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第3話 そして狂宴は沈む

「新役員の柿崎冬彦です!」


 その雷鳴にも似た言霊の発現によってわたし達は救われました。


 歓迎会が始まり、お酒もまわってきた頃、見たことのないハゲとメガネが席を離れ、膝を崩したまま、わたし達役員の席にずりずりと這い寄ってきていました。


 並んだ5名の女性役員の前に陣取り、お酒を勧めてきます。


 下心を隠そうともしない好色な笑み、わたし達を品定めする細めた目、妄想で女体を舐め回している半開きの口、すきを狙って触ろうとする手の動きにおぞけ立ちます。


 名前すら知らないハゲとメガネにレイプされる悪夢に動揺したのか、隣の女性が箸を取り落としました。


 あわてて拾う女性の手にワンテンポ遅れてハゲの手が重なり、ひっ、と声をあげます。


 かわいそうに、歯ががたがたとふるえて身を縮め、少しでも距離を取ろうと必死です。


 けれど、それはわたし達他の4人も同じこと。ここにいる野獣どもに襲われても逃げ場などありません。


 野獣の腕、いえ、魔獣の触手が伸びてそろりそろりと獲物めがけて近づいてきます。


 その軟体動物のような薄気味悪い触手に肌が蹂躪される予感に鼓動が速まり、息苦しくなったそのときでした。


「有志の皆さん!!」


 大声が座敷に響き渡り、いかづちに撃たれたかのように触手が引っ込んだのです。


「お世話になります! 新役員の柿崎冬彦です。歓迎会ということでしたが、自己紹介がまだだったので、ここでご挨拶させていただきます!」


 言霊ことだまの発現がもたらす衝撃に、魔獣の触手は侵食を諦め、やがて去っていきました。


「公務員で、学芸関係の仕事をしています。県立美術館の催し物には顔がきくので、お申し出いただければ招待券を用意します。よろしくお願いします」


 今まで怯えきっていた女性達もここぞとばかりに立ち上がって自己紹介をし、次の人が自己紹介をしている間にそそくさと席を離れていきます。


 そしてわたしの番になりました。


「新役員の大原里美です。専業主婦です。よろしくお願いします」


 前の4人と全く同じフレーズで挨拶をし、そのまま出ようとしたのですが、「みじかいよぉ」と終わりを阻む声に、わたしの動きは封じられてしまいました。


 皆と同じことを言ったのに、わたしだけがなんで? と頭が真っ白になります。


 助けを求めてまわりを見渡しても、すでに女性はわたし一人だけ。前に挨拶した4人は、次の女性が挨拶をしている間にさっさと居酒屋を後にしたに違いありません。


 孤立無援の中、顔が引きつります。


「大原さんのことをもっと教えてよ」


「子供は? 子供は何人いるの?」


「いくつですかぁ?」


「女性に年齢を聞くのは失礼だぞ」


「いや、バストサイズ」


「もっと失礼だ」


 堰を切ったように野次が飛んできました。バストサイズ発言で胸に視線が集中しました。思わず両手で胸を隠すと下卑た笑い声が巻き起こってわたしをおとしめます。


 羞恥心で顔が赤くなる中、目についたのはビール瓶。中身はまだ残っていますが、振り回せないことはないでしょう。


 1本目をハゲに、もう1本をメガネに投げつけ、残りの1本を振り回して奴らの中に飛び込むつもりで手を伸ばそうとしたとき。


「皆さんっ!」


 そう言って柿崎さんが立ち上がりました。


「バツイチ、独身の私に、今のは耳に毒ですねぇ」と皆の注意を集めます。


「息子が中学生で思春期だから再婚も難しくて。でも、二十歳はたちになるのを待っていたら五十になっちゃう。公務員やってるから変なところで遊ぶこともできないし。なかなか始末に困ってるんですよ。あっ、もう一人のムスコのことなんですけどね」


 会場がどっと湧きました。


 ハゲの一人が柿崎さんにビールを注いで「柿崎さん、あんたはいい」とかわけのわからないことを言って握手を求めています。


「おたくはどうよ」

「うちはもう歳だから」

「若いコならいけるんじゃないか」

「いやぁ、若いコとは話が合わなくて」

「この間行った店のコは、年寄りにも気を使ってくれてね」


 下ネタで盛り上がっています。どうやらわたしは貞操の危機を脱したようです。


 ハゲとメガネにとっては命の危機でしたが。


 喧騒と席の移動で場に人が入り乱れる中、柿崎さんがわたしの隣に座りました。


「さっきのこと気にしないでくださいね。よくあるんですよ。こういう飲み会では。お酒を飲むとつい口が軽くなるんです。ですが、悪気がなかったとしても許されることではありません。私が代わって謝罪します。不快な気持ちにさせて申し訳ありませんでした」


