第20話 そして邂逅に戦く
【まえがき】
いずみ「こんにちは。『この柿崎、めんどくさい』へようこそ」
柿崎「根拠もなくいい加減なことを言うな。この作品は『柿崎氏は真実の愛を抜け駆ける』第20話『そして邂逅に戦く』です」
いずみ「へ、ようこそ。司会担当の大原いずみと」
柿崎「クレーム担当の柿崎洋一郎です」
いずみ「このヒーラーがめんどくさかった。なんといっても、冒頭のサブタイトル表示で、
『今回のサブタイトルは 魔物やモンスターがはびこる世界で冒険者の道を歩もうとするアルヴィン(主人公/甲冑の戦士)は熊の怪物と戦いピンチのところに運良くダークエルフのヒーラーの女の子カーラ(ヒロイン/ダークエルフ)が通りかかったがカーラの性格があまりにもあまりなので言い合いになり熊の怪物も困惑しさらにそのあと熊自宅に連れていかれるという原作コミックスにない展開があるので原作ファンの中には『あれ?』と思うかたもいらっしゃるでしょうけれどこれは雑誌連載以前にネットで発表されていた『これ、何の話ですか?』という同じ世界観の漫画を元にしているのでご了承くださいとお願いするスタッフと原作サイドの意向をこの場を借りてご説明させていただきつつなおこの長いサブタイトルには縦読みや斜め読みのような仕掛けはないのでそのこともおことわりしておきたいそんな第一話』
という371文字をわずか12秒、秒速31文字という速さで下テロップで流すから目が追いつかない。そんなサブタイトルがめんどくさい。書くのもめんどくさい」
柿崎「そんなときのために公式サイトがある。って、書く?」
いずみ「公式サイトのテロップはテレビよりもやや遅め。だけど、予告を見る限り第二話もこの調子。正直、めんどくさい」
柿崎「サブタイトルの長さで世界記録を狙ってるのかもな」
いずみ「あと、公式を下にスクロールしたら、スクロールバーに『私、命令されるとやる気無くすタイプなんですよね』という吹き出しが表示された。マジめんどくさい」
柿崎「お前みたいに食いつくやつがいるからだ。ホントめんどくさい」
東京に戻って最初にしたことは、炊飯器と電子レンジを買うことでした。
あの夜、妻が言い出したのは、近いうちに東京に引っ越して家族全員で暮らしたいということ。
そのために、妻が子供達に話して納得させるから、私は家族で暮らせる準備を始めるという約束をさせられました。
とても果たされるとは思えない約束ですが、妻がそうしたいのなら、納得できるまで付き合うだけ。
夫婦で何度も話し合い、収支の試算表まで作って決めた単身赴任なのです。簡単にできることなら、今頃、家族全員、東京で暮らしていたことでしょう。
おそらくは、柿崎との関係が完全に切れていることを証明したいだけなのです。約束を実現できるかどうかまで考えもしないで。
私が、妻がついた嘘を、浮気も含めてすべて受けとめる覚悟でいることも知らないで。
正直、バカだと思います。愚かだと。そんな覚悟も、こんな重大なことを思いつきで約束する妻も、それに従う私も。
それでも、危機を乗り越えた夫婦として、その約束で妻が誠意を示したいのなら応じるしかありません。
本当は、そんなことよりも真摯な謝罪をしてほしいのですが。
ただ、そんな約束を言い出すくらいです。今後は妻が柿崎と会うことは控えるでしょうし、妻の不倫に心を惑わされず、腰を据えて仕事に打ち込めるというのはありがたい。
ただ、私は、いや私達の世代は、受験というツールのもと、入試にたびたび使われる左派新聞社の天の声を自称するコラムを読まされ続け、疑うという習性を学生時代から叩き込まれています。批判的な目を養うことが肝要だと教えられて。
そして、社会人1日目に東京本社の入社式で聞かされたのは、相手の言うことを素直に聞くのはただの敗北、1+1は、と問われて2という答えしか持たないやつはこの会社には要らないという社長のありがたいお言葉。
その結果、身につけたのは、盲目的に信じることは思考停止、疑わないことは既成概念への服従、自分の目で確かめないことは固定観念の硬直化というシニカルな考え方。
そうやって育てられた冷めた目が、私の行動を蔑むように見ています。
だけど、そんな目を妻に向けてどうする? 信じて裏切られて、それでもなお、後悔しないそんな生き方のどこが悪い?
妥協? 諦観? 迎合?
