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幸福な娘

 その男は店内に入るなり、周囲に目を配らせながら席に座った。お店に客が来るのはとても珍しいことだった。男はすぐに私を呼び、そしてコーヒーを注文した。目は綺麗な青い青色で、背丈は私よりもずっと高かった。私が背中を向けてカウンターに戻ろうとしたとき、男は小声で私に言った。

「私は捜査官だ。君を助けたい。外に出ることはできるか?」


 たまにおかしなことを言う客はいる。私が少し面食らって言葉を詰まらしている間、男は終始店内を気にしているようだった。まるで、ごちそうを発見した子ネズミのように。

「あの、何かを手伝ってくれるというのはどういうことでしょうか?そもそも私は…」

いいかけて口を手で押さえた。持病の事は口外しないように、と父に難く言いつけられているのだった。「手伝う?そういうことじゃなくて…君を助けたいんだ」男は少し動揺して言った。

 助けたい?そういわれても私は特になんの不自由もなく日々を暮らしている。この喫茶店の店員として働き、それなりに食事をして、夜はしっかり眠るというごく当たり前の生活だ。

「そういわれましても、私はここで普通に暮らしているだけですが」

 私が言うと、男は少し黙り込み、何かを頭の中で思案している顔つきになった。それから男は小さな紙を取り出し私にそれを素早く、そしてそっと私に手渡した。それから無言でコーヒーを一杯口に含むと、席を立ち、店を出て行った。


 喫茶店での仕事は夜の10時ごろには終わる。お客さんがくることは滅多にないのだからもう少し早く閉店してもいいのかもしれない。だが私には関係のないことだった。私はいつも通り店内を掃除し、コーヒーワゴンを片づける。二階にある寝室に戻り小さな椅子に座り一息をつく。泊まり込みで働く5人分のベッドと机と椅子を置いたらもう歩くこともできないほどの小さな部屋だ。私はふっと男からメモをもらったことを思い出した。スカートのポケットから取り出し開いてみる。

 ――君を助けてくれる人はここにいる。住所は・・――

そこには簡単な一文と地図が記されていた。大きく丸でくくられた場所があり、おそらくはここに来いということなのだろう。なにかの間違いだ、と私は思った。きっとここで暮らしている姉たちも同じ意見だと思う。みな日々を幸せに暮らしている。何の文句もない。

店の控室に書かれた大きな文字を思い出した。「大事なことは笑顔で客をもてなすこと、そうすれば客も喜ぶし、君たちも幸せになれる」。まさにその通りだ。しかし、私は一人で寝ることができなかった。暗闇が怖かった。誰かに傍にいて欲しかった。でも、誰にも私の思いは届かなかった。


 私はいつものように6時に起床し、23時に就寝する。

妹たちにしっかりと食事をとらせるのは私の役目だった。健康管理を任されているのだ。食事の後、みな忘れずに薬を飲ませるのも私の役目。ここにくる子供たちはみな難病にかかっている。だから毎日なにかしらの薬を服用しなくてはならなかった。

 それに、みながいいつけを守るように監視するのも私の役目だった。外に出てしまっては大変な事になるからだ。私たちは太陽の光に当たることのできない病気だった。「私たちはとても運がいい」と父は言っていた。本来なら高価な薬で手に入らないとのことだった。だが縁のある知り合いが特別に恵んでくれているそうだ。


 就寝する前、私はいつものように姉たちと共用している引き出しから小物入れを取り出して眺めた。縄を編みこんで作られた小さな小物入れだった。いつどこで作ったものであるかはもう思い出すことができない。だが大事なものであることは間違いなかった。ふたを開けると中は一つの仕切りで区切られていてその一方には茶色い草花がしまわれている。水分がなくなり、かろうじて花だったことがわかる。もともとはどんなにきれいな花だっただろうか。私はきまって鼻を近づけて嗅いでみるが何の香りもしなかった。


 蓋を閉めて片づけようとしたところ、おかしな点に気が付いた。箱の縫い目の間に紙切れが挟まっていたのだ。私はそれを注意深く取り出した。小さな紙切れだった。色褪せていてところどころ綻んでいた。紙には小さな文字と地図が書き込まれていた。

 ――君を助けてくれる人はここにいる。住所は・・――

裏にも小さな文字で書き込みされていた。

 ――どんな場所だろうか――

 ――きっと楽しい場所だ――

 ――姉たちと一緒に行ってみたい――

それはとても不思議だった。となりですでに就寝している子たちのことを考えた。そもそも私には姉はいない。私は長女であり、いるのは5人の妹たちだけだ。字はどうやら私がかいたものらしかったが、記憶にはなかった。それから私はインクペンで手のひらに文字を書いた。どのようないみがかるのかは分からない。とにかく毎日書くように言われていた。不思議な形をした記号だった。


 紙切れに書かれている文字は日々増え続けているようだった。昨日までの私が書き足したであろうことをおぼろげながらに覚えている。そして縄の箱にしまわれたいくつかの薬。私は父から渡された薬を服用していないようだった。紙切れに書かれた文字を信じたのかもしれない。

――薬はもう治っている。薬は不要かもしれない――

私は次第に外に出ることさえできるかもしれないと考え始めた。それは一週間ほど前から私の胸の内に浮かんだ疑念だった。そして不思議な夢をみるようになっていた。自然の中で大人の女性と歩いて、遊んで、飛び回っていた。草原を走り、太陽が空をオレンジ色に染める夕方まで遊びまわっていた。そんな夢だ。もしかしたら私の内に秘めた願望かもしれない。紙切れにかかれた書かれた場所がその夢でみた場所なのかもしれない。もしそうであればとても素晴らしい場所だ。地図の周囲にはそれがどのような場所であるのかを空想し、紙の余白を埋め尽くすほどに書き込まれていた。

 私の病気が治っているかもしれない。青い空の下で石畳の上を、街道を、草で敷き詰められた草原を走り回ることができるかもしれない。本当かどうかは分からないが、すくなくとも外に出たいという強い願望に抱くようになっていた。


 ある日、とても身なりの良い男性が来店した。光沢のあるスーツを着こなし、ぴかぴかの革靴を履いていた。価値は分からないがきっと高いものに違いなかった。

 彼は私を呼びつけてメニューを選び始めた。時折私に視線を向けてきた。頭のてっぺんからつま先までゆっくりと順を追って観察しているようだった。まるで目星をつけた凶悪犯人を取り調べるみたいに。それはとても居心地が悪かった。それから彼は私に手のひらをみせるように依頼した。私はすぐに手のひらを見せた。そのような場合素直に見せるようにと言いつけられていた。男はしきりに髪を触りながら、私の顔とその手のひらの文字を交互に何度か確認していた。しばらくして彼はメニューを選ばずに退店した。

 不思議な男だった。定期的に同じようなことをする男が来店したが多くの客は手のひらの記号をみると一様に眉間にしわを寄せた。だがその男はなんの表情もみせなかった。


 次の日、私は転居することが決まった。明日の午後には出発するということだった。また、かなり遠くに転居し、そこで仕事に従事しなくてはならないと父から説明を受けた。私は少し焦っていた。一度行ってみたかった場所に行けなくなるかもしれない。私は以前から胸の内にしまい込んでいた気持ちを抑えきることができなかった。チャンスはもはや明日の明け方から昼までだ。おそらく、少しだけ家を留守にする分には問題ないだろう、そして父も許してくれるだろう。

 だが二つほど気がかりなことがあった。一つ目は本当に私の体調は良くなって外にでることができるのかどうか。もう一つは隣で寝ている妹たちのことだ。私が留守にしてしっかり着替えて仕事の準備をできるだろうか。


翌日の明け方。

 私はまだ闇夜の中でそっと起きて服を着替えた。三週間ほど前にやってきたとなりの子の表情を確認した。しっかりと眠っている。彼女はとても優しい子だった。私は彼女の頭をそっと撫でてあげた。


 私は家をこっそり出る手段を理解していた。

 就寝時はおよそあらゆる家の扉に鍵がかけられているのだが、その一つの部屋にすべての鍵がしまわれている。私はとてもよい子にしていたので、鍵の管理も任されていたのだ。だが外に出たことは一度もない、今回が初めてのことだった。


そして、私は外にでた。

それは恐ろしい事だった。命がけの冒険だった。私は悪い子になってしまっただろうか。あたりはまだ濃い青色で薄暗かった。だが、遠くに見える山のてっぺんは薄いオレンジ色だった。息を吸って空気の匂いを嗅いでみる。とても土臭いビーツのような香りだった。少し歩いて私は足を止め、振り返って家をみた。それはいままで住んでいた家だった、とても小さな家だった。


 一番下の妹とのやりとりを思い出していた。彼女は外にでても大丈夫だと言い張っていた。「忘れていくの、忘れたくないの!」と彼女は叫んだ。その様子から、病気がかなり進行していることは明らかだった。騒いだので他の妹たちに協力してもらい押さえつけた。「だからすぐに薬が必要なの。早く口を開けて!大丈夫、私を信じて」彼女は最終的には私のいうことを聞いてくれた。やがて彼女は薬が効いたのか、おとなしくなった。


 私は紙切れにかかれた地図をみながら街道を進み、野原にでた。

自分の体調に乱れがないかとても気を付けながら歩いた。いまのところ何の問題もなさそうだ。土の上を歩くとザラザラとして歩きにくかった。草むらの上を歩くと、どういうわけかそれは水で濡れていて、足元がとても冷たくなった。


 あたりはいつのまにかとても明るくなり、日差しが山の上に現れていた。そのころには私の足取りはおぼつかなくなっていた。本当にこの地図は正しいのだろうか。私はひときわ大きな木の下で座り、休憩をとることにした。体が熱を帯びていた。頭はぼんやりしていた。

病気のせいかもしれない、父に言われた通り、やはり外にでると私の体は正常に機能しないのかもしれない。足の底がジンジンと痛んでいる。歩きすぎたからだろうか、それとも病気の副作用だろうか。もしかしたら私は死んでしまうかもしれない。ひときわ大きな木の根に頭をのせて横になった。そうすると視界いっぱいに青白い空が広がった。端の方にはオレンジ色に色づいた小さな雲が浮かんでいた。私はゆっくりと目を閉じた。時折吹いてくる風が頬を撫でた。


 うっすらとした意識の中で私は夢を見ていた。年上の男の子4人と、母と散歩にでかける夢だ。私の服は兄たちの使っていたものでつぎはぎが多く、靴もボロボロだった。

 母?

いや確かに間違いなくそれは母親だった。あたりは一面畑になっていて、なにかしらの植物が植わって、まだ青々とした実をつけていた。私はすぐにそれが秋になると赤色にかわり、あまくておいしい果実にかわることが分かった。場面が切り替わり、今度は母が草を編んで小さな箱を作ってくれていた。そして青い花で押し花をつくって、その箱に入れてくれた。私はとても喜んだ。宝石だと思った。宝石はきっとこのように美しいに違いないと思った。


 淡い夢の中で私に話しかける声が耳の奥で響いていた。目を覚ますと、青色の目をした男が私を見つめていた、そして微笑んで言った。「大丈夫かい。急に体を動かしすぎたんだ。でもよくやった、本当に」

 彼は私と、私の腕を交互に確認しながら言った。そして手のひらの記号をみつけて何度かしきりに頷いていた。どうやら私はまだ死んでいないらしかった。男は続けて言った。「君は誘拐されていたんだ。すぐに親元に届けることができる。もう安心していい」


 私はほとんど分かっていたのだ。でも妹たちを連れてくることはしなかった。気が付いていたはずなのに、本当は病気なんかじゃないってことに。暗闇の中で私といっしょにいてくれた妹たちのことを思った。今頃どうしているだろうか。私はふたたび目をゆっくりと閉じた。


 はるか遠くの昔の日、私は母に連れられて街に出かけた。とても楽しかった。母がつくってくれた小さな箱をポケットにいれて、どこかの店で食事をした。とんでもなくおいしい料理がでてきた。細長い弾力のある藁のようなものは、白くてとろりと甘いスープに満たされていた。私は夢中で食べた。でも顔を上げると母は手を止め、とても悲しい顔をして私を見ていた。

不思議に思った。もしかしたら母の口には合わなかったのかもしれない。


おわり


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