第4話 そして虹色は香る
夜道の女性一人歩きは危ないと、柿崎さんが送ってくれることになりました。
お酒のせいで、ほどよく緊張感がほぐれて口もなめらかになります。
愚痴だってこぼしちゃいます。夫とは別居中で、子供のことを相談しようにもなかなか思うようにはいかないとか。
ふと、夫からの着信が気になりました。単身赴任を始めたときから、毎晩9時には電話をかけてくれているのです。
ハンドバッグの中のスマホには、その着信履歴が残っているに違いありません。
コールバックをしようとして思いとどまります。柿崎さんが送ってくれているのです。目の前で電話するなんて、柿崎さんに失礼よね。夫だって不審に思うだろうし。
そもそもこんな夜中までお酒を飲んでましたなんてこと言えるわけがないじゃない。
家に帰ったら、メイクを落として、お風呂に入って、乳液でお肌の手入れをして……子供達が寝ているのを見てから。それから言い訳を考えて……いやだぁぁ、一体なんて言ったらいいのぉ? 宴会で寝ちゃったなんて恥ずかしくて知られたくないよぉ。
うん、そうだ。
今夜は早く帰って寝ちゃったことにしよう。今日、わたしは8時半には家に帰ってた。慣れない連絡会で疲れていたからすぐに眠っちゃった。もちろんベッドでね。
だからあなたの電話に気づかなかったの。ごめんなさい。
なんて、だめかなぁ。
うっ、と口を押さえます。突然気持ちが悪くなってきました。
うげっ。吐きそう。どこか、トイレ!
ハンカチで口を覆いながら柿崎さんの袖をつかみます。
柿崎さんがわたしのピンチに気づいてくれました。
「大丈夫ですか、大原さんっ! 私の家が近くですが、寄りましょうか」
えええぇっ! 深夜、男の人の家になんてっ!
慌てて首を横に振ります。
だめっ! それこそ夫に言い訳できなくなるっ!
「じゃあ、そこの溝で」
……柿崎さんの家に寄ることにしました。
❏❏❏❏
トイレに駆け込んで、げろげろともどしました。大きな波が二度、三度と襲った後、しゃがみこんで水の流れる音を聞きながら体を休めます。
そのうちに胃が落ち着いてきて、まわりを見る余裕が出てきました。
いやだぁ! わたし、こんな汚れた便器に顔を突っ込んでいたの?
情けなくて涙が出てきます。
慌てて便器に触れた手を洗っていると、床に落ちた髪の毛が隅に溜まっているのが目につきました。
わたしの主婦魂に火がつきました。
トイレを貸していただいたお礼に掃除をすることにします。洗剤を便器に垂らし、ブラシで磨きますが、黄色いしみがどうしても落ちません。
トイレの掃除くらい毎日しなよぉ。
いくら父子家庭でも汚すにも限度っていうものがあるでしょう。陶器の汚れ落としとか置いてないの? どうやって掃除してるの? それに防水手袋も研磨剤もないなんて。
……もう無理! 今日はここまで!
「大原さん、大丈夫ですか」
ドアの向こうから心配そうな声がします。
……わたし、一体何をしてるの?
やっと酔いが醒めてきました。
「ごめんなさい。トイレを汚しちゃったから。でももう大丈夫です」
「口をゆすいだほうが……」
柿崎さんから渡されたコップから水を口に含み、ゆすいで洗面所に流します。
鏡を見てもう一度。
最後に飲みほして、のどの違和感を洗い流します。
……うげっ。ここも汚れてる。
洗面所は歯磨き、洗顔をするところなんだから、面倒でも毎日きれいにしなくちゃだめじゃない。
鏡を磨くのもそう。1日1分でできることなのに。
あちらこちらに汚れを見つけながら、壁に手をついて、ふらふらする体で玄関に向かいます。
「あとは自分で帰れます。ありがとうございました」
「だめですよ。ちゃんと家まで送っていきますから」
「でも……」
「途中で気分が悪くなるかもしれませんし」
柿崎さんは手にビニール袋を何枚もつかんでいます。その言葉に甘えて家まで送ってもらうことにしました。
体がふらついてまっすぐ歩くことができません。柿崎さんに寄りかかってしまいます。反対側にふらつくと、わたしの腕を柿崎さんがしっかりつかんで支えてくれます。
その安心感が乙女心をくすぐります。
目を閉じて歩いてもけしてぶつからな……ぐぅ。
危ない、危ない。あやうく眠ってしまうところでした。
けれど、わたしの歩みに合わせてゆっくりとエスコートをする頼もしさに、もうしばらくこのままでいいかなと思ってしまいます。
そうして、もたれかかりながら歩いていると、突然足が止まりました。
「大原さんの家はこちらでいいんですよね?」
重いまぶたをあけると、確かにわが家です。玄関の灯りに加えて、娘の部屋の大きな掃き出し窓からも煌々(こうこう)と明かりが照らされています。
カーテンも閉めないで不用心だなぁ。うちの娘の防犯意識はどうなってるの?
わたしが娘を心配して防犯教育の強化を考えている間に、柿崎さんが何事かを言って帰っていきました。
何? なんて言ったの?
去っていく柿崎さんに声をかけることもできず、わたしはほうけたようにその後ろ姿を見送ります。
やがて、角を曲がって見えなくなると、玄関の前にいることを思い出して、わたしはドアを開けました。
上り口に、腰に手をあて、ふんぞり返った娘のいずみがいました。
遅くなったことをとがめているのでしょうか。それとも、柿崎さんのことを誤解でもしているのでしょうか。
わたしを見て顔をしかめています。
気まずい空気が流れ、わたしは弁明の言葉を告げようと口をあけました。
「臭いっ!」
いずみは、それだけ叫ぶと鼻をつまんで自分の部屋に引っ込んでバタンとドアを叩きつけるように閉めました。
わたしは自分の服のにおいをくんくんと嗅いで反論します。
「そんなことないわよっ!」
「吐いたでしょ!ゲロの臭いがするっ!」
ドアの向こうからの、思いあたる反撃にわたしの乙女心は粉々に砕かれてしまいました。
❑❑❑❑
時刻も午前零時まであと30分。
誰もが家に帰ってお風呂に入り、明日のための鋭気を養い、就寝につく、そんな時間なのに、私はまだ居酒屋にいます。明日も仕事があるというのに。
「そろそろお開きにしましょう。酔いつぶれている人もいます。誰か責任をもって送っていってあげてくださいね」
「まぁだ、早いよぉ。いっつもは、10時ぃまではやってるぞぉ」
「10時はとっくに過ぎてますよ」
「まぁ、まぁ、柿崎さんはぁ、初めてぇ、なんだしぃ。まだぁよくわかっとらんだむぅ、いんだよぉ。今夜はぁ、柿崎さんのぉ、顔を立ててぇ、解散、しょうやあ!」
お前ら、それは寝言か? 文句があるならせめて目をあけて言え。
こんな酔っ払いの戯言など相手にしてもしかたありません。
「皆さんが急性アルコール中毒にならないか心配なんです。それが原因でお店に迷惑をかけたらもう親睦会も開けませんからね。来月もあるんでしょ」
「俺はぁ、でぇじょーぶぅだがぁ! 確かにぃ、酔いつぶれぇてるぅ奴もいるなぁ。しょうがねぇなぁ。うぃっ、帰るぞぉ。でもぉ、次からはぁ、せめてぇ、10時まではぁ、やってぇ、ほしいねぇ」
「わかりました。じゃ、皆さん、いいですね」
そう言って立ちあがったところへ、店主が顔をのぞかせて、「大変だねぇ」と声をかけてきました。
「残ってるのは、いつもの連中だろ? 大丈夫。こっちでやっておくから」
「いつもこうなんですか?」
「うちで文句言える筋合いじゃないからね。毎月使ってくれるのは正直ありがたいし。でも、連中のことは名前から電話番号、家の場所、家族のことまでよく知ってるから任せてくれていいよ。最悪、家族に迎えに来させるから。これに懲りずに、また、うちを使ってよ」
私もこの町で生まれ育ち、東京で過ごした6年間以外は、ずっとこの街で生きてきたのに、こんなに親身になってくれる知り合いなどほとんどいません。
駄目な人と切り捨てた奴らですが、いいところもあるのでしょう。そして、兄の名前を騙っているのに、ばれる気配すらないことに寂しさを感じます。
座り込んでいる大原さんに声をかけます。
「もうお開きの時間ですよ。お疲れさまでした。家まで送りますから帰りましょう」
「でもぉ……」
とろんとした上目がちに向けられた瞳、優しい顔立ちとかわいらしい仕草が保護欲をかきたてます。
見下ろした先、首元の隙間から見え隠れする谷間と豊満な胸が包容力を感じさせます。
今日が初対面でしたが、心根の優しい人だと思いました。
脇を抱えて「よいしょ」と助け起こし、バッグを手渡して、まわりを見回して忘れ物がないか確認していると、上半身だけ起きた酔っ払いが「柿崎さぁん、お持ち帰りは……駄目だよぉ」と声をかけてきました。
「違いますよ。こんな夜中まで引っ張り回したんですから、責任持って家まで送り届けなくちゃいけないでしょう」
「そっかぁ。そぉだねぇ。でもぉ、送り狼になるんじゃあ、ないのぉ」
「お家でも心配してるはずです。大丈夫です。ちゃんとお送りしますよ。剣道部に迷惑をかけることはしませんから」
「……剣道部?」
えっ? 剣道部後援会の有志の人だよね? まさか、違う人が紛れ込んでたの?
「うん、いいねぇ。姫を守る護国の武将。馬廻組の柿崎なにがし。ここに見参。遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ……」
突然わけのわからないことを言うと、バタンと倒れて寝てしまいました。有志だろうが、違っていようがもうどうでもよくなりました。皆さん、おやすみなさい。
私は大原さんを抱き抱えて居酒屋を出ます。後のことは店主が上手くやってくれるでしょう。
もう12時をまわって明日です。いや、もう今日です。なんか変だな。明日なんて絶対に来ない概念なのに。
うん、私も酔っているのでしょう。それでも自分の責務はわかっています。大原さんに自宅の場所を聞きます。けれど。
「あっち」、「こっち」、「そこ曲がってぇ」と住所を教えてくれません。
本当に大丈夫かな。道を間違えてないかな。
でも、大原さんからすれば、自宅の場所を知られることに抵抗があるのかもしれません。当たり前の話です。
ただ、今は事情が事情です。
知られても仕方ないと諦めてもらうしかありません。たどり着いたら結局住所を知られるわけですから。
そのくせ、私が下心から送り狼にならないよう、家族との良好な関係を強調して、踏み込んではいけない領域と、防衛線を張ってきます。
子供は中学1年生と3年生の二人。ご主人とは別居中。お金さえ送ってくればいいと思っているとか、たまに帰ってくるとしつこいくらいに何度も体を求めてくるとか、体中に付けられたキスマークをファンデーションで隠すのが大変だとか。
際どい暴露話を遮るために、私も自分のことを話します。もちろん嘘だらけのプロフィールを。
まずは嘘の名前。
頼まれたとはいえ、兄の名前を騙っています。それから、成り行きとはいえ、自己紹介で言ってしまったバツいち。
ごめん、義姉さん、と5歳も年下とは思えない貫禄をお持ちの柿崎課長補佐に心の中で土下座をします。……勝手に離婚したことにしちゃって。ばれたら次の人事で仕返しされるかもなぁ。
最後に子供がいるというのも嘘。本当は甥なんです。
酔っ払って大原さんが何か言っています。片親がいない家庭同士、助け合いましょうとか。
そうですね。大原さん。助け合いは大切です。
ただ、あなたが私を助けることはないと思いますよ。私に子供はいないし。
それとも、あなたは寝たきりの妻のために何かできるとでも?
気持ちよく個人情報を吐き出していた大原さんでしたが、突然静かになると、立ち止まってハンカチで口を押さえました。
私の袖をつかんで、気持ちが悪いと訴えてきます。こんなところで、といらだちながらも「大丈夫ですか」と声をかけます。
すぐ横に適当な側溝も見えますが、相手は女性です。一応、「私の家が近くですが、寄りましょうか」と社交辞令を口にします。
本当は妻が不在の家に女性を招き入れるなんてしたくはありません。
ましてや、掃除も行き届いていない部屋を見せるなど、妻が知ったなら、ひどく悲しむことでしょう。
一度は首を強く横に振って私の申し出を辞退してくれた大原さんでしたが、「じゃあ、そこの溝で」と促すと、目に涙を浮かべて再考を求めてきました。
しかたなく、私の家に案内します。
いつ買ったのかすら覚えていませんが、中古の一軒家を購入したときの妻の喜んだ顔だけは今でもはっきり思い出すことができます。
緊急事態とはいえ、女性を家に上げたことを妻はなんと思うでしょうか。
いいえ、妻ならば、困っている人を助けてあげてよかったねと、心の底から喜んで笑うことでしょう。
妻のそういうところを私は好きになったのですから。
でも、自分の知らないうちに見知らぬ女性が家に入ったことに、心のどこかにとげが刺さったような痛みも感じると思うのです。
それは理屈抜きの不快感。
割り切ることのできない不信感。
それらはいつしか乱れた心の底に溜まる澱となって、私達夫婦の関係に暗い陰を落とすことになるでしょう。口でなんと言い繕おうと、妻への不義理、裏切りという罪悪感は拭えないのです。
けれど、そんな愛おしい妻を裏切る私の胸の内を知らない大原さんは、案内したトイレに閉じこもって、大きな音で吐しゃ物を吐き出しています。
あんなに酒を飲むからだと、冷めた目で閉ざされたドアを睨みつけてしまいます。
トイレが他人に汚される嫌悪感に耐えきれず、その場を離れて、口をゆすぐための水を用意します。
トイレから少し離れてコップを持って待っていると、先程の居酒屋の店主の客に向けた暖かい視線を思い出しました。
人として劣ると思った有志の連中でしたが、もしかしたら私は彼らよりも劣っているところがあるのかもしれません。
それは到底直視することのできない恐ろしい現実でした。
脇見も振らず一生懸命勉強して、こんな田舎からでは進学する者のいない東京の有名大学に現役で合格し、大学院修了後は4名しか合格しなかった県庁のⅠ種採用試験で採用されて里帰りしたのに、いまだに係長にすらなれない私に欠けているものがあるとすれば、彼らが持つ何かなのかもしれないのです。
3名の同期は皆、霞が関の省庁に出向しており、帰ってきたら参事官とか審査官といった局長目前のポストに就くことは間違いありません。その内の一人は十年以内に副知事になるのでしょう。
出世争いなど興味がないふりをして過ごしてきましたが、Ⅰ種採用は定年までに局長になることが約束されているのにあの人は、という陰口に耳をふさぐ日もありました。
耐え難い屈辱が胸の中で嵐になって吹き荒れることも。
気がつくと、トイレの中から聞こえていた嗚咽が静かになっていました。
……まさか、寝てしまったんじゃないだろうな。
ふざけた話だと内心憤慨しながら「大原さん、大丈夫ですか」と声をかけます。
「……ごめんなさい。……トイレを、汚し、ちゃった、から。……でも、もう、大丈夫、です」
とぎれとぎれの弱々しい言葉は、強がりにしか聞こえません。私はドアが開くのを待って「口をゆすいだほうが……」と、コップを渡しました。
状況を整理して、気持ちを切り替えます。今、大切なことは大原さんを無事に家まで送り届けること。
「あとは自分で帰れます」と遠慮する大原さんを、「家まで送りますから。途中で気分が悪くなるかもしれませんし」と、ビニール袋を見せて安心させます。
教えてもらった住所に向かって大原さんをエスコートします。
おぼつかない足取りを支える私に体を寄せて絡ませた腕、安心しきったように私の肩に頭を預けた確かな重さ、服の上からでもはっきりわかる柔らかな感触、そんな彼女を今、送り届けることができるのは私しかいないという使命感がいつの間にか私自身の心の支えになっていました。
やがて、私達が歩く暗い夜道を、白色の明かりで燦然と輝かせて照らす家が見えてきました。
あれが大原さんの家なのでしょう。
なんの根拠もなくそう確信して、安心すると同時に、いつまでもこうしていたかったという心残りで切なくなります。
足を止め、「大原さんの家はこちらでいいんですよね?」と耳元でささやくと、顔を上げてぱぁっと明るくなりました。
その嬉しそうな顔に嫉妬心が芽生え、思わず言ってしまいました。
「来週の火曜日のお昼、和食レストランの佐倉で。忘れないでくださいね。待ってますから」
剣道部の準備は有志がすべて仕切ってくれると、そのことを知っているはずなのに。