第2話 そして黄昏に惑う
きつねにつままれるとはこのことです。
何が起こっているのかわからないまま、あっという間に逃げ場を失い、がんじがらめにされて取り込まれるなんて。
甥っ子の部活の後援会が開いた連絡会。
集まったのは、主にお母さん達。仕事帰りに立ち寄ったビジネススーツのいでたちと、着慣れていない外出着で、いずれ劣らぬ化粧で武装した修羅の、いえ、主婦の群れです。
彼女達が席を大量占拠しているせいなのか、むせかえるような強い香水の香りが会場となった体育館に充満しています。
そんな会場のあちらこちらには、体格のいい男達が肩身の狭い思いでちょこんと折りたたみ椅子に腰かけています。
所在なさげに、たった2枚しかない規約とスケジュールに何度も何度も目を通し、読んでいるふりをする様子が哀れを誘います。
その両隣のお母さん達は、間に挟んだ男がまるでいないかのように挨拶を交わし、当然のように世間話に花を咲かせているのですから。
はぐれ者のお母さんだって、堂々と足を組んでスマホをポチポチ、いびつな笑いで自分の世界を楽しんでいるというのに。
こんな異空間に私の居場所などあろうはずがなく、時間が過ぎるのをひたすら待って、さっさと得意の透明人間になってドロンするつもりでした。
時間になってもざわつきがおさまらない会場は、挨拶に立った会長が役員の選出について話し始めたことで、静まり返りました。
会長は、後援会の運営に経験豊かな副会長と幹事長を含めた三役でサポートするので未経験者でも大丈夫ですと言いますが、怪しい会社の勧誘にしか見えません。
この会場の雰囲気と組まれているスケジュールから漂うのは、デスマーチという死臭。明らかな人材不足、もしかしたら足手まといの面々と一緒に隙間なく組まれた予定をハードル走のように飛び越えていく?
ご愁傷さま。
選ばれる役員のことを思って目頭を押さえます。
人生、悪いことばかりじゃないと心の内でエールを送り、その経験はけして無駄にはならない、無駄にはしないと慰めの言葉をそっと墓前に供えます。
体育館を埋めるだけの人が集まっているのです。見知った人もいない私が選ばれる可能性は限りなくゼロ。の、はずでした。
当然、立候補者はいません。副会長の提案でくじ引きをして決めることになりましたが、この時点ではまだ成り行きを見守る余裕がありました。
ところが、いざ、くじを引く段になって女性幹事長がとんでもないことを言い出したのです。
これだけ大勢の保護者がいても、ほとんどが女性。役員の全員が女性となるのはいかがなものかと。せめて役員の一人は男性になってほしいとか。男女共同参画とか。ふざけんな。ババァ。
嫌な予感が稲妻となって走ります。それはもう、ニュータイプに覚醒したかのように。
異議を唱える人は誰もいません。もちろん私もこんな雰囲気の中で「ヌゥォォオオオッ」なんて言い出せるはずもありません。結果として、学年別、男女別に分かれてくじ引きをすることになったのですが。
あれぇ? 私一人?
先ほどまで、わずかながらにでもいたはずの体格のいい男性会員の姿がありません。
どこへ消えたのか、会場を見渡しても、誰一人。……どっちを向いても宇宙。どっちを向いても未来。
私にとっては閉ざされた未来。
目を皿のようにして探しますが、男性と呼べる姿かたちをした存在は、おいでおいでと手まねきをするぬらりひょん。もとい会長と、子泣きじじい。もとい副会長。
そして男女共同参画を掲げる主義者の砂かけばばあ。もとい幹事長。もとい主義者が、にたにた笑っているのが見えます。
はかったなぁあ! シャアーッ‼
まさかリアルでこの言葉を使う日がこようとは!
くじ引きで学年別に分かれるために席を立った瞬間を狙って立ち去ったのでしょう。
おのれ! 剣道部後援会の武士道にあるまじき卑怯、卑劣。お前らなど武士は武士でもかつお節じゃ!
しかし、斬りつけたい相手の姿はすでになく、ここで暴れても「殿中でござる」と取り押さえられるだけでしょう。
結果、直ちに切腹を言い渡されるのは兄ですが。
そのような理不尽な形で、私は役員に選出されてしまいました。しかも。
1学年から二人しかいないのに、他の役員は皆、実務経験のない主婦ばかりとか。
強豪校の後援会というわりにはあまりにもお粗末。選び方がずさん過ぎて言葉が見つかりません。
あらかじめ渡されていた運営スケジュールを読んだだけでも、5月から9月までイベントが毎月予定されていました。
複数の企画を同時並行で進めていかなければならないのに、会長、副会長、幹事長の幹部3名と明らかに主婦とわかる5名の役員では部員30名を超える大所帯を仕切れるとは思えません。
唯一救いがあるとすれば、体育会系にありがちな上意下達がはびこる余地のなさそうなこと。
もっとも、それは保護者に熱意のないことに起因しています。おそらくは、この後援会が何か大きな問題を抱えていて、そのことに保護者が辟易としているからだと思うのです。
その後の会議の進行もその状況を反映していて、後援会に関わることに消極的です。
できることなら役員にすべてを任せてしまいたい、その結果、後援会が機能を果たさなくても仕方がない、むしろ潰すいいきっかけになるとでも言いたげな態度に終始する保護者もいるくらいです。
こんなことなら代役なんか引き受けるんじゃなかったとほぞを噛んでも後の祭り。
兄に文句を言っても、勝手に役員を引き受けたのはお前じゃないかと突っぱねられるのが落ちでしょう。
現役で東京の有名大学に進学し、大学院修士課程修了後は、Ⅰ種採用試験に合格して県庁に採用された私を差し置いて、一浪した挙げ句、県内の三流大学を卒業してⅡ種採用試験で採用された二つ上の兄は、上司の覚えがめでたく、47歳にして課長職についています。
私は採用されて15年以上経つというのにいまだに主事という肩書きのまま、係長にすらなっていません。
同じく県庁に勤める義姉は私より5歳も年下なのに、この4月に係長から課長補佐に昇進したというのに。
世の中は要領よく立ち回る奴が勝つようにできているということなんでしょう。
その意味でも今回の兄のやり口には、してやられたという思いしかありません。
あの兄のことです。後援会に活気のないことくらい承知していたに違いありません。
こんな調子で出世街道を歩いてきたのでしょうか。
兄夫婦への不満はいずれ別の形で晴らすとして、目下の問題は連絡会です。
幸いなことに、3年生の保護者会員は10月で退会することが認められています。私もこれ以上面倒なことに巻き込まれないよう兄を見習って要領よく立ち回ることにしましょう。
会議が終わると役員が集められ、顔合わせと仕事が割り振られました。私はペアを組む大原さんと挨拶を交わし、スケジュールが危機的な状況であることを伝えます。やる気がないのなら一人でやりますよという意味で。
しかし、大原さんは、自分にできることはしたいと訴えてきました。やりたいと言っている人に、できないからだめだとは言えません。
しかたなく、大原さんにも仕事を割り振ることにしました。私の邪魔にならないよう、作業行程の確認という失敗しても問題のない仕事を。
ついでに、大原さんから断りやすいように二人きりの打合せを提案します。
「運営スケジュールを見る限りでは、対抗戦の準備はすぐに始めないと間に合いません。子供達のためにも失敗はできないので、お互いにチェックしながらやったほうがいいと思うんです」
それを、「いいわ」と返してきたので、「毎週火曜日にお昼を食べながらというのはどうですか?」と誘うことになってしまいました。
これは浮気じゃないと自分に言い聞かせます。
寝たきりの妻に知られることはないのですが、それでも、妻以外の女性と食事することには抵抗がありました。
しかし、その一方で浮き立つ心に戸惑う自分もいるのです。
役員同士の顔合わせが終わると、会長から歓迎会への出席を言い渡されました。
今回は歓迎会ということですが、月に一度の連絡会の後は、会員同士の親睦のためと理由をつけて毎回、居酒屋で宴会を開いているようです。
役員を押しつけられた私達も三役のお供として参加することになります。
職場での飲み会にはほとんど参加したことのない私ですが、10月まで半年の我慢と思って諦めるしかありません。
ですが、歓迎会の会場となった居酒屋に来たのはなぜかオヤジばかり。女性は5人の役員と、あと主義者のババァ。
このオヤジども、連絡会で見た記憶がないんだけど。
あっけにとられる私に副会長が説明してくれました。
「歓迎会は自由参加だからね。会員は無理して来なくてもいいんだけど、役員は、試合の引率とか、合宿の泊り込み、練習の見張りをするのに世話になってる有志の方々と顔つなぎする必要があるからね。ただ一人の男性役員である柿崎さんには、有志の方々と親しくして、気持ちよく仕事をしてもらえるよう、他の役員と問題を起こすことがないよう配慮をお願いしたい。ほら、問題が生じて出場辞退とか困るから」
役員に男性が必要だという理由が今初めてわかりました。脳髄の芯にまで響くくらい正確に理解しました。
体の震えが止まりません。
今夜の、いいえ、これからの役員としての私のミッションは、この脂ぎった中年オヤジどもから、生け贄、いえ、役員となった5人のお母さん達を守ること。
主義者のババァ、もとい幹事長が、私に目配せをしてよろしくと伝えてきます。
オメーは数に入ってないからなと、私はにっこり笑って目で答えます。
私は手早く座敷の上り口に役員の席を確保し、女性役員がいつでも帰れるように備えました。
懇親会ではいつも座敷を貸切で予約しているようで、私は先陣を切って会長、副会長、幹事長の席を指定したメモをテーブルに置いてまわり、面倒くさそうなオヤジを奥に案内します。
座席が埋まった頃をみはからって店員に声をかけると、待ちかねたようにビールと料理が運ばれてきました。出席者の一人が手慣れた様子で受け取り、次から次に奥へ奥へと渡していきます。
やがて全員にビールが行き渡ると、会長が挨拶をし、乾杯の発声とともに辺りは一気に喧騒に包まれました。
私もビールに口につけながら、状況を整理します。
役員になったばかりとはいえ、私は何もわかっていませんでした。けれど、今ならはっきりと断言できます。
剣道部を支えているのは、有志と称する得体のしれないオヤジ達。
後援会とは名ばかりで、有志を接待するお金を父兄から集めるための組織にすぎないのだということ。
そして、役員が剣道部のためにする仕事など何一つないのだということ。
剣道部のためにするべきこと、大切なことはすべて、今夜、この居酒屋に集まっている有志達が仕切っているのですから。
それなのに、私は勝手な思い込みから、打ち合わせと称して大原さんと毎週火曜日のお昼に食事をする約束を取りつけてしまいました。
まるでナンパです。そんなつもりはなかったのに。
大原さんになんて言おうかと、私は料理に箸をつけるのも忘れて、有志のオヤジ達が気勢を上げているのをぼうぜんと見ていました。
❑❑❑❑
くじ引きの結果、わたしは1年生の保護者枠の役員にされてしまいました。
あのくじ、本当に公正なのかしら。
疑えばきりがありませんが、役員を免れてほっとしている人がいるのを見ると、何らかの不正があったのではと勘繰ってしまいます。
選出された役員は前に出て、会員達と向かい合って三役と同じ長机につきました。質疑応答が始まっているようですが、対抗戦とか県大会とか言われても、わたしには事情が飲み込めていないので、黙ってうなづくだけです。
そのうち、飽きてきたので長机の上の書類を読むふりをします。
そうしているうちに会議も終わり、会員達が体育館から出ていきます。
副会長が「歓迎会に申し込んだ方は7時に浜の家に集合してください」と大声で叫んでいますが、気に留める人はいません。
やがて、三役と役員達だけが残された体育館の隅で打ち合わせが始まりました。わたしも形だけ加わりますが、何が行われているのかさっぱりわかりません。
しかたなく悟りの境地に入っていると、わたしが3年生の柿崎君のお父さんと組むことが決まったと知らされました。
ほらね。黙っていても誰かがちゃんと決めてくれる。わからなかったら誰かに聞けば教えてくれるから大丈夫なんだよ。
「3年の柿崎です。1年の大原さんですね。よろしくお願いします」
はぁ? 3年? 何言ってるの?この人。いい大人が。
隣で2年の佐藤ですとか、1年の鈴木ですと挨拶を交わす言葉が聞こえてきました。
そっかぁ。学年枠なんですね。もちろん知ってましたとも。
「1年の大原です。よろしくお願いします」
わたしも挨拶を返します。小馬鹿にしたことに気づかれないよう、にっこりと微笑んで。
「柿崎君のお父さん、わたしは何をしたらいいのかしら?」
とりあえず、やる気のあるところだけは見せておきます。
「私もこういうことは初めてなんですよ。でも、運営スケジュールがありますから、とりあえず、これに沿って我々のスケジュールを立てませんか?」
「お願いします。こういうことはわたしもしたことがないので」
負けずに、わたしも未経験を主張します。
十数年、専業主婦をしていた身です。初心者の立場は簡単には譲れません。初心者のプロと言ってもいいくらいです。プロなので、仕事のできる人の側でサポートする立場を狙います。
「毎月第3水曜日に連絡会の予定が組まれていますね。大原君のお母さんのご都合はどうですか?」
「大丈夫です」
「この後は居酒屋で歓迎会があるみたいですよ。役員は全員参加と書いてありますが、参加できますか?」
できれば断りたかったのですが、これからの息子の中学生活のことを思うと、むげに断わることはできません。
「1時間程度でしたら」
「役員は全員参加だなんてね。急に入った飲み会みたいなものですよ。無理しなくても。……それに、ご主人から叱られるんじゃありませんか?」
「うちは普段から帰ってきませんので……」
普段から帰るのが遅いのでと言おうとしたの間違えてしまいました。ですが、よく知らない人に夫が単身赴任しているなんて個人情報は明かせません。
訂正するのも変なのでそのまま放置です。個人情報、マジ大切なので。
「……すいません。立ち入ったことを聞いてしまって」
思わぬ謝罪をされ、返答に困りました。
……こういうときは話題を変えるのが一番。
「いいえ。そんなことより、大原君のお母さんなんて呼ばれるとなんか妙な感じがしますね。大原さんでよくありませんか?柿崎さん」
「そうですね。私もそのほうがしっくりきます。……ところで、私達の担当ですが、5月の対抗戦と7月の県予選でしたね。大会まで時間もないことですし、連絡会とは別に打合せをしたほうがいいんじゃないかと思うんですが」
……えっ、それって、誘ってるの? 話題を変えただけのつもりだったのに。
わたしが柿崎さんに好意をもったと勘違いさせてしまったようです。
ごめんなさい。無理です。わたし、人妻なので。
「運営スケジュールを見る限りでは、対抗戦の準備はすぐに始めないと間に合わないように思うんです。しかも、複数のイベントを並行して進めると、思わぬミスも生まれそうで。子供達のためにも失敗はできないから、お互いにチェックしながらやったほうがいいと思ったんですが」
なるほど。わたしもそこは不安でした。やはり働いている人は目のつけどころが違いますね。主婦でありながら、そのことに気づいた、さすが、わたしです。
確かに失敗はできません。でも、男性と二人きりで会うというのは……どうなの?
きちんとした所で昼間会うのなら、誰かに見られても何とも思われないかな?
気の回し過ぎだとは思うのですが、男性と二人きりだなんて、まわりの目が気になります。でも、わたし一人では何もできそうにありません。
「いいわ。お昼なら空いてるから」
「私は公務員なので、昼はなかなか……じゃあ、当分の間、毎週火曜日にお昼を食べながらというのはどうですか?」
「あら、いいわね」
ファミレスなら小学校のママ友やPTAでもよく使った場所です。広いテーブルに書類をひろげていれば誰からも不審に思われないはず。
「じゃあ、毎週火曜日に、進捗状況を報告しあうということで。早速ですが、来週は12時に和食レストランの佐倉とかどうですか」
「わかりました」
初めて会ったというのに、柿崎さんのテンポのいい会話になぜか心がはずみます。
柿崎さんが打合せをしようと言ってくれたのは、わたしが失敗して迷惑をかけないようにと、心配してくれたからだとわかっています。
それでも、わざわざ昼休みを使って職場を離れてくれるのです。
何の準備もしないであきれられたり、迷惑をかけるわけにはいきません。
むしろ、わたしがてきぱきと仕事ができるところを見てもらって、柿崎さんから信頼されたい、安心して午後の仕事に戻してあげたいと思うのです。
その日、まるで少女のように舞いあがったわたしが確かにそこにいました。