それでもいいじゃないか。完璧な人間などいないし、そこを目指さなくてもいい。破れ鍋に綴じ蓋という言葉が似合う夫婦で十分だ。
その結果、帰省の旅費に使うはずのお金を、全額、必要のない洗濯乾燥機や寝具を買う予算にあてることになるのだとしても。
そんな有様を冷徹な目が静かに指摘します。
試算表で、高いプライオリティに設定した土地建物はどうするのかと。残ローンを控除した資産価値をはかりに乗せた天秤が、大きく単身赴任へと傾いたことを忘れたのかと。
その指摘は、私の覚悟を挫くだけの説得力を持っていました。
❑❑❑❑
後援会の仕事がなくなると、途端に空いた時間が増えました。
新学期を迎え、子供達が登校すると、昼食作りからも解放されて余裕は更に増えます。
そんなときに思い出すのは、夏合宿で近藤さんと山下さんがしていた噂話のこと。
柿崎さんとあれから会ってはいませんし、これからも会うことはありません。
けれど、妙な噂がひとり歩きをして子供達が色眼鏡で見られている現実に、気持ちが落ち込んでしまいます。
こんなときは、時間をかけた料理でも作って、気を紛らわせるしかありません。
一昨日はローストビーフ、昨日は餃子、今日は豚の角煮、明日は牛スジカレー、明後日はロールキャベツと、洗濯と掃除が終わったら夕方までレシピを見ながら料理をします。
そのうち、レパートリーを広げようと、お菓子作りもするようになりました。
小麦粉と砂糖、バターで作るショートブレッドに始まり、ホットケーキミックスを使ったバナナケーキやナッツケーキ、そして、たっぷりの牛乳と砂糖とバターを煮詰めて作るキャラメル、やがては和菓子に手を伸ばして白玉粉とあんこ、いちごを使ったいちご大福も。
それをエサに啓太から学校での様子を聞き出します。わたしのよからぬ噂が流れているとすれば、その的になっているのはこの子のはずですから。
剣道部で強く当たられることはなかった? とか、嫌いな先輩は誰なの? とか、面倒を見てくれる先輩はいるの? とか。クラスで今日、何があったの ?とか、お姉ちゃんに会うことはあるの? とか。
いじめの兆候を見逃さないために。
ただ、この子に聞いたのは失敗。
まったく、食べることと、頭を左右にかしげることしか知らないんだから。
こんなんじゃ、わたしの噂を耳にするどころか、いじめられていても気がついてないんじゃないの?
しかたがないので、いずみをお茶に誘うことにしました。けれど。
「お母さん、あたし、砂糖はNGなんだけど」と、最初から拒絶反応全開です。
でも、めげない!
「そう言わないで、一口だけでもどう?」と紅茶を勧めると、ソファにふんぞり返って、「何か言いたいことがあるなら聞くけど」と、敵意丸出しで睨みつけてきます。
恐らくは、柿崎君のことで責められるのを心配しているのでしょう。
「そうね。学校での啓太はどうなのか、知ってたら教えてくれる?」
「啓太? あたしが知るわけないじゃん。本人に聞いたら?」
「啓太は何も教えてくれないのよ」
「かもね」
「何か知ってるの?」
「何も知らないよ。ただ、あの子は何も考えてないんだろうなって」
「やっぱりそうなの?」
「今頃気づいたの?」
「そうじゃないかと思うときはあったけど、そんなんでお友達とちゃんとやってけてるのかしら?」
「大丈夫じゃない? お昼休みは校庭でサッカーやってるよ。剣道をやってるせいか、相手を躱すのもうまいし、ちゃんと声を出してパス回しにも参加してる」
さすがお姉ちゃん。よく見てるわね。でも。
「ボールはパスするものでしょ?」
「何言ってるの? 嫌いな子にはパスなんかしないよ。試合じゃないんだから。
それでもパスするとしたら、狙われてるとき。守備側がボールを奪おうと肩とかぶつけてくるし、足もひっかけてくる。誰かにパスしてもすぐにボールを戻されて、転ばされるまで続くんだ。
男子のいじめって陰湿だね」
「あんた、まさか?」
「小学校のときの話だよ。もう終わったこと」
「ごめんなさい。気づかなくて」
「大丈夫。啓太はそんなことにはなってないから心配しなくていいよ」
「そうなの? で、あんたは?」
「友達? いるよ」
「そうじゃなくて、いじめとか」
「そんなことしてる暇はないよ。もう中三だからね。それに受験もあるし、来週は文化祭。来月にはオープンキャンパスも兼ねて志望校の文化祭にも行くように先生から言われてるから」
「そういえば志望校を聞いてなかったわね。どこを受験するの?」
「青藍女子。やっぱ陸上、続けたいから」
「女子校?」
「……私立だと困る? お金がない?」
「そんなことないわよ。でも、ちょっと考えさせて」
「青藍女子が無理なら、市立を考えてるから、無理はしなくていいよ」