 正座で深々と頭を下げる姿に「もういいです」以外の言葉があるでしょうか。


「どうぞ」と、謝罪を受けるつもりでビールを勧めます。


 ハゲが残していったグラスを渡し、その頭を直撃する運命を逃れたビール瓶を傾けて。


 柿崎さんは一瞬躊躇しましたが、なみなみと注がれたビールを見て一気に飲みほしました。


 それを見ていたメガネが、「やるねぇ、柿崎さん」とビールを勧めます。


 柿崎さんが「どうぞ」と渡すと、メガネが「いいの?」と言って飲みほします。


 仲良きことは美しきかな。いいね。いいね。楽しいね。


 すると、次から次に「柿崎さぁん」と酔っ払いが寄ってきてお酒を酌み交わしはじめました。


 柿崎さん、大人気です。


 よかったね。よかったね。


 ほろ酔い気分で、わたしも踊りだしたくなるくらいふわふわしています。


 わたしが持っているグラスの中身はいつしか日本酒になっていました。


 柿崎さんがハゲと間接キスをしたグラスもやがては行方知れずとなり、いつの間にか辺りは無惨な死屍累々の様相をさらしています。


 ふっ、情けない。


『相手が勝ち誇ったとき、そいつはすでに敗北している』


 誰かの声を聞きながら、わたしの意識も遠くなっていきました。


 ❑❑❑❑


 歓迎会ということでしたが、およそ、幹事と呼べそうな人も、司会をする人もいません。


 まるで仲間うちの飲み会のようなありさまに、副会長に半眼を向けます。


 私の呆れ、侮蔑といった負の感情を正確に汲み取った副会長は、申し訳なさそうに「いつものことなんだ」と言い訳を口にしました。


「こっちの話なんか何も聞いちゃいない。有志と言っても中学生の部活のサポートが目的じゃない。剣道を志す者がいたら手を貸す。しばられるルールも剣道部や後援会とか中学校なんて関係ない。


 連中の目的は剣道の振興と発展、武道の尊厳を守ることだからね。後援会は実質、有志達の下部組織なんだよ」


 そう言ってグラスを空にします。私はビールを勧めながら「それじゃあ」と聞きます。


「私は誰と顔つなぎをすればいいんですか? 名前も知らない、顔もわからない。そんな状態で顔つなぎなんてできませんよ」


「その心配は無用だよ。柿崎さんの顔と名前は有志全員にすでに知られている。対抗戦の一週間前になったら、あちらから連絡があるからその指示に従ってくれればいい」


 知られている? 一体いつの間に? まさか、本人じゃないことがばれた? と疑念の目を向けると、言葉が継がれました。


「この居酒屋に来たときに有志の一人から声をかけられたから、柿崎さんの名前を出しておいた。他の役員になった奥さん達にはあちらから連絡なんかしないだろうし、会うのも今日が最後。


 だけど、柿崎さん、あんたにはこの先も懇親会に出席してもらう。後援会としては、有志との関係をしくじるわけにはいかないんだ。いいね」


 有無を言わせない迫力に頷いてしまいましたが、結局、私一人が貧乏くじを引かされる話です。納得なんて到底できません。


 そのうち、「じゃあ、私はいいかね」と会長が席を立ち、幹事長も、いや、元凶となったババァもぺこりと頭を下げただけでそのまま何も言わずに、そっと座敷から出ていきました。


 それを止めたり咎める者もなく、宴は何事もなかったかのように続いています。


 酔いが回ったのか、まだ料理が出そろっていないにもかかわらず、有志達が勝手に席を離れてあちらこちらに車座を作ります。


 声を荒げ、つばを飛ばして激論を交わす者もいます。


 内容は大会の運営に関することのようですが、後援会幹部がいなくなったことに気づいた様子もありません。


 はぁと、ため息をついていると、有志の数名が女性役員の手を握ろうとしているのが見えました。


 これはいけません。


 何かしなければと副会長を見ると、何もするなとでも言いたげに首を横に振りました。


 確かに、この程度で騒ぐのは大人げないし、大会の運営を考えると、ことを荒立てるのは得策ではありません。


 だけど、そんな事情、私には関係のないことだと振り切ります。


 名前をかたっている兄に迷惑をかけても譲れないものはあるのです。


 女性の手を握ることが問題なんじゃない。嫌がることをするのが問題なんだ。


 大したことじゃないとか、大人なんだからとか、そんなことを言うのなら、セクハラをする奴らにもそう言うべきだ。


 お酒の席だから目くじらを立てるなとか、誰もがやっているとか、適当にあしらえばいいとか、そんなことを言うのなら、セクハラをする奴らにもそう言って我慢させるべきだ。


 言えないのは、自分かわいさに保身に走った言い訳にすぎないからだ。


 立場の弱い者にすべてを負わせて、高みから見おろすだけの卑怯者だからだ。


 部活? 大会? そんなもの知ったことか! 出場停止? 上等だ!


 かつて同僚の女性職員にデュエットを強要した議員に苦情を言ったときの、上司の苦り切った顔を思い出します。


 ふざけるな! 県民に選ばれたとか、民主主義とか、そんなことは関係ない!


 だめなことはだめなんだ!


 選挙で選ばれたからといって、やりたい放題何でもしていいわけじゃない!


 思い通りの振る舞いが許されるわけじゃない!


 民主主義はそういうときに使う言葉じゃない!


 ふざけるなっ!


 今はもう定年退職してしまったかつての温厚な、だけど事なかれ主義を貫いた上司に大きくバツ印を付けて心の中で叫びました。


 あのとき言えなかった言葉を。


 だけど、私の口から出た言葉は、あのクズな上司の態度をならったものでした。


「有志の皆さん! お世話になります! 新役員の柿崎冬彦です。歓迎会ということでしたが、自己紹介がまだだったので、ここでご挨拶させていただきます!」


 張り上げた私の声に場が一瞬静まり返ります。


「公務員で、学芸関係の仕事をしています。県立美術館の催し物には顔がきくので、お申し出いただければ招待券を用意します。よろしくお願いします」


 これならいいでしょうと、副会長を見下ろすと、頭を抱えて言いました。


「これで女性役員も自己紹介をしなければならなくなったね。まったく、余計なことを」


 他に対案もないくせに文句ばかり言うかつてのクズ上司と重なる姿に辟易とします。


 後援会なんて辞めてしまおうかと、本気で考えたとき、女性役員達の挨拶が始まりました。


 順番に一言述べる挨拶で、彼女達は自分の名前を明かしています。


 こんな有象無象うぞうむぞうに名前を知られてしまうなんて。


 私の行動が彼女達に迷惑をかけてしまったようです。最後の大原さんの挨拶では野次まで飛ぶありさまです。


 大原さんが困っている様子に、副会長は、ほらねと、私を見ます。どうするの? と。


 相変わらず自分で動く気はなさそうです。


 屍か? お前はっ! いや、正確には。


 へんじがない。

 ただの しかばね のようだ。


 そうしているうち、笑い者にされた大原さんが恥ずかしさのあまりうつむいてしまいました。


 その、涙をこらえている姿に私の心が爆発します。


「皆さんっ!」


 恥ずかしくないんですか、と言おうとして立ち上がった私の口から出た言葉は。


「バツイチ、独身の私に、今のは耳に毒ですねぇ。息子が中学生で思春期だから再婚も難しくて。でも、二十歳はたちになるのを待っていたら五十になっちゃう。公務員やってるから変なところで遊ぶこともできないし。なかなか始末に困ってるんですよ。あっ、もう一人のムスコのことなんですけどね」


