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第5話 そして虚言は嗤う

「先日は送っていただいてありがとうございました」


「どういたしまして」


 和食レストラン佐倉で待っていると、大原さんが姿を見せました。


 剣道部のイベントに関するタスクスケジュールはすでに有志の方から後援会に提出されており、私や大原さんがすることなど何もありません。


 あとは、有志達がすべてを取り仕切ってくれることでしょう。例年どおり、万事つつがなく。


 素人がでしゃばる余地など最初からなかったのです。


 本来なら、そのことを告げて大原さんに謝罪し、この打ち合わせを中止すべきだったのでしょう。


 ですが、私にはそうすることがどうしてもできませんでした。


 せっかくやる気になった大原さんに自身の価値を確かめる機会を与えたかった。自信を持ってもらいたかった。その成功体験を人生の糧にしてもらいたかった。社会でそれなりに仕事をしている人間とあなたは何一つ変わらないと心の底から信じてほしかった。


 色んな言い訳が頭をよぎります。


 それらは本当のことではあるけれど、偽りのきれい事でもあるのです。それは私が一番よく知っています。なぜなら。


 大原さんにもう一度会いたかったから。


 それだけが今の私の望みでした。たとえ、大原さんに家庭があろうとも。私に妻がいようとも。


 ❑❑❑❑


 佐倉で食事をした後、柿崎さんがテーブルの上に書類を広げて、わたしが確認する内容を指示します。


 参加生徒の名簿、会場での座席の割当て、必要な弁当の数の予約、往復のバスの予約、集合時刻と場所の確認、解散予定時刻、予算の集計表等の山と積まれた書類とチェック項目に目が回りそうです。


 けれど、柿崎さんはこれらを一人で作成したのですから、わたしにできないなんてことは言えません。


 しかも、仕事は参加生徒の名簿を見ながら見落としがないか、数字があっているかを確認することだけです。柿崎さんが作成した書類に間違いがなければ、後援会の幹事長に報告して終わりです。


 ここまで終わっているのなら、私のすることなどないに等しいと思うのですが、それでも柿崎さんは確認の重要性を説いてきます。


 間違いは必ず起きるものだから、それに対応できる体制を組む必要があると。ぎりぎりの数字で臨むのではなく、ある程度余裕を持たせることで、間違いに対応したいと。参加した生徒達が、試合以外のことで不満を持つようなことがあってはならないと。


 その言葉に、わたしは買ったばかりのメモ帳にレストランのテーブルに備え付けられた注文用の鉛筆で注意事項を書き留めていきます。


「対抗戦はゴールデンウィークが終わった次の土曜日ですから、今週中には幹事長に報告して予約をお願いしなければなりません。大丈夫ですか?」


「見たところ、計算だけのようですから、今日にでもやっちゃいます」


「心強いですね。じゃあ、チェックが終わったら電話をください。電話番号は……」


 赤外線通信を使えば楽なのに、と思いながらスマホに告げられた番号を登録します。いえ、もしかしたら、わたしが誤って家族のデータを送信しないよう配慮してくれたのかもしれません。


「大原さんはきちんとメモを取ることができるんですね。この4月に入庁した若い職員にはそういうこともできないのが多くて」


「メモは社会人の常識ですから」


「その当たり前が自然にできているから素晴らしいんですよ」


 素晴らしいと言われて顔がほころぶのが自分でもわかります。こんな言葉をかけられたことはここ十数年ありません。


 結婚してからは一度も!


 なぜでしょう。褒められたというのに、どす黒い感情が胸の奥から湧いてきます。


 平常心、平常心と、自分を落ち着かせて「お上手ですね」と返します。


「お世辞ではありませんよ」と柿崎さんは言いますが、わたしはまだ自分の仕事をしていません。ここはお世辞と受け止めておくべきですね。


「本当は、先週の歓迎会に出てうんざりしてたんです。今日だって、子供のことじゃなければお断りしようかなって。でも柿崎さんの連絡先も知らないし、家まで送っていただいたお礼も言いたかったし……」


「そうですね。あの歓迎会はひどかった」


「毎月やってるみたいですけど、やめられないのかしら」


 あんな最低のくそオヤジとお酒なんて無理! セクハラで出禁にする法律とかないの? 政治家は何やってるの?


「私もそう思いますが、中止は無理でしょうね」


「おかしいわよ。子供達のための後援会じゃないの?」


「新参者が何を言っても……」


 柿崎さんは後援会の改革には消極的です。問題を表面化させずにやり過ごそうとしているのがみえみえです。


 これだから公務員はっ!


 とにかく、わたしはあのくそオヤジが出る宴会には二度と出たくありません。宴会を中止にできないのなら、あのくそオヤジ、死なねーかな。


 死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。


「大原さん?」


 わたしがぶつぶつ言っているのを柿崎さんが聞きとがめます。


「わたし、何か言ってました?」


「いいえ、よく聞こえませんでした」


 ……絶対、聞かれた。柿崎さんの態度でわかります。


「大原さん、疲れているみたいですね。どうですか? 美術館とか。落ち着きますよ。ちょうど余った招待券があるんです。よかったらゴールデンウィークにご家族でどうぞ」


「あら、いいのかしら」


「どうぞ、どうぞ。4枚でいいですか?」


 4枚と言われて夫のことが頭をよぎりました。


 ……あの人は多分行かないわよねぇ。子供達も関心ないだろうし。本当はわたしも興味ないんだけど……断るのもねぇ。


「……ありがとうございます。じゃあ、1枚だけ」


「ご家族で行かれないんですか?」


「わたしが一人で行きます。ほらっ、芸術って、一人静かに触れるというか、浸るもんじゃない?」


 ふふん。品のいいところを見せちゃったりして。……多分、行かないけどね。


「そうですか。じゃ、車で迎えに行きますよ」


 あれぇ。そんなつもりじゃないのに。


「柿崎さんはお仕事でしょう? お構いなく。金曜日にでも行ってみますから」


 わたしは招待券をバッグに大切にしまいこみながら、晴れたら行ってみてもいいかなと、天気とその日の気分にすべてを丸投げすることして、にっこりと微笑みました。


 ❑❑❑❑


 佐倉で打合せをした翌日、大原さんから『問題ありません』という電話がありました。


 当たり前です。有志が、毎年作成しているペーパーを日付と参加人数だけを書き直して後援会に提出した計画表です。私も一応確認しましたが、申し分のない出来栄えでした。


 これで私の嘘も取り繕えたし、大原さんにも気分よく仕事をしてもらえました。めでたし。めでたし。のはずだったのですが。


『あとは、7月の県大会と夏休み中の監督当番の予定表だけですね。この調子で頑張りましょうね』と打合せを続行する言葉が大原さんから告げられました。


 いまさら、あれは嘘でしたなんてこと、言えるわけがありません。


 大原さんにいいところだけを見せて、この、ほのかな好意を封じ込めるつもりでいましたが、どうもそうはできそうにありません。


 私の浮き立つ心が、もう少し、もう少しと、終りを先延ばしにしようとするのです。


 ですが、大原さんには家庭があります。


 それでも、会ってくれるのなら、迷惑がかからないように。


「次の打ち合わせは再来週の5月8日でいかがですか」と予定を確認します。


『来週の火曜日はゴールデンウィーク中でしたね。お子さんと旅行でも?』


「まぁ、そんなところです」


『わたしの予定は空いてます。大丈夫ですよ』


 その屈託のない声に罪悪感を感じます。


 それを昼食をご馳走することで帳消しにしようと、「お寿司は嫌いですか?」と誘いました。


『えっ? でも』


「もしお嫌いでないのなら、馴染みの寿司屋にご案内したいのですが」


『お寿司は好きです。でも、あまりお金がかかるところは……』


「大原さんが頑張って確認してくれたおかげで、スケジュールを前倒しにできます。ですから、お礼のつもりで、ぜひご馳走させてください」


『そのお金でお子さんにご馳走されてはいかがですか。わたしとしては……』


「実は、6月の春の県大会の準備をやってほしいと、担当の役員の方からお願いされたんです。まだ、時間に余裕はありますが、どうか、助けてくれませんか?」


『確認するだけでいいのなら……』


「ありがとうございます。じゃあ、5月8日、火曜日のお昼、華寿司で」と言って電話を切りました。『あっ、わたし、まだ……』という大原さんの言葉は聞こえなかったことにして。