「偏差値は大丈夫なの?」
「この間の模試で、市立はB判定、青藍女子はA判定。あと、附属はCだった」
「そう。いずみが陸上をやりたいのなら、お母さん、応援するわ」
「ありがとう。えへへ」
「何?」
「ううん。なんでもない。クッキー、1枚もらうね」
「お砂糖は控えめにしたんだけど」
「うん、美味しい。ねぇ、作り方、教えてくれる?」
「いいわよ。これから一緒に作る?」
「うん」
娘にいじめられていた時期があったことを初めて知りました。
「用意するのは薄力粉とグラニュー糖と常温に戻した無塩バターと冷やした卵。アーモンドパウダーを入れると歯ざわりがよくなって香ばしくなるわ」と説明を入れながら、いじめられていた頃の話を少しずつ聞き出します。
「材料はデジタルスケールできちんとはかってね。少しの差で仕上がりが変わっちゃうから。……これが人付き合いと一緒でなかなか難しいのよね」
「……最初は仲良くやってたんだ。なんとなくフォワードを任されて……ほら、あたし、足が速いから」
「うん。まずはバターをボウルに入れてハンドミキサーで練るの。やってみる?」
「うん」
「次に粉を順番にふるいにかけてボウルに落とすの。かたまりや不純物を取り除きながら空気を含ませて混ぜやすくするのね」
「うん」
「その次は冷やした卵。本当は卵黄だけのほうがいいんだけど、今日はそのまま割って入れて」
「了解」
「卵を割るのうまいわね」
「へへっ」
「サッカーやってたの知らなかったわ」
「うん。放課後にね。多分、男子よりもうまかったと思う。……だけど、あたしにマークがつくようになって……」
「うん。ボウルの中を泡立て器でよく混ぜてね」
「こう?」
「そうよ」
「……マークなんか振り切ってやったんだけど」
「代わろうか」
「まだ、やれるよ」
「そう? いつでも言ってね。代わるから」
「……そうしたら、今度は腕を引っ張られて……このくらいでいい?」
「そうね。あとは、まぜむらをなくすためにゴムベラで合わせてね」
「わかった。……後は?」
「できあがった生地は冷蔵庫で寝かせるの。そうね。1時間くらい。小麦粉と水を合わせると、グルテンができて、そのまま形を作っても縮んだり、焼いても食感がよくないのよ。……紅茶、飲む?」
「うん」
それから食卓で横に並んで話してくれたことは、サッカーでディフェンスをしていた男子が手を使ったり、足を蹴ったりして娘を地面に転がしてボールを奪ったこと。
それをファウルだと言ったら、ラフプレーなんか当たり前だと取り囲んだ男子から逆に責められたこと。そんなことが毎回続いてサッカーをしなくなったこと。
「多分あたしのことが嫌いなんだろうなって、そのときは思った。だけど、外から見てるとよくわかるね。サッカーって、追い詰められたギリギリのところでどうするかで、そいつがどういうやつなのか、初めて見えてくるんだ」
「その子達はサッカー以外でもあんたに何かしてきたの?」
「外ヅラだけはいいやつばかりだったよ。クラスの人気者。誰かに意地悪なんかしない。もちろんあたしにも。
だけど、それからは完全に無視した。挨拶してくるのもいたけど、返事なんかしない。あいつらの本性を見ちゃったから。
優しいのは上辺だけ。たとえ遊びでも勝つためなら手段を選ばないんだ」
「……そうなの。大変な思いをしたのね」
「そうだね。あのときは」
「どうしてお母さんに相談してくれなかったの?」
「だって、心配かけたくなかったし」
「ごめんね。気づいてあげられなくて」
「あたしこそ、ごめん。ちゃんと言わなくて」
この日娘が初めて焼いたクッキーは、砂糖が少ないのにとても甘く感じました。
❑❑❑❑
台風が去り、夏の日照りでちろちろと流れていた川も勢いを取り戻しています。
街路には折れた木々と落とされた大量の葉が散乱し、車の通行に支障をきたしていました。
小高い丘に建てられた病院で車をおりると、吹き抜ける風の涼しさに今年も夏が終わったことを感じます。
妻に会いに来るのは1か月ぶりです。
受付手続きを終え、いつものように付き添いの看護師さんの案内で2階の妻の病室へと向かいます。
ベッドに横たわる妻の手を取ろうとして顔を覗き込み、異変に気づきました。
何かが違う。
妻とは違う顔がそこにありました。見慣れたはずの顔なのに、どこかが違う。老いて見えるのはしかたないにしても、雰囲気が記憶と一致しない。
この病室に漂う匂いも、彼女の手も、指も。何もかもが違っている。
そんなばかな、気のせいだと、妻に呼びかけようとしましたが、名前が口に出てきません。
どうしたのか。さっき、受付で記帳したときは覚えていたはずなのに。すらすらと書いたはずなのに。
自分の名前は? 年齢は? 職業は?
柿崎春樹、45歳、公務員。大丈夫です。同じように兄の名前、亡くなった両親の名前を挙げて、自分が正気を失っていないことを確認します。
だけど、妻の名前が出てこない。結婚した日は? 彼女の誕生日は? 旧姓は?
それがどうしても思い出せない。
混乱したまま30分の面会時間の終わりが告げられ、私は病室から追い出されました。
当惑しながらも家に戻り、妻の残した物を、存在した証しを探します。
見つけたのは、エプロン。
キッチンの椅子に掛けられていたのを手にし、顔を埋めます。その愛おしい匂いを吸い込んだ瞬間、柔らかい唇の感触と肌の温もりが記憶によみがえってきました。
そうだ。妻の名前は。
やっと思い出しました。
「……里美」
❑❑❑❑
娘と一緒に買い物に向かう道すがらいつの間にか秋が深まっていることを感じます。
通りに沿って植えられたいちょう並木が舞い散らした黄色い絨毯。
それが歩道一面を覆っていました。
滑らないように一歩一歩を踏みしめて歩くのも、娘と一緒なら、きゃっきゃとはしゃぐくらい楽しくてしかたありません。
すすきの穂を揺らしていた秋風までが冷たさをまとい、冬への準備を急がせます。もうすぐ木枯らしの季節を迎えるのでしょう。
学校がお休みの日は、こうやって娘と買い物に出かけ、カフェでお茶とお菓子を楽しんだら、家でキッチンに並んで夕飯を作るようになりました。
娘を産んでよかった。
特に、こうやってぽかぽかするカフェの窓際からガラス越しに、冷えこむ体をコートに包んで足早に行きかうサラリーマンを眺めていると──
あっ!
忘れてたっ!
えっ? もうすぐ11月よね。昨夜も電話で話したのに、何で聞いてこないのよ! 引越しのことっ!
完璧に忘れていました。わたしから言い出したことだけど、少しくらい催促というか、ど〜なのかな〜くらいの状況確認くらいあってもいいじゃない。
まさか、そろそろ夫のコートを出さなきゃなって思ったから思い出したなんて。
目の前の娘はのんきにウーロン茶なんか飲んでるし。
そう言えば、この子、あれから柿崎君のこと何も聞いてないけど、どうなってるの?
コンドームも減ってないのよね。
その夜、わたしは電話で恐る恐る夫にたずねました。
「引っ越しに向けてお願いした買い物はどう? もう準備は終わったの?」
『引っ越し? ああ、あれか、君が子供達に話すとかってやつ』
「うん。それ」
『何もしてないよ』
「なんで? 約束したわよね」
『子供達はなんて言ってるんだ?』
「……それは、説得中なのよ。今はまだ」
『忘れてたんだろ? 本当は』
「そんなことないわよっ! あなたじゃあるまいし」
『まぁいいけど。ところで、明日、冬物を取りに行くから、出しておいてくれないか』
「あっ、それよ。わたしもそう思って電話したの。……って明日?」
『……』
「本当だから!」
『いいけどね。もうすぐ10月も終わる。こっちはもう寒くなってきてるんだ』
「わかったわ。何時ころに着くの?」
『7時には着きたいな』
「ねぇ、どうせなら外で食事して帰らない? 久しぶりに会うんだし」
『子供達は?』
「最近はいずみが料理をしてくれるようになったの。もう任せても平気よ」
『……いいよ。そうしよう。じゃあ、明日の夜7時に駅の改札で』
「7時に改札ね」
デ〜ト、デ〜ト!
電話を切ってもウキウキが止まりません。
何食べよっかなぁ。どこ行こっかなぁ。
いえ、そんなことより。
何着て行こっかなぁ。
このときのわたしは、冬物を出しておくことをすっかり忘れていました。
❑❑❑❑
今夜は久しぶりのデートです。心が弾むのもしかたがありません。
シャワーを浴び、メイクをした後、さんざん悩んだ挙げ句、クリスマスの星を型どった夜空をイメージした毛糸のワンピースを選びました。
下着は勝負の紐パン。
食事の後、ラブホテルに誘われてもいいように。
ストリッパーのように踊りながら1枚1枚ゆっくりと脱いでみせてあげようかしら。
紐パンだけになったら、目の前で腰を振ってみるのもいいな。
夫の驚く顔が目に浮かんで、ニヤけてしまいます。
約束の時間まであと30分、帰ってきた娘に声をかけてお出かけします。
「いずみ、今日、お父さんが帰ってくるのよ。お母さん、迎えに行ってくるから、夕飯お願いできるかな」
娘も機嫌よく「行ってらっしゃい」と見送ってくれました。
駅に着くと改札へと向かいます。時計を見て、もうすぐ約束の7時になることを確認して。
❑❑❑❑
その日、私は、駅ビルのレストランで牡蠣料理とワインを楽しんだ後、ほろ酔い気分で家に向かおうとしていました。
その私の目の前を横切ったのは。
「……里美!」
呼び止めましたが、雑踏で届かなかったのか、喧騒に紛れて聞こえなかったのか、知らない顔で通り過ぎていきます。
慌てて跡を追いました。
人混みをかき分けて着いたのは駅。どうやら、改札に向かっているようです。このまま電車に乗られたら、もう会えないかもしれません。
「里美っ!」
大声で叫びました。
彼女が振り返りました。驚いた顔で私を見ています。間違いなく里美です。気がつくと駆け出していました。
心臓が早鐘を打っています。
やっと会えた。
その喜びに彼女の腕をつかみました。
もう、離さない。二度と。
「はなせっ!」
目の前に走り込んできた男が私を突き飛ばし、もんどりを打って転がった私は、そのまま床に倒れ込んでしまいました。
キャーという声で辺りは騒然とし、私のまわりを人が囲んで、大丈夫ですかと声をかけてくれます。
駅員も駆け寄ってきます。
私はゆっくりと立ち上がり、ほこりを払いながら辺りを見回しました。
知らない顔に囲まれ、何が起こっているのかわかりません。ただ、追い求めた妻と私を突き飛ばした男の姿はどこにもありません。
警察官も近づいてきました。これから事情聴取が始まるのでしょう。
だが。
何を言えばいいのか。
行方知れずだった妻の腕をつかんだら見知らぬ男に突き飛ばされた? いや、妻が行方知れずだったことなどない。そもそも妻は立ち上がれないし、今も入院しているはず。それに、あの男は誰なのか。
見たのが妻であった確証も、突き飛ばされた原因に思い当たることもなく、私はその場に立ち尽していました。
❑❑❑❑
駅前のカラオケ店に飛び込んで、わたし達はひと息ついていました。
あれは柿崎さんでした。
何がどうなってこんなことになっているのか、皆目見当がつきません。
ただ、わたしの名前を叫ぶ声に振り向いたときに見えた血走った目。腕をつかんだときのニタリと笑う不気味な表情。
今までに見たことのない形相に怖くて震えが止まりません。
抱き寄せてくれた夫にしがみついても、歯はガチガチと音をたてたまま。
その震えは指先まで伝染し、夫の上着を強く握ろうとしているのに、指に力が入らず、夫がきつく抱きしめてくれていなければたやすく引き離されてしまいそうです。
やがて、頭の上から声がしました。
「あれは、柿崎か?」
声も出せず、ただうなずくだけの私に、「こうなった以上は、すべてを包み隠さずに話してくれ。その上で対策を考えよう」と優しく頭をなでてくれます。
そして。
「もし君が柿崎の情婦になっていたのだとしても、俺は許すよ。そのことで君を責めたりしない。約束する」
わたしは、その言葉に救われるように、あの男との間にあったことを、ラブホテルでのできごとも含めてすべて夫に話すことにしました。
恋心に揺れたことも、あの男の上で腰を揺らしたことも全部。
どのくらい時間が経ったのか、すべてを話し終えたとき、わたしは泣いていました。
夫に申し訳なくて。自分の愚かさが情けなくて。口から出るのは「ごめんなさい」という言葉のみ。
夫に抱きかかえながら家に着いても、片時も夫から離れることができません。
あの恐ろしい目がこの家のまわりをうろついているような気がして、その窓越しに庭からあの目が覗いているような気がしてしかたないのです。
こんな浮気妻を抱きしめるなんて嫌だろうにと思いながらも、夫の腕の中、ワンピースを着たまま、わたしは安心して眠りにつきました。
❑❑❑❑
目が覚めると裸でした。
いえ、正しくは紐パンだけという格好。そして、隣にはパンツ1枚の夫が。
まさかと思って自分の股間を探りましたが、その痕跡はありません。夫相手にまさかというのも変ですが。
ふっと、昨夜のできごとが脳裏をよぎります。獲物を見つけたようなあの目、かぎ爪でつかまれたような腕の感触。ブルっと震えて夫の腕の中に潜り込みました。
