第19話 そして残響は告げる
【まえがき】
いずみ「こんにちは。本日、2話目の投稿『柿崎さんは社畜幽霊にいやがられたい』へようこそ」
柿崎「お前の大好きな『幼女』が抜けてるぞ。この作品は『柿崎氏は真実の愛を抜け駆ける』第19話『そして残響は告げる』です」
いずみ「へ、ようこそ。司会担当の大原いずみと」
柿崎「クレーム担当の柿崎洋一郎です」
いずみ「幽霊ちゃん、かわいいね。いくらでも残響、いや、残業しちゃいそう」
柿崎「法定労働時間を著しく超える残業と過労死が社会問題になって久しい。人手不足、人材不足を現場に押しつける企業への就職は、いくら好きでも考え直したほうがいいな」
いずみ「仕事をクビになったらそんなことも言ってられないよ。元勇者がつぶしがきかなくて、魔王軍にエントリーシートを提出することだってあるんだし」
柿崎「あれこそ、人手不足、人材不足の見本。そんなブラック企業とわかって就職したいとかありえない」
いずみ「そんなことより、気になったのは、幽霊ちゃんがシャケおにぎりを食べようとして包みを開いたとき、フィルムに海苔の切れ端が残ってたこと」
柿崎「コンビニおにぎりには、一度フィルムを開いて海苔巻きのように巻きなおす『セパレート型』、三角形の頂点から海苔とご飯を分けるシートを引き抜く『パラシュート型』、頂点から下に向けてテープを引きはがして、左右の包みをはがす『カットテープ型』、テープが広くなって抵抗が少ない『カットテープ波型』とあるんだが、どれのことだ? それによって対処方法が違うんだが」
いずみ「名前なんかどうだっていいよ。フィルムを開いたり、テープを引く前に、上から軽く押しつけておくだけで大丈夫。隙間が生まれて海苔とご飯がくっついて端が切れなくなるよ。大切なのは押しつける力加減。ご飯を潰すと美味しくないからね」
柿崎「……」
やってしまった。
大島を慕う大原さんの気持ちに気づいてはいましたが、あんなことを言うつもりはありませんでした。
ましてや、私の薄汚い下心をさらけ出すなんて。しかも、妻に対する思いもごちゃまぜになって、何を言っているのか、もう支離滅裂。
大原さんは友人だと自分に言い聞かせながら、それでも、妻がいなかったらどうしたんだと自問自答を繰り返していた結果があれでした。
それでも、妻がいる身としては、けして口にしてはいけない言葉を、好きだという気持ちを大原さんに伝えられた。
今はそのことに満足しています。
恥知らずな横恋慕の告白は、二度と大原さんと会うことはないという現実があればこそ、さらすことができたというもの。
これで本当に終わりです。
これでやっと妻に向き合える。いや、正しくは、自分自身に。
面会に行っても会話が繋がらず、手を握っていても、いつも独り言を口にする妻と、一方通行の私の言葉。
暖かいつながりは失せ、抜け殻を見せつけられるためだけに通う土曜日の午後。
あの夜、大原さんと触れ合ってから思い出すことができなくなった妻の名前。ずっと大切にしていたのに。
涙がこぼれ、鼻水とよだれで、突っ伏したテーブルを汚します。
声にならない慟哭は、この身を引きちぎりたいほどの苛立ちとなって、強く、ただ強く拳を握りしめ、それでも血が出ないことにすら、おのれの無力を嘆くだけ。
ここが個室でよかった。ここが先輩の店でよかった。
ここに大原さんがいなくてよかった。
❑❑❑❑
あれは誰のことだろうか。
柿崎の言葉の不可解さに首を傾げながらも、なんだかわからない勢いと重さに気持ちが揺さぶられています。
言われるまでもないことを言われて、それでも、なお反論する道を探しているような。
そんな模索の中、いつの間にか着いた家の中から子供達の争う声がします。
「それは実験っていうんじゃない? お願いだよぉ。料理を作ってよぉ」
「それは無理。あんた、食べ散らかすだけで片付けもしないじゃない」
リビングを覗くと、二人が私を見つけました。
「そんなやつに」「今無理って」
ぶつけ合っていた言葉が止み、私が「大騒ぎだな。どうした?」と声をかけると、啓太がいずみから逃げるように私の後ろに隠れました。
「お父さん」
いずみの声に心が和みます。
「おお、ただいま。ご飯、まだなんだろ? 母さんは遅くなるから父さんが何か作ろうか?」
「やったぁ!」
私の背中で啓太が歓声を上げ、いずみが何か言いたげに近づいてきます。
「お父さん、お母さんがどこにいるか知ってるの?」
「ああ、さっきまで一緒だった」
そうとしか言えません。
置いてきた形になりましたが、色々と明らかになってきた今となっては、妻の顔を見ることができません。
見れば、何を言い出してしまうのか、自分を抑えられるのかがわからないから。
けれど、事情を知らない娘は、そんな私の態度に「どうして一緒に帰ってこなかったの?」と責めてきます。
「さあ、母さんには別に用事があるんじゃないのか」
とぼけたふりでごまかすのも、もう限界。私と妻が抱える問題は、いずれこの子達の知るところとなり、否応なく生活環境を変えてしまうのですから。
「お母さんと喧嘩してるの?」
娘の心配そうな声に、意を決して話すことにします。
「いずみと啓太には心配かけるな。父さんと母さんのことで二人の生活にも支障が出てるんだろ?
ただ、家族の問題とはいえ、夫婦のことは父さんと母さんで決めたい。お互いの人生にとってどうするのが一番いいのか、どうしたらみんなが幸せになれるのか。
それはお前達のことも考えなきゃいけないけど、母さんの人生も一度きりのものだ。
お前達だっていつかは父さん、母さんから独立して自分の家庭をもつようになる。その前に、大学に進学して一人暮らしするのかもな。
だから、母さんにとって、父さんにとって何が大切なのか、これからどう生きていくのが一番いいか、じっくりと考えることが今は必要なんだ。
その結果、家族が今のままでいることはできないかもしれない。
でも父さんはお前達の父親だし、母さんがお前達の母親であることはこれからも変わりはない。
だから、親として、これからの生活、特に高校や大学への進学についてお前達に余計な負担をかけないようにするつもりだ。
その上で、父さんと母さんの関係を見直したいんだ。わかってくれるかな?」
「お父さんはもう帰ってこないの?」
娘の悲しげな声に心が痛みます。
「たまには会えるよ。お前達に会うために帰ってくる。それか、父さんに会いに東京に来るか?」
母さんが許してくれればな。
仮に離婚となった場合、子供達との面会交流が定期的にできることは期待できません。
妻が会わせないというのではなく、部活や友人付き合い、塾や学校行事と子供達には子供達の生活があり、私に会うことを優先するとは思えないからです。
私にしても、二度とない学校生活の方を優先してほしい。
これから、この家庭は壊れます。そんな子供達にかける言葉など今はまだ見つけられません。
「啓太、まだ制服のままじゃないか。いずみも外出着だな。二人とも着替えておいで。父さんが何か作っておくから」
そう言って終わりの時間を引き伸ばします。
「お父さん、料理できるの?」
「うーん、凝ったものは作れないぞ。とりあえず、冷蔵庫の中を見てからだな」と、とりとめのない言葉でかわしながら。
「野菜炒めがいいな。キャベツの芯みたいな野菜くずが入ってないやつ」
「何だ? それ。普通は入ってないぞ」
「あと、キムチやカレーも入れないで」
「それは……料理、なのか? だとしたらかなりレベルが高いな。母さんはそういうのをお前達に食べさせていたのか?」
こんな他愛のない会話が、これからの、私にとっての宝物になるのでしょう。
その言葉の一つ一つを忘れないように胸に刻んで。
「ううん。今、いずみちゃんが作ろうとしてた」
「いずみ?」
「お父さん、あたし、マックで食べてきたから夕飯はいらない」
「そうなのか?」
子供達が去り、寂しいやら、ほっとしたやら。
けれど、これが家族の最後の晩餐となるならせめて、美味しく、楽しく過ごしたい。
たとえ、今夜、妻が帰ってこなかったとしても。
そんな感傷に浸っていたのに、玄関から、「ただいま〜。あなたぁ〜、いるのよねぇ〜」と、妻の間延びした声がしました。
そして、ドタドタと、リビングに飛び込んできて、「何で先に帰るのよ」と。
相変わらず、感傷とか物思いとか、人の情緒を簡単にぶった切るやつだ。それもナチュラルに。
「柿崎はどうしたんだ?」
当然、言葉にもとげが生えます。
「柿崎さんはあなたのことを疑ってたわ。夫だって言わないから」
「疑うって、何を?」
「わたしにつきまとうストーカーじゃないかって心配してくれてるのよ」
それは知ってる。でも。
「柿崎さんとは本当に何もないのよ」なんて言葉を信用できないことも知っている。
「あなたが最初から夫ですって名乗ってればこんな誤解なんて起きなかったのに」
「どうだかな」
それは、お前の都合だろっ!
「偽名を使って柿崎に近づいたから、真相にたどり着くことができたんじゃないのか」
「だから、何度も言ってるじゃない。変な人がわたしに馴れ馴れしい態度で近づいてきたから、柿崎さんが寄せつけないようにしてくれたんだって」
「その変な人は俺だけどな」
私が知りたいのはその理由。
「そもそも柿崎と君が何もないのなら、でしゃばる必要がどこにある?」
「でしゃばるとかじゃなくて、ああいう居酒屋で、変な人にからまれたら、知り合いなら普通かばおうとするでしょ」
「違うな」
だめだ。やはりこいつはわかっていない。
ああ、そう言えば、あのとき、大股開きで眠りこけてたんだったな。居酒屋の座敷で。アホ面を引っさげて。
しかも、よだれを垂らしてな。柿崎の背広に。
「柿崎が割り込んできたのは、君と俺が顔見知りだってわかってからだ。俺の女に手を出すなとでも言いたげな態度だったぞ。あれは」
「あなたが大島ですって名乗って、里美、久しぶりだな、今夜は旦那はいないのか? 一人寝は寂しいだろ? 俺が温めてやろうか、なんて下品なことを言ったからでしょ。
あんなこと人前で言われたら、誰だって知り合いが侮辱されたと思って頭にくるわよ。わたしだってこの人は夫ですなんて言えなくなっちゃったじゃない。
その上、あなた、大島って偽名で後援会の人と顔見知りになって居酒屋のあちこちで挨拶して回ってたらしいわね。夫だってことがばれたら、あなただけじゃなく、わたしも変な目で見られるから何も言わなかったけど、こんなことになるのなら正体をばらして恥をかかせればよかったわよ」
今日のことと先月、先週のことをごっちゃにして話すんじゃねーっ! そのお花畑の脳みそには、整理してしまっとく引き出しもないのかっ! だがな。
「おかげで、思っていた以上に君と柿崎の情報が集まったから、俺としては偽名を使った狙いが当たったよ。君には悪いけど」
「あんな酔っぱらいの情報なんてあてにならないわよ。いいかげんな人達ばかりなんだから」
ふうっ。ため息が出ます。そんなことはわかってる。あの場でまともに話ができるのは柿崎しかいません。あとはクズ。
「だから柿崎を挑発したんじゃないか」
目論見は不発。それもこれも。
「君が余計な口をはさまなければ、浮気相手が得意満面で君との関係を自白してたはずなんだ」
「自白じゃないわよ。ただの売り言葉に買い言葉! もう! 全部誤解なのに。あなたが夫だって知らないから、柿崎さん、ますますあなたと張り合って……」
張り合うこと自体、おかしいからだよ。夫だろうが、誰だろうが、普通、人妻をめぐって張り合ったりしないものだからね。
だから。
「あのまま柿崎が張り合ってくれていたら、柿崎の口から俺の女だって言葉が出たかもしれないのにな」
「仮にそんなことを言ったとしても、嘘に決まってるじゃない。あなたがわたしと体の関係があるような言い方をするから、柿崎さんが失礼だって怒って」
お前が柿崎を止めたから、そうなっただけだ。
そもそも、失礼だって言ったのは、3Pを持ちかけたことに対してじゃないか。
普通の感性なら当然に言うぞ。失礼だって。
それでも、口をついて出てくるのは悔しまぎれの言葉。
「あれは惜しかったな。もう少しで柿崎が君とラブホテルに行ったと言い出しそうだったのに。残念だ」
「何が、残念よ! 柿崎さんは、単身赴任しているあなたの代わりにわたしを守ろうