最終話 そして安寧に微睡む
【まえがき】
いずみ「こんにちは。『乙女ゲー世界は柿崎に厳しい世界です』へようこそ」
柿崎「最終話なんだから、せめて『柿崎様、只今異世界へお出掛け中』とか、『柿崎様は告らせたい』とか、『可愛いだけじゃない柿崎さん』とか、『柿崎さんははかれない』とか、もっと柿崎に優しいタイトルはなかったのかっ?……この作品は『柿崎氏は真実の愛を抜け駆ける』第21話にして最終話『そして安寧に微睡む』です」
いずみ「へ、ようこそ。司会担当の大原いずみと」
柿崎「クレーム担当の柿崎洋一郎です。……百歩譲って『パリピ柿崎』とか、『ヒーラー・柿崎』とか、『柿崎の下剋上』とか、『柿崎×FAMILY』とか、『柿崎ゲーム』とか、『柿崎など』とか」
いずみ「あ〜あぁあ、そ〜ゆ〜めんどくさいの、い〜んでっ。百歩譲っても『其れ、則ち柿崎。』?縮めて『それかき』。でもぉ、最後の【まえがき】なんだしぃ?文句があるなら、さっさとそっちの条件、出してくだっさぁいよっ。は〜や〜くぅ。えっ、なにぃ?ヨロイの戦闘じゃぁ、自信がないんでぇ、口で言い負かしたいのかにゃあ?決闘は口論がお好みですかにゃあ?こ〜まったにゃあ、そっちのほうは苦手なんだにゃあ。でもぉ、オレと戦うのがイヤで口で勝負したいならしかたないにゃあ。おたがい、がんばろ〜にゃあ?」
柿崎「……モブセカごっこ、楽しそうだな。とても主人公のセリフとは思えないけど」
いずみ「にゃあ」
「「行ってきます」」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
登校する子供達を玄関で見送り、鍵をかけました。
「さぁて、とっ」と掛け声をかけ、洗濯機を回して掃除を始めます。
けれど、掃除機をかけながらも、頭に浮かぶのは、引っ越しを子供達にどう説明するかということ。
あのストーカーのことを話すつもりはありません。話せば、どうしてそんなことになったのかも話さなければなりませんから。
ですが、「家の都合で」を押し通そうにも、啓太はともかく、いずみは簡単には納得してくれないでしょう。
今まで生活してきて、何の問題もなかったのにと。
ん? ……問題、ありすぎじゃね?
あのストーカーのことは、啓太の部活が発端だし。いずみっ! あんたは、親の目が行き届かないのをいいことにやりたい放題。
あんたの不純異性交遊が原因で、お父さんに隠し事ができてるんだからね。下着とか、コンドームとか、妊娠検査薬とか。
あんたのセックスとか。
しかも、あれほど避妊するように言っておいたのに、夏以降、コンドームが減った形跡はないし。
枚数、ちゃんと数えてるんだからねっ!
しかも、その相手と簡単に別れちゃうなんて理解できないわよ。
……ん? でも、それって、新しい彼氏とはセックスしてないってこと?
いや、いや、中学生の娘にする心配じゃないわよっ! これって。
問題、大ありじゃないっ!
まったく、中3で彼氏をとっかえひっかえなんて、ありえないわよっ!
わたしなんて、初めてのキスが24歳のクリスマスイブだったのに。
あのころは、25歳を過ぎて結婚してないと、売れ残りのクリスマスケーキみたいなことを言われてて、そのことをちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、気にしていたら、職場で知り合ったお父さんに食事に誘われて、そのまま付き合うことになっちゃったのよね。
燃え上がるような恋なんてしたことがなかったし、男の人とお付き合いするのも初めてだったけど、それでも、時間を一緒に過ごすことで穏やかな気持ちを育ててきたのよ。
それなのに、娘がこんな多情に育っただなんて。
結局、わたしにとって恋愛はいまだ未知の領域なのよね。
小説とか漫画で、どういうものかは知ってるけど、実際にどうしたらいいかわからないし、自分ならどうするかも経験が足りないから娘にアドバイスもできないわ。
気持ちの共感すらね。
はぁ。
……コーヒーでも飲んで、気分を変えようかな。
昨日、いずみと一緒に作ったレアチーズケーキ、まだ残ってたかしら?
砕いたクッキーに溶かしたバターを混ぜて型底に敷き詰めたら、ボウルに混ぜ合わせたヨーグルトとレモン汁、生クリームに、水で溶かした粉ゼラチンを加え、クッキーを敷いた型に流し込む。たったそれだけ。
あとは、冷蔵庫で冷やして固めたら、ほら、いずみの大好物の完成。
残っていた一切れを見つけて、ぱくり。
幸せって、こういうことよねぇ。
❑❑❑❑
コーヒーブレイクで気分一新。さて、どうするかな。
問題は、いずみの進路と彼氏のこと。
第一志望の青藍女子高校。女子校なんだし、真剣に部活をするなら男女交際は禁止なんじゃない? 県外から来てる子もいるんだから、女子寮くらいあるわよね?
あの子も陸上を続けたいって言ってるくらいなら、男女交際が原因で競技を続けられなくなるなんて、いやに決まってるわ。
決めた。
進路はあの子の自主性に任せることを約束して、その引き換えに、来年の3月までは東京で暮らしてもらおう。
あの子が寮に入れば、あの社宅も少しは広くなって住居問題も解決するわね。
次は啓太。
まあ、これは特に対策はいらないかな、と東京での塾通いを心に描きながら、昨夜押収したテスト一式をテーブルに広げます。
目についたのは英語の答案。
何これっ!
目を疑いました。昨日、点数を見たときは、50点満点かと思っていました。
なんの根拠もなく。ただ漠然と。いえ、おそらくは、世の中にこんな点数が実在することを脳が拒否したのでしょう。
ですが、バツが大半を占めている現実がそんな幻想を蹴散らします。
なにより、点数の分布を示す棒グラフ。
学年の半数が90点から100点という現実の中、息子の点数は左端から2番目のグループに。
冷や汗が出てきます。
あんた、学年ワースト10に入ってるじゃないのっ!
……もしかすると、学年最下位?
右から左に向かって急激に落ちていくカーブ。というよりも断崖絶壁。
絶望へのダイブ。
そんなオシャレな言葉が浮かんだ瞬間、わたしは頭を抱えこんでしまいました。
❑❑❑❑
「いずみ、話があるんだけど」
学校から帰ってきた娘に声をかけて、リビングに来るように言いました。
ソファに座らせると、「お父さんとも相談したんだけどね」と切り出します。
「もうすぐ受験よね。あんたが勉強を頑張ってるのは知ってる。志望高校の判定だって悪くない。お母さんもできることなら、あんたの希望を叶えてあげたい。でもね」
お茶を一口飲んで、口を湿らせます。これからする話は、啓太には聞かせられません。帰ってくる前には終わらせておかないと。
「今は大切な時期だってわかるわね」と娘の目を見ながら。
「彼氏とのお付き合いは受験が終わるまでやめてちょうだい。
……あんたは好きになったら何も見えなくなるところがあるわ。柿崎君との関係もそう。
これはお母さんにも責任があると思ってる。あんたのことをきちんと見てあげてなかった。だから、まだ中学生なのにセックスをしてしまった。
そういうことは、もっと相手のことを知って、将来を見すえてからでも遅くない。ううん、相手に自分の将来を重ねて生きる決心ができてからしてほしかった。
いい?セックスって子供を作ることなの。興味本位でしていいことじゃない。お母さんの言ってることわかるわよね」
うなずく娘に安心しながら。
「わかってくれたならいいのよ。幸い、新しい彼氏とはまだなんでしょ?」
と、探りを入れて。
「男の人はね、一度そういうことを覚えると後が大変なの」と続けます。
「お母さん、あんたが学校に行ってる間、気が気じゃなかったわ。こうしてるときも彼氏に迫られたりしてるんじゃないかって」
それに、もう一つの懸念材料。
「柿崎君だって安心できない。自分の女だって言いながらあんたに迫るかもしれないし、そういうことが学校や周りに知られたら」
特に女子校なら絶対に。
「勉強を頑張って合格しても高校が入学を許してくれないかもしれない」
と、釘を刺しておきます。
「お母さんはそれを心配してるのよ」
言い切ったことに安心して、お茶を一口、ずずっと。
おっと、忘れてた。
「そうそう、あなたが柿崎君とセックスしたことはお父さんには言ってないわよ。心配のあまり柿崎君の家に怒鳴り込むなんて嫌でしょ?」
ですが、娘は探りを入れるような視線を向けてきました。
それに堪えきれず、「それもこれもあんたのためなのよ」とごまかそうとしたのですが。
それは自分のためなんじゃないのと、娘の声がしたような気がしました。
だから、「お母さんだって本当はこんなこと言いたくないのよ」と、言い訳じみた言葉に続けて。
「でも、あんたと昨日話したとき、新しい彼氏とお付き合いしながら、柿崎君とも友達でいたいって。
……柿崎君とのこと、大切な思い出だって、楽しかったことを忘れるなんて無理だって、なかったことにはできないって、そんなことを言うから」
まるで責任を押しつけるような言い方をしてしまいました。
案の定、娘の咎めるような視線がやわらぐことはありませんでしたが。
ならばと、こんなときのための魔法の呪文「決めたのはお父さん」を唱えます。
「だから、お父さんと相談して決めたことがあるの」
って言ったのに、この子の目、鋭さが増してるじゃない!
もう、無理。一時撤退して態勢を整え、再チャレンジするしかありません。言うべきことは言ったし。
肝心の引っ越しのことはまだ言ってないけど。
「詳しくは夕飯の後でね」と逃げに入ります。
だって、あの子の目、怖いんだもの。
それに、啓太に聞かれたくないことはもう言ったから大丈夫。むしろ、引っ越しは二人一緒にいるときに話すのが正しいような気がします。
と、自分に言い訳をして。
❑❑❑❑
夕飯が終わると、部屋に戻りそうな啓太を呼び止めてソファに座らせました。
その隣には、大魔王さまのような、ふんぞり返ったいずみがいます。
わたしは、二人の前に座ると、「みんなには、今からちょっと、転校をしてもらいます」と、努めて明るく、そう、かぁるく聞こえるように、映画のマネをしました。
ですが、二人の反応は今ひとつ。
バトル・ロワイアル、知らないのかしら? R15だったし、観てないのかもね。うん、健全、健全。
でも、この二人。ちょっと何言ってるかわからないんですけどと言いたげな顔でわたしを見ています。
もしかして、わたし、やらかしちゃった?
受けを狙ったつもりはありませんが、羞恥で顔が火照ります。
でも、もう引き返せない。
バトル・ロワイアル? 何それ? わたし観てないから知〜らな〜いという体で、もう一度繰り返します。
「みんなには、今から、ちょっと、転校をしてもらいます。からね」
と、語尾を少し変えて。
こんな大事なことを言っているのに、反応がありません。あまりのショックに口もきけないのでしょうか。
ならばと、噛んで含めるように、腕組みをして親としての決定とその理由を伝えます。
異論、反論、オブジェクションは許しませんっ! ……オブジェクションって、何だっけ?
「いずみも啓太もよく聞いてね。今、この家は大変なことになってます。
お父さんはたまにしか帰ってこない。お母さんは家庭のことで手が一杯であんた達のことに手が回らない。
あんた達も頼りないなって思ったこともあったでしょう。それをなんとかしたいと思うけど、お父さんがいない状態ではどうしても限界があるって気づいたの。
そこで、お父さんに相談して、昨日、あんた達からお話を聞きました」
二人して顔を見合わせているけど、お話したよねっ? 啓太はともかく、いずみ、あんたまで。忘れたのっ?
問い詰めて思い出させたいところですが、すでに話は佳境に入ったところ。
「その結果をお父さんに報告して相談し、親として決断しました。
家族全員で東京に、お父さんのところへ引っ越します」
でも。
「いずみがこっちの高校に進学したければそれでもいいのよ」
調べたところ、青藍女子高校には寮があるらしいし。
「4月からこの家に戻って生活してもいいわ。あんたは自分のことは自分でできる子だからね」
そのときには、この家、もう売れてるかもしれないけれど。
それでも万が一のことを考えて、念を押しておきます。
「男の子を連れ込んだりしないって、お母さん、信じてる。でも」
親の目の届かない所で一人暮らしとか、同棲とかは許すつもりはないの。だから。
「しばらくは、中学を卒業するまではお母さん、お父さんと一緒に東京で暮らしてね」
言い切った達成感から、はぁとため息が漏れます。けれど、あと一つ。
意を決して、啓太に向き直ります。そして、はぁ。……今度は絶望のため息。
「啓太は中間テストの成績がひどかったわね。特に英語」
あの点数、思い出すだけで頭がくらくらします。これは本腰を入れて勉強してもらわなければ。部活なんてもってのほか。
「いい? 中学1年の英語なんて100点を取って当たり前なの。なのに成績が悪いのは単語を覚える時間がないからじゃない? この先、英語の成績が悪いと大学どころか、高校進学だって危ういわ。
あんたに今一番必要なのは英単語を覚える時間。剣道を頑張ってきたことはわかっているけど、成績がよくなるまで剣道はやめてちょうだい」
そして、二人の顔を覗き込みながら。
「そんな理由から家族全員で暮らすためにお父さんのところへ引っ越すことにしました。何か質問は?」
突然の話に驚く気持ちはわかります。
なんと言っても、故郷を離れるのです。生まれ育った家を出ていくこと、幼馴染みや親友と離ればなれになること、簡単になくしてはいけないものばかりです。
そして、彼氏との別離、打ち込んでいた剣道の禁止。心のよりどころを奪われる絶望に心が引き裂かれる思いでいるのでしょう。
不満も、言いたいことも山ほどあるのだろうと思います。知らない土地に行く不安だって。
けれど、最初に聞いた言葉は。
「ねぇ、ねぇ、お母さん、いつ行くの? 東京! やったぁ! ランド? シー? 早く行きたいなぁ」
わたしもいずみもあ然。
ランド、シー? それがテーマパークのことだということはわかります。けれど、あの点数を見たあとでは、Land、Seaの日本語訳を知っているかどうかすら不安。しかも今はリゾートっていうのよ。このバカ息子。
でも、そうね。どうしてもというなら、栄光ゼミランドとか、市シー学院ならいいわよ。ただし、入塾テストに合格できたらだけど。……合格できなかったらどうしよう?
弛緩した空気の中、娘がおずおずと口を開きました。
「あたしは……高校生になっても一人ぼっちでこの家で暮らすのはさみしいよ」
東京の高校に進学してくれるなら、それはそれでウエルカム。住むところは狭いままだけど、家族で一緒に暮らせるのはなにものにも代えがたい幸せに思えます。
彼氏よりも家族を取ってくれた、そんな心優しい娘にわたしの声も優しくなります。
「お父さんの会社は3年ごとに転勤する決まりなのよ。だから、あと2年。いずみが地元の高校でなくてもいいのなら、東京の高校に通ってもいいわ。その場合は高校3年生で転校するか、東京に残るか自分で決めてね」
「お母さん、あたし、将来は東京の大学に行きたい。だから、お父さんの東京赴任が終わってもこっちへは戻ってこないつもりでいる」
即決即断でした。
その変わり身、切り換えの早さに驚きます。
子供を産んでもいいとまで言い切った柿崎君を振ってまで、好きになったからと、付き合い始めた彼氏のことはどうするの?
啓太がいなければ、心配して問いただしていたことでしょう。
けれど。
これが今どきの子なのかしらねぇ。
きっと、この子は草原を駆け抜けるように、すべての障害を自分の力で飛び越えて道を切り開いていくのでしょう。
なにものにもとらわれず、ただ自分を信じて。まるで、風のように。
そんな娘が誇らしくもあり、親として寂しくもあり。
その凛々しい姿に、隣に座る啓太への指導を心新たに誓います。
谷底に落とされた獅子の子のようにたくましくあれと。
這い上がってきたあんたを、お母さんは何度でも突き落としてあげるから。
❑❑❑❑
そんなふうに考えていた時期がわたしにもありました。
このバカ娘っ!
どうせあと4か月で卒業するからお金がもったいないとか、今までの制服で通うとか、もう、バカ丸出し。
あんた、卒業式はどうするの。一人だけ違う制服で。
集合写真が別撮りになるのはしかたないにしても、東京よ? 生き馬の目を抜くような人種の集まってるところよ!
あんたみたいな無防備な子なんてイジメのターゲット確定じゃないっ!
そう。「そんな装備で大丈夫か?」と問われて、「大丈夫だ、問題ない」と自信満々に答えたゲーム主人公みたいよ。今のあんたっ!
あの主人公、負けそうになって時間が巻き戻され、再び「そんな装備で大丈夫か?」と問われたら、今度は「一番いいのを頼む」と言ったのよっ!
たとえ小学生のときとはいえ、いじめられたことがあると知った以上、あと4か月の中学生活だとしても、親としてはできる限りのことをしたいのです。
ただでさえ、田舎から出てきたと、ばかにされやすいのに。
見慣れない街の華やかさに、娘の心が浮き立つのはしかたありません。それにつられて一緒のわたしも、区役所からの帰り道に迷って、制服なんか売っていないこのセンター街に紛れ込んでしまいましたが。
あんた、きらきらした目で見てるけど、この辺りで売ってる女子高生の制服なんて、エロ親父ご用達なんだからね。
……うちにも一着あるんだけど。
空を見上げて、青の欠片か星の瞬きを探します。
けれど、いくら眺めても、あの町と同じ空を見上げているような気がしません。
高いビルに囲まれた狭い空、どんなにイルミネーションで飾り立てようが、緑の公園を配置しようが、見せたいものだけを見せている、まるで偽物のような、人の住まない誰かの箱庭のようにしか思えないのです。
わたしたちは、ここでその誰かに生かされている。家畜が自分が飼われていることを意識していないのと同じように、わたしたちも意識しないまま、誰かに飼われている。
そんな気がして不安になります。
空っぽの街にお似合いの空っぽな男女の刹那的な振る舞いに、この子が染まらないことを祈らずにはいられません。
彼ら彼女らの、虚しさを忘れようと、むりやりはしゃいで飛び跳ねる姿は、いずれ綱渡りから落ちるのが期待されているピエロのようで、その危うさにこの子が巻き込まれないか心配でなりません。
もう戻れないあの幸せな時間を思い出すたび、わたしは、こうして狂ってしまった歯車の行方を憂えずにはいられないのです。
この選択を後悔する日が来ませんようにと。
❑❑❑❑
緑で覆われた山麓に立つ白亜の建物に穏やかな風が吹いています。
たなびく白い煙が風にのって、み空色の果てへと広がり溶け込んでいきます。
それは、妻の魂が地上から解き放たれ、空に優しく包まれていくようで、浮世に縛りつけられた私は、置き去りにされた心細さに顔が歪んでしまいます。
夫であるにもかかわらず、親族の席にもつかせてもらえず、拾骨もかなわない非道な扱いを受けている私に寄り添ってくれたのは兄だけでした。
その兄に背中を押されて火葬場を後にします。
「今日はどうする? 家に来るか?」
助手席でうなだれる私のことを思いやってくれているのでしょう。
しかし、今は一人になりたい。
私が横に首を振ると、兄は「そうか」と言ってエンジンをかけました。
時間を捧げる相手がいないのに、この先どうやって生きていけばいいのか。
妻を喪った今、私は彼女に生かされていたのだとはっきりわかります。
『生きていていいんだよ』
言葉にしたことはなかったけれど、彼女の手の温もりが私にそう告げていました。
こうして、助手席にただ座っているだけで、自分の居場所はどこにもないのだと思い知らされます。
気にかけてくれる兄は自分の家族のもとに帰っていきます。葬儀に参列した人も帰る家があるのでしょう。私のことをいないように扱っていた妻の家族はこれで縁が切れたとホッとするのでしょうか。
そして、私は?
両親の遺産で買った家も今となっては重荷でしかありません。
仕事への意欲はすでになく、生活の糧を得るために職場へ向かう気にもなれません。
できることなら車で、あてもなく、ガソリンとお金の続く限り行けるところまで行きたい。
たどり着いた先で、野垂れ死にするしかないにしても、ここにいるよりはマシだ。
今日を生きるということは、明日に何かを託すということです。明日に託すものを今日積み上げる。今の私には、たったそれだけのことができそうにありません。
積み上げるものがないのだから。
そんな私を心配したのか、兄が口を開きました。
「なあ、春樹。俺達は何のために仕事をしてるんだろうな」
仕事人間とも思えない言葉に驚きます。ですが、仕事そのものよりも、それに付随する権限とか、栄誉とか、称賛を求めていたのだとしたら、仕事への虚しさも理解できます。
「……カネのためじゃないよね? 公務員なんだから。生き甲斐? 自己実現? 誰かの役に立つ満足感? 目標の達成感?」
「県職員の仕事は県民への奉仕だ。だけど、現実にしている作業は、県民にとって本当に必要なことなんだろうか? その価値は正しいと胸を張って言い切れるものだろうか。本当は、誰かに吹き込まれて、それを信じこんでいるだけなんじゃないのか?」
「価値のない仕事は淘汰されるだけだと思うけど? 誰も暇じゃないんだし」
「だからこそ思うんだ。その価値は誰が決めているんだろうかって。たとえば、円とドル。1ドルが100円とか120円とか、誰が決めてるんだ?」
「本来は国の経済力への信用だろうけど、実際は投資家の為替取引によるんだろうね」
「経済力への信用なら、ビッグマック指数のほうが信頼できるんじゃないのか? だけど、実際には、円安で輸出企業は儲かるし、円高になれば輸入企業が儲かる。作ってる商品に変わりはないのにな。それは正しい価値判断なんだろうか?」
「社会が変化したら価値判断は変わるんじゃないの」
「だから思うんだ。この社会は、好むと好まざるにかかわらずシステムに運用されてるんじゃないかって」
「システム?」
「俺達は、生きているだけで金がかかる。住民税に健康保険料、年金保険料。ただ空気を吸って吐くだけなのに、毎月十万近い金をむしり取られてる。何でなんだろう」
「それはサービスにはお金がかかるから」
「そうだな。すべてのものはお金に置き換えることができる。人は食べなきゃ生きていけないし、寒いときは羽織るものを求める。安らかに眠るには家がほしい。
本当は、たったそれだけのことなのに、どうせ食べるなら美味しいものを、変わったものを、作るのに容易なものを、片付けるのに負担がないものを、健康によいものをと、多様性を上下左右、東西南北の全方位に向けて手を伸ばし続けている。
衣類なんて多様性の最たるものだ。着心地のいいもの、見栄えのいいもの、身体を隠すもの、身体を見せるもの、なんだって自由だ。そこに、寒いから何かを羽織ろうなんて考えはすでにない。やがては何で作られているのか、どこで作られているのか、誰がデザインしたのかが価値の中心となって衣類の意味を決めている。本当は原価数百円なのにな。
安らかに眠るには家がほしいと言ったけど、ベッドや枕、毛布や布団があるともっといいだろ? 柔らかで暖かい寝具、それを配置する部屋、それなら、専用のトイレやお風呂だってあるに越したことはない。食事をする場所、作る場所、食器を保管する場所、増えた衣類を保管する場所、シャツやコート、手袋やハンカチ、靴や帽子、用途や形状に応じて保管する場所がないと、どこに置いたかわからなくなってしまう。
そうやって無限大に広がり続けるのがシステムだ。すでに意味などなく、広がることが目的となり、今や、自転車、自動車といった個人の所有から、鉄道や船舶、航空といった交通機関へとオプションを増やしている。
自分の居場所は家から町となり、社会となって、争う道具も棒から剣、銃、爆弾、戦車、軍艦、戦闘機、ミサイル、核兵器、いつかは衛星からのレーザーさえも実現するだろう。
一方、地上には娯楽が溢れ、書画や歌から始まった文化は音楽、演劇、映像へと広がり、走ったり、跳んだり、組み伏せるスポーツは機器、道具、施設の発展とともに競技の種類を増やして、人は、細分化された文化やスポーツをすることから、見ることへと楽しみを増やした。今はまだeスポーツが始まったところだが、いずれは仮想空間をフィールドとして走りまわる競技もできるだろう。
人生を楽しむため、文化的価値を定義し、常に新しい価値を生み出している。それがシステムの正体だ。
システムが作り続けるのは、価値であり、意味だ。不要なサムシングに特定の意味を、価値を付与すること、いや、そのように信じ込ませることで、システム自身が拡大していくことを目的としている。
本来、生きるのに必要なのはわずかなものだ。資本主義だろうと、共産主義だろうと、システムをどう構築するかの違いにすぎない。
そして、そこに生きるための本当の価値がないのだとしても。そのことを知っていても、もう、そのレールから、その船から降りることも外れることも俺達にはできない。
そうするには、俺達はあまりに遠くまで来てしまった。あの不便な、選ぶことのできない、退屈極まりない生活に戻ることはできないからな。
つまりだ。お前が通っている職場、レストラン、本屋とか映画館、そんなものはただのシステムの一部にすぎないってこと。
だから、そんなものにこだわるつもりがないのなら、今の仕事なんか辞めちまえ。せっかく雨露をしのげる家があるんだ。勤続年数から見て退職金は二千万は出るだろう。贅沢しなければアルバイトの収入で十分じゃないか。
落ちついて、まわりをよく見て、人生を立て直すんだ。
することがない? 居場所がない? なければ作ればいい。何かをするのに遅すぎるなんてことはない。
もし、どうしても思いつくものがなければ、県立大学の社会人講座でも受講してみたらどうだ。
だから。
もう少し生きてみてくれ。
そんなものに負けないでくれ」
「……俺は別に」
「よく思い出してくれ。お前は何一つ失ってなどいないんだから」
兄の言葉と一緒に前方から景色が流れてきます。
木洩れ日が白く反射を繰り返す中、緑に囲まれた木々と曲がりくねったアスファルトがフロントガラスに溶けだし、緑と白と黒が混ざりあって前面を覆っていきます。
私は、それに飲み込まれまいと、必死で何かを堪えていました。
一 おわり 一