その動きに夫が目を覚まし、わたしに問いかけてきます。
「大丈夫か? うなされていたけど」
「そうなの? 覚えてないんだけど。でも、わたし、自分で服を脱いだのかしら?」
「いや、俺が脱がしたんだが?」
「なんでっ!」
「服にしわが付くからに決まってるだろ? それに、ブラはきつそうだったから。でも、そんなことより、柿崎をどうするか考えないとな」
「どうするって?」
「この家の場所は知られてるんだろ? なら、どうやってやつから離れるか」
「東京へ行くってこと?」
「他に方法があるのか?」
「でも、受け入れの準備は何もしてないって」
「どうせ君はまだ子供達に話してないんだろうと思ってそう言っただけだ。そのことすら忘れてたんじゃないのか? 本当は」
「そんなこと……ごめんなさい」
「やっぱりな。で、どうだ。体調は大丈夫そうか?」
「うん。多分、大丈夫。昨夜は取り乱してごめんなさい。……あと、浮気したことも」
「謝罪は昨夜聞いた。予想どおりというか、むしろセックスしていなかったことに驚いた。というか、一度きりというのも予想外で、俺としては信じていいのかどうか。……ああ、いや、信じるよ。昨夜の君は嘘をつけるような状態じゃなかったからな」
「ありがとう。許してくれて」
「許すよ。当たり前じゃないか。何があっても君は俺の大切な妻だからな。……だけど、罰はあったほうがよくはないか?」
「どういうこと?」
「そのほうが、君もすっきりするんじゃないかと思ってね。罪を償うって言葉もあるくらいだし。じゃあ、これからその体に刻ませてもらおうか。俺のタマシイの叫びをっ!」
その手にはいつの間にか3色の油性マジックが握られていました。
そうして始まったお仕置きの落書きタイムは、やがて油性マジックを使ったくすぐりタイムへ。
「罰なんだから我慢しろよ」と言われても我慢などできるはずがありません。
ひゃうっ!ぐふゎあ!
ぶふぅ!へげぇっ!もふゎあっ!
素っ頓狂な声でもだえ苦しみ、顔も歪みます。
いっそ、殺してぇぇっ!
「うん、顔色もよくなってきたね」
そう言って油性マジックをしまった後、昇天して足を広げたままのわたしを放って、満足げな夫がパソコンで調べ始めたのはストーカー規制法。
2部プリントアウトすると、真剣な目でまだトロンとしているわたしに1部を渡してきました。
「いいか。君一人では絶対に外出するなよ。それから鍵。ドアも窓も全部、いつもかけておくこと。柿崎が家に来たらすぐに俺に電話してくれ。つながらないときは警察に連絡すること。わかったね」
返事ができずにいると、乳首をつねっ!
「らめぇぇえっ!」
返事も言葉になりません。
そんな心配をしてくれる夫においしい朝食を作らなきゃと、ワンピースパジャマを頭から被り、まだガクガクする足を引きずってキッチンに逃げてきました。
これ以上寝室にいると壊されちゃう。
包丁を前に気を引き締めて、朝食の用意をします。
いつもより早く起きた娘が「おはよう」と寝ぼけ眼のままリビングに入ってきました。
この子とあの男の子を別れさせることになるのよねぇ。
笑顔を向けられて胸が痛くなります。
夫は印刷したストーカー規制法の書類を読むのに没頭していて、引っ越しのことを口にしようとはしません。
子供達への説明はわたしに任せるつもりでいるのでしょう。
かいがいしく手伝ってくれている娘になんて説明すればいいか、それを考えるだけで気持ちが沈みます。
ですが、状況は昨日までとは違います。穏やかな生活があの男のせいで崩れそうになっているのです。
今日中に子供達に話をする決意を固め、その勇気を分けてもらおうと、冬物のスーツとコートを着込んだ夫を玄関で抱きしめました。
絶対になんとかしなくちゃ!
❑❑❑❑
言いづらいことは各個撃破。まずは手強そうな娘から。
夕飯の後片付けをした後、わたしは、ためらいながら娘の部屋をノックしました。
「どうぞぉ」
いまだ娘との良好な関係を壊す決意も覚悟もないまま、部屋に入り「ねえ、いずみ」と声をかけます。
「何?」
「柿崎君とのことなんだけど……」
ストーカーのこと、引っ越しのことをどう言おうか、迷った末に出た言葉の続きは。
「中学生らしいお付き合いはできないかな。つまりセックスなしで」
という歯切れの悪い、周辺から探るような、本題とはほど遠いもの。だけど。
「柿崎とはもう終わったよ、お母さん」
と、ばっさり切り捨てた娘。
はっ?
斬り返される言葉の刃に傷つく覚悟が宙に消えていきます。
拍子抜けして、「えっ、どうして?」と思わず聞いてしまいました。
いえ、別れた理由に、わたしとあの男の噂が関係しているのではないかと疑ったのです。
「あんた、まさか?」
知ってるの?何か言われた?
「あっ、いや、うん。あたしから振った」
やっぱり。
「そう、気づいてたのね」
感の鋭い子です。わたしが浮気したと思い込んだのも、今から思えば、何がしかの予感めいたものがあったのかもしれません。事実、そのとおりになったわけですし。
「違うよ。違う。なんのこと言ってるかわからないけど」
ごめんなさい。だめな母親で。
「あたし、ほかに好きな人ができちゃって……」
えっ?
あまりの理由に、エロ猿とはいえ、憐れになります。
「柿崎君、礼儀正しくていい子だったのに」
「ごめん。お母さん、彼とはもう終わったことだから」
……そうだよね。でも、新しい彼氏だなんて。
仕切り直しです。今度こそが正念場。新しい彼氏との恋に目が眩んでいる娘に、引っ越しなんて応じられないでしょうから。
「新しい彼氏とはどうなの?その……」
セックスとか、してないでしょうね?
「……」
答えないってことは、そうなの?
「あんたのことを大切にしてくれてるの?」とあらためて聞き直します。
「……」
クロでした。
引っ越しの話とかしてる場合じゃありません。修羅場の予感に気持ちが焦ります。中学生で三角関係? しかも、一方はあのストーカーの甥。
「……だけど、柿崎君とは同じクラスなんでしょ。気まずくないの? あんたのこと、なんか変な噂とかされてない。イジメとか大丈夫?」
追いかけ回されたり、跡をつけられたりしてない?
「あたしは大丈夫だけど?」
その危機感のなさにあきれてしまいます。ですが、わたしにしても嫉妬に狂ったストーカーの恐ろしさを知ったのは、つい昨夜のこと。
「そう。よかった」
ほっと胸をなでおろします。だけど、大切なのはここから。対応を誤ると大変なことになります。
「そうすると、あと心配しなきゃいけないのは、新しい彼氏と柿崎君の関係よね。そっちはどうなの?」
なのに、娘ときたら、「なんでそんなの心配しなきゃいけないの?」と問題の大きさに気づいていません。
「だって、あんたが原因で暴力事件にでもなったら大変でしょ? それとも柿崎君はあんたと別れたことに納得してるの?」
わたしの身に起きたことが娘にも起きるとは限りません。ストーカーの甥だからストーカーになると言うつもりもありません。
ですが、昨夜のあんな恐ろしい経験を娘にはしてほしくない。ただ、それだけのことなのに。
エロ猿とのことを、「なかったことになんてできないよ」とか。
はぁ? バカなの? 死にたいの?
いいえ、男の恐ろしさをまだ知らないだけなのでしょう。
どんなに甘くて切ない思い出も、相手次第、別れ方次第で反転するのに。
新しい彼氏と正常な関係を築くのに、前の彼氏の思い出なんて重荷でしかないのに。
まだ14歳。いくら説明しても男女の機微などわかるとは思えません。
だから、ここは「でも、忘れなきゃ」と一言だけ。
それなのに。
「無理に気持ちを押し殺すことが正しいとはあたしは思わない」
と、反論してきました。
はんっ!そんなあやふやな態度を見せたら、あんた、どんな目にあうか。体を許した女が離れていくことに心底納得する男なんていないんだからね。
ましてや、あんたが振ったんでしょ? どうしてそんな気持ちを持てるのよっ!
あれか? モテる女の余裕ってやつか? 10年早いんじゃないのっ!
なので。
「無理にでも押し殺さなきゃならないことだってあるのよ」
と諭します。なのに。
「だって、楽しさも辛さも苦しさもひっくるめて全部、大切な思い出なんだよ?」
愚昧ここに極まれり!
愚か。あまりにも愚かすぎます。馬鹿は死ななきゃ治らないという言葉に心底同意です。
「人は後ろを振り返っちゃいけないの。振り返った分だけ誰かに辛い顔をさせるってわからないの?」
こんなに言葉を尽くして説得しているのに、このバカ娘はっ!
「今は辛くても、いつか笑って思い出にできる日がくるって思わない?」
そんな甘いことを言っています。
「まだ子供なのね。いい? そんな日は絶対にこないの」
腕をつかまれ、狂気を宿した目でニタリと口元を歪ませた顔を見せつけられるだけなのよっ!
「そんな生き方さみしいよ。あたしはいやだ」
さみしいとか、言ってられるうちが華よね。死んだらそんなことも言えないんだから。わたしだって、あのとき、夫が助けてくれなかったらどうなったか。
「あんただって大人になればわかるわ」
「辛いこともあったけど、だからといって楽しかったことも忘れるなんて無理だよ」
もう、説得は無理っ!
今は何を言っても無駄みたい。あんな思いをしてほしくはないけれど、人は火傷を負わなければその熱さがわからないともいいます。
……それに、もう、疲れた。
「あんたの考えもわかるけど、ここは大人になってちょうだい」
それでも「なかったことになんてできないよ」と言う愚かな娘に、返す言葉などこれ以上ありません。
徒労感に襲われるなか、わたしは「そう」とつぶやきました。
❑❑❑❑
結局、娘には引っ越しのことを言い出せずに話し合いは終わりました。
はぁ。
疲れからため息が出ます。
ですが、次の啓太は、そんな心配はありません。階段を上がってドアをノックします。
ドタドタ、ガタッ、ガタン!
大きな音に驚いてドアを開けました。
「大丈夫?」
椅子がひっくり返り、床に転がった息子が手にしているものは。
テスト。
10分後、息子の椅子に座ったわたしは足を組んで、床に正座する啓太を見下ろしていました。
啓太の前には戻ってきた中間テスト5枚。そして、娘のときからお馴染みの成績表。つまり、各教科ごとに10点おきで分布を示す棒グラフ、それに学年平均と啓太の点数を比較する5教科五角形のレーダーチャート。
「言い訳があるなら聞いてあげるわよ」
「……今回は運が悪くて。山がはずれたというか、問題を作った先生が裏をかいたというか、僕が深読みしすぎたというか」
「え〜と?」
「だって、答えがア、アと続いたら、次もアとか、ありえないじゃない? イとウのどっちかだと思って、順番でイにしたら、アとか、完全にダマシだよね?」
待って、待って。この子は何を言ってるの? 順番?
「アが連続したらだめなの?」
「だって気持ち悪いじゃない?」
「どうして?」
「回答欄が全部埋まったら、一度全体を見直すんだけど、同じ記号に偏りがあるなんておかしいでしょ? つまり、どこか絶対に間違えてるところがあるはずなんだよ」
「テスト勉強はしたのよね?」
「したよ。先輩から去年のテストを見せてもらって、問題と答えを覚えたんだけど、その問題が出なかったんだ」
「それは……勉強ということでいいの?」
「勉強かな? うん、そうだと思うよ。ただ、今から思うと教科書を読んでおけばもっといい点が取れたとは思うけど」
「教科書は読んでないのね?」
「だって、先生が授業で、ここテストに出すからなって言ったところをノートにとって、そこを繰り返し読んで覚えたんだけど、全然出なくて……完全に裏をかかれたって、みんなそう言ってる」
「みんな?」
「うん。クラスのみんなというか、男子」
「5教科全部が平均点以下なのはわかってる?」
「うん。上位はみんな女子なんだ。だから、男子だけで平均点を出してくれたら僕もかなり上位にいくはずなんだ。なんか不公平だよね。先輩達も言ってるよ。女子高校や女子大があるんだから、男子高校や男子大学も作るべきだって。男女平等じゃないって」
頭が痛くなってきました。いろんな意味で。
これは、単に勉強すれば済むという話ではありません。深刻な状況に親としての限界を感じます。
「普段の勉強が足りないってことはわかってるの?」
「そりゃあ、この結果だけを見たらそうかもしれないけど。でも、僕なりに頑張ったんだ」
「だったら、どうして返されたテストをお母さんに見せなかったの?」
「そんなことないよ。明日にでも……」
「明日?」
「え〜と?」
「全教科戻ってきてるんだから、今日見せてもよかったでしょっ! 今夜、お母さんがここに来なかったらどうしてたのっ!」
「別に隠してたわけじゃないよ。言われたら出そうかなって」
「先週、お姉ちゃんが中間テストをお母さんに見せたとき、あんたに聞いたわよね。一年生はまだなのって」
「あのときはまだだったから」
「そうじゃないっ! あんたのテスト結果をお母さんが待ってるってことよっ!」
「?」
出ました。コダックのポーズ。まったく、これさえしてれば乗り切れると思ってるんだからっ!
「とにかく、これはお父さんに報告しておくからっ!」
そう言って、テスト一式を持って息子の部屋を後にしました。
そして、ベッドに入り、さみしさから夫に電話しようとして。
「引っ越しするって、言ってないっ!」
【あとがき】
いずみ「第20話『そして邂逅に戦く』を読んでいただきありがとうございます」
啓太「このあとがきは、作者に代わって副音声ふうに僕達でお送りします。
いずみ「コミュ48。古見さんのパンツを覗きたくて水溜りに身を投げ出す病さん、いや山井さん。コミュ49。男子達の、クラスの女子付き合うなら誰? の妄想タイム。青春だよねぇ」
啓太「青春という言葉の定義に疑問を感じるんだけど」
いずみ「定義とか言い出すやつに限って、満たされてない人生を送ってるらしいよ。かわいそうに」
啓太「憐れまれたっ? 妄想に年齢は関係ないって言いたいだけなのに」
いずみ「いい大人が妄想するのは、ただの変態っ! 妄想が青春なのは二十歳まで。……って、ごめん。令和4年、つまり今年の4月1日からは、民法の成年年齢引き下げにより18歳までになってた」
啓太「理不尽っ!」




