ってきた記事。なんだかなあと思いつつ、それでもやはり気になるのでまとめ記事を開く。
なんてことのない記事だった。推しは件の友人だけでなく、他のリスナーにも同じように恋愛関係を持ちかけ、よろしくやっていたらしい。そのうちの一人と関係が崩れ、そこからはドミノ倒しのように関係の暴露が始まってしまったのだという。自分が付き合っているはずだ、断ったが自分もかつて付き合おうと言われた、自分は実際にオフで会っていた……というように続いたコメントの主たちはみな見知った名前だった。みんなよく高額の投げ銭をしていた人たちだなあ、と乾いた笑いがこぼれる。他のリスナーと自分は違う、自分は恋人の応援をしているんだと思っていた人からしたら、今回のことはとんでもない出来事だったろう。金銭が動いている分、ただの浮気よりも下手をすればたちが悪い。詐欺だなんだと騒ぐコメントも散見される。
まとめ記事には推し本人のコメントはなかった。推しが所属する事務所が代理で謝罪をしているくらいで、驚くほど気配がない。落ち着くまで雲隠れをするのか、あるいは引退かと記事には書いてあった。
どっちでもいいな、と思う。擁護をする気もなければ、騒ぎに加担する気もない。数か月前に感じたあの焼けつくような感情は、もう残っていない。推しがこれからどうしようが、騙されていたかつての友達たちがどうなろうが、自分には一切関係のないことなのだ。
伸びを一つして目を閉じる。こんなものに意識を割くよりも重要なことは山のようにあった。こうやって人間はネットから離れていくんだろうな、と一つだけ笑って記事を閉じる。もう一度伸びをして、コーヒーでも飲もうと立ち上がった。
推しがいなくても楽しいことはあるし、推しがいなくてもしんどいことは乗り越えられるし、推しがいなくても人生は続いていく。多分自分にとって、推しはそのくらいのものだったんだろう。多分。