 やはり、あのクズ上司が言いそうなジョークでした。


 会場がどっと湧き、有志の方からビールを勧められます。


「柿崎さん、あんたはいい」と言って何人から握手を求められたのは、連絡係として合格という意味でしょうか。


 幸いにして、この騒ぎに紛れて女性役員達はお帰りになったようです。


 お疲れさまでした。次からは欠席してもいいですよ。


 ところが、ただ一人、まだ残っている人がいました。


 大原さんです。


 何してるんですか? さっさと帰ればいいのに。こんな所にいると、またからまれますよ。


 そう伝えようと近づくと、足を崩し、目をとろんとさせて、顔が紅潮しているのがわかりました。


 完全に酔っ払っています。


 座布団を横に押しのけ、畳の上にお尻を落とし、どっしりと構えて簡単には立ち上がりそうもありません。


 右手にビール瓶を、左手に飲みかけのグラスを持って、一人手酌で飲んでいたようです。


「ケッ!」と悪態をつきながら、まわりをにらみつけています。


 先程のことがよほど腹に据えかねたのでしょう。


 私は、酔っ払い特有の、同じことをねちねちとしつこく繰り返し言って、いつまでも終わらないくだをまく習性を思い出してうんざりしました。


 こういうときは、ひたすら謝罪するしかありません。背広の前を留め、居ずまいをただして頭を下げます。


「さっきのことが許せないというお気持ちはよくわかります。


 酒の席ではよくあることと弁明するつもりはありません。いくらお酒を飲んでいたとしても、失礼を働いた事実に変わりはありませんから。


 しかも、当人は悪気はなかったと言うでしょう。飲み会の席のことなのにとか。


 だから、当人に代わり、また結果としてこのようなことを許した後援会の会長に代わって謝罪します。


 不快な気持ちにさせて申し訳ありませんでした」


 大原さんは、まだ飲みかけのビールが残っているグラスを私に差し出し、ビールを注ぎ足して、さぁ、飲めと、謝罪するつもりなら本気を見せてみろと、その酔いどれのまなこで迫ります。


 これ、大原さんと間接キスになるけど、と思いながらも、くっと空けます。


「やるねぇ、柿崎さん」


 声をかけてきた男には、私が大原さんのグラスでビールを飲んだのが見えていたのでしょうか。


 それとも、大原さんを口説いているように見えたのでしょうか。


 ニヤニヤと笑いながらビールを勧めてきます。


 それを押し止めて。


「どうぞ」とグラスを渡し、ビールを注ぐと「いいの?」と感謝して、大原さんのグラスを両手で大切そうに持って、美味しそうに飲みほしました。


 それ、私と間接キスになるんだけどなという野暮なツッコミはやめましょう。


 だって、嗅ぎつけて集まった皆さん、争って大原さんのグラスに口を付けているのですから。


 これも十分セクハラだよなぁと心配して、大原さんの様子をうかがうと、ニタニタと笑っています。


 女王陛下は、下賜かしした聖杯の行方を楽しんでいるようでした。


 あるいは、エサに群がる鯉を愛でるおんな将軍のたたずまいでしょうか。


 本人が不快に思わないのならセクハラじゃないよなと安心していると、いつの間にか副会長の姿は消えていました。


 ❑❑❑❑


 気がつくと横になっていました。


 どうやら、酔って寝てしまっていたようです。そんなにたくさん飲んだ覚えがないので、多分疲れていたのでしょう。


 子供達の夕飯にカレーを作ったり、初めての連絡会で知らない人に囲まれて役員を押しつけられたり、ハゲとメガネに襲われそうになったり、この数時間だけで人生最大の試練をくぐり抜けてきました。


 ゲームでいうところの勇者の気分です。さあ、後は起きあがって帰るだけ。


 ところで、今、何時?


 左腕をもそもそと動かして時計を見ると、もうすぐ11時。


 しまったあっ!


 いつもならお風呂からあがってテレビドラマを観ている時間。


 楽しみにしていたカエルの国の王女さまは今日だったかも。録画はしてるはずだけど、リアルタイムで観たかったな。


 でも、ここは、どこ?


 見慣れない座敷に寝転がっていることに気づいて完全に目が覚めました。


 男物のコートがわたしにかけられていることにも初めて気づきます。


「目が覚めたようですね?」


 優しく声をかけてきたのは柿崎さんでした。とっさに「ごめんなさい」と起きあがりました。


「いいんですよ。それより、こちらを」


 目の前に出されたグラスを手に取り、水をゴクゴクと飲みほし、あっという間に空にしてしまいました。


 わたしが残念そうに空のグラスを見ていると、柿崎さんがおかわりの水を差し出します。


 ありがたく受け取り、グラスにゆっくりと口を付けます。


 ……生きかえる。


 でも、その用意周到さが鼻につきます。


「柿崎さんは手慣れているんですね」


「こういうことしかできません。社会人の知恵といったところでしょうか。でも、今夜、大原さんのお役に立ててよかった」


 嫌味は通じなかったようです。


 けれど、そういう気を遣う点は見習う必要があります。これからは後援会の役員として活動していかなければならないのですから。


「わたしにもできるかしら」


「しなくても済むような社会になればいいんですけどね」


 気配りをしなくてもいい社会? それは人間性を否定した法と行政が支配する社会のこと?