 ❑❑❑❑


 今日は夫が赴任先の東京から戻ってくる日です。夜遅くに。


明日から9日間の連休を取っていると言っていましたが、特に予定を立てているわけではありません。


 仕事もそうだけど、買物、料理、掃除、洗濯の日常生活をこなすのは大変なんだなと、君の苦労がよくわかったよと言いながらも、休暇中はゆっくり休みたいと夫が言ったからです。


 まったく、あなたは休暇でも、その分、わたしは子供達に加えてあなたの世話で休暇どころじゃないっての。


 せめてあなたが帰ってくる前に羽根を伸ばしたっていいでしょ。


 それに、どうせ子供達が寝静まったら求めてくるつもりでしょ。


 まったく、こっちは疲れてそれどころじゃないっていうのに!


 そんな言い訳で、夫への後ろめたさなどぽいっとごみ箱に放り込んで外に出ます。


 手につかんだのは招待券。


 柿崎さんからもらった美術館の。いいえ、つかの間の自由へのチケット。


 ❑❑❑❑


 だったはずなのに。


 ……なんでわたしはこんなところにいるのかしら?


 意味不明な絵の前で混乱しています。


 前衛なのよね。たぶん。有名な画家なのかしらね。聞いたことのない名前だけど。ていうか、画家の名前はほとんど知らないのよね。


 ……でも、これはない。息子が小学校で賞をもらった絵の方がずっといいわ。


 つまんないな。こんなとこ、来るんじゃなかった。……時間を無駄にしたかも。


 コーヒーでも飲んで帰ろっと。


「大原さん」


「あら、柿崎さん」


 そう言えば、今日来るって言っちゃったのよね。もしかして、柿崎さんてストーカー気質なのかしら。


 おっと、スマイル、スマイルっと。招待券をもらっちゃったことだしね。


「お目が高いですね。この絵、素晴らしいでしょう?」


 はぁ?


「坂田一男画伯の作品で、この美術館の代表展示物なんですよ!」


 ……そうなんだ。意味不明とか、ごめんなさい。でも、柿崎さん、興奮しすぎ。


 柿崎さんが怪訝そうな顔でわたしを見ています。


 ……やばっ。変な絵だって思ってたのばれた? わたし、そんなわかりやすい顔してた?


 柿崎さんは「こほん」と咳払いすると、この絵について説明を始めました。


 語っている言葉は確かに日本語なのに、何を言ってるのか、ゼンゼンワカリマセン。


「……坂田画伯はまだ無名ですが、先日の県主催の芸術祭で大賞を受賞された若手のホープなんですよ」


 ……芸術祭? それって有名なの? 初めて聞くけど。


「いやぁ、受賞前に美術館で画伯の絵を買っておいてよかった! 今となっては入手困難ですからね」


「受賞したはこの絵じゃなかったんですね」


「そうですね。この絵は、3年前、まだ画伯が中学1年生だったころに描かれた絵です。画伯のお父様がたまたま県知事だったので安く譲っていただいたんです」


 違うでしょ。それ、絶対! 県知事の息子だから大賞にしたんじゃないのっ?


そもそも、3年前に中学1年生っていったら、まだ高校1年生じゃない。そんな子供の絵を税金を使って買ったの?


 いつの間にか柿崎さんを蔑んだ目で見ているわたしがいました。


 そんなわたしに、柿崎さんはへらっと笑って。


「……ってことになってるんですけどね。本当は……ここだけの話ですよ。他の人には言わないでくださいね。実は、話題作りのためなんです」


 なにか怪しげな話になってきました。


 まるで、底しれない暗部に踏み込んでしまったような。


 そんなわたしの戸惑いに気づいていないのか、柿崎さんは小声で話を続けます。


「知事の息子さん、結構なイケメンなんですよ。今回、大賞を受賞したことでイケメン天才画家が現れたと雑誌に取り上げてもらいました。息子さんに絵の才能があるかないかなんて関係ありません。必要なのは話題性。彼の写真で注目を集めれば、この美術館にお客さんが集まります」