 それとも、誰かに気配りをする余地すらないマッドマックス的無政府社会のこと?


 いずれにせよ、柿崎さんは、極端な主義、思想を心に秘めておいでのおかたのようです。


 そんなところにまで追い詰められてしまったのは、おそらくは仕事の厳しさからでしょう。


 慰めの言葉をかけるわけにもいかず、「働くって大変なのね」と思わずつぶやきました。


「大原さんがお子さんに今日のことを伝えれば、こんなことがない社会に少しだけ近づきますよ」


 やだ、聞かれた?


 って、柿崎さん、子供を巻き込む気満々でオルグってきました。


 ごめんなさい。社会を変えるとか、そんな気持ちはまったくありません。


 確かにビール瓶で殴りたい奴はいたけど。お酒の席のことだし……。やだなぁ。


「そうやって世の中は変わってきたんです」


 革命でもするつもりでいるのでしょうか。


「同士大原」なんて呼ばれて、期待されても困ります。わたしは普通の主婦なんですから。


 主義主張で何かを変えようとすることは、大切なものを失うことでもあるのです。


 だから、これ以上は聞かないでおいてあげましょう。柿崎さんの踏み出した一歩がいつでも引き下げられるように。


「偉い人は女性も社会進出する時代だとか言ってますけど、少子高齢化による税収の減少、年金の原資を確保するための政策にすぎません。私は専業主婦も立派な仕事だと思います」


 なんだか面倒くさそうな一面を見てしまいました。


 そんなことより……疲れたなぁ。


 大人の社会、もういやだぁ。


 ❑❑❑❑


 酔いつぶれて寝てしまった大原さんに私のコートをかけました。


 寒さをしのぐためというよりも、スカートを覗き込もうとする不埒ふらちな目から守るため。


 酒に呑まれ、何を言っているかわからないくらいに呂律が回っていない敗残兵のくせに、いまだしつこく店に踏みとどまっているやからがいるのです。


 私が帰ってしまえば、大原さんは奴らのえじきにされてしまうでしょう。


 さすがにレイプはないとしても、触られたり、のぞかれたり、スマホに撮られたり。


 酔っ払った男どもは、人の嫌がることを平気でするのです。


 精算はすでに副会長が済ませていたようで、あとは三々五々帰るだけです。


 店員に頼んで倒れている人数分の水を用意してもらい、一人ずつ起こして、家に帰るように言います。


 眠っている相手とずっと会話を続けているやからはそのまま自由にさせておくとして。


 人が立って帰る音に、大原さんも起きた様子で、やっと私も帰れるめどがつきました。


 大原さんに水を差し出すと、美味しそうにゴクゴクと飲みほし、目で次と、催促してきます。


 仕方なく他の人のために用意した水を渡すと、「柿崎さんは手慣れているんですね」といわれのない嫌味で責められました。


 先程の失礼をまだ許していないのか、それとも許したことを忘れているのか。


 あるいは、大原さんのグラスを争って口を付けた連中に怒っているのか、そんなことを聞けるはずもなく、私は当たり障りのない言葉を選びます。


「こういうことしかできません。社会人の知恵といったところでしょうか」


 あなたのような酔っ払いをあしらうくらいならできるんですけどねと言う代わりに、「でも、今夜、大原さんのお役に立ててよかった」と嫌味を少しだけ加味して。


「わたしにもできるかしら」


 何を? セクハラ? それとも仕返し?


「しなくても済むような社会になればいいんですけどね」


「働くって大変なのね」


 ……意味がわからない。まぁ、酔っ払いの言うことだから。


 だけど。


「大原さんがお子さんに今日のことを伝えれば、こんなことがない社会に少しだけ近づきますよ。そうやって世の中は変わってきたんです。偉い人は女性も社会進出する時代だとか言ってますけど、少子高齢化による税収の減少、年金の原資を確保するための政策にすぎません。私は専業主婦も立派な仕事だと思います」


 専業主婦ということに引け目を感じないよう言葉を尽くします。


 誰にでも得手不得手が、向き不向きがあるのです。


 社会に貢献することだけが立派な生き方だとは思いません。


 主婦の仕事には、家族でなければ間違いなく対価が、金銭が発生するのです。


 そういう家族に貢献する生き方が立派でないはずがありません。


 選んだ人生には等しく価値があるのです。


 政治家も専業主婦も同じだけの価値が。


 そんな私の気持ちをどこ吹く風と、大原さんは大きなあくびをしていました。


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