「そんなことをして意味があるんですか?」


「この美術館の来場者は年々減少しています。そもそも美術館の運営には年間数億円がかかります。施設維持費や人件費だけでね。それなのに入館料収入は物品販売を含めても一千万円にすら届かない。県の税収も減っている。県からの指定管理料に収入の多くを依存している美術館としては、統計データでその存在意義を示すしかないんです。


 イケメン効果で入館料の収益が増え、財政が黒字化するなんてことはありえませんが、一定の入場者がいれば、地域への貢献、教育の啓蒙、保有資産の未来への承継が行われたといえます。


 美術館という事業に税金を投入した価値があることを証明できるんです。経済的な意味を超えた文化事業としてね」


「でも、そのためにイケメン天才画伯として持ち上げるなんて、なんだか世間を騙してるみたい……」


「経費節減のため、この美術館も相応の努力をしています。人件費の削減、企画の縮小や見直し。でも、人の手が行き届かない施設、面白みのない企画、そんなもののどこに人を呼び込める要素があるでしょうか。人の来ない美術館に何の価値があるでしょうか。仮に年間数十人しか来館者がいないとすれば、県民が求めていないということです。やがては県の財政改革、コスト削減の波に飲み込まれ、閉館もやむなしという声一色に染まることでしょう。経済が上向けば再開すればいいとか言ってね。


 でもね。経済を理由に文化事業を閉ざしたら、二度と再開することなんかありませんよ。閉館はこの県が文化的な価値は経済的な価値に劣ると認めたことを意味しています。


 そんな、美術館に価値がないと断じた県の小中高の学校で美術の授業をしても説得力はありません。だから、私達はなりふり構わず持てる材料で勝負をかけたんです」


「入場者を増やしたいことはわかりました。けれど、何かが違うと思います」


「私達にはもうあとがないんです。わかりますよね?」


 思わぬところで県政の闇に触れてしまいました。柿崎さんが近づいてきます。一歩、また一歩と。


 まさか、秘密を知ったわたしを? わたしは後ずさります。


 怖い。柿崎さんが怖い。


「わたし、誰にも言いませんからっ! だから……」


 殺さないで。


「言ってもいいんですよ。大丈夫。ばれたらばれたで注目を集めますからね」


 柿崎さんがへらっと笑いました。


「いいんですか?」


「いいんです。知事も息子さんも覚悟の上の起死回生の策なんです。言ったでしょう。なりふり構っていられないって。さて、喫茶室でコーヒーでも飲みませんか。もうすぐ閉館の時間です。帰りは車で送っていきますよ」


 ❑❑❑❑


 その夜、わたしは知ってしまった県政の秘密に悩んでいました。誰かに喋ってしまいたい。けれど一大スキャンダルです。言うべきか。黙っておくべきか。


 夫に相談することにしました。こんなときくらい役に立ってもらわなくっちゃね。


「あのね。坂田一男って画家、知ってる?」


「ああ、知ってるよ。有名な画家だろ? 今、県の美術館で展覧会をやってるね」


「わたし、大変な秘密を知っちゃったの。その坂田一男はまだ高校生なんだけど、実は……」


「何言ってるんだ? 君は。坂田一男はもう死んでるぞ」


「えっ?」


 まさか、口封じ?


「亡くなったのは50年以上前。美術の教科書にも載ってるらしいぞ。日本における抽象画の先駆者だってね。まあ、俺も駅で広告見て知ったんだけど」


 柿崎さんのへらっと笑った顔が目に浮かびました。


 わたし、柿崎さんに騙された? 許せないっ! 人をバカにしてっ!


「休みの間、特に予定も立てていないし。興味があるなら美術館にでも行ってみようか? 明日とか」


「えっ? なんで? なんで、そんなものに興味があると思ったの? このわたしがっ?」


 高ぶる感情に任せて夫に怒りをぶつけてしまいました。


 夫が驚いたように見ていますが、怒りのわけを説明するのはなぜかはばかられました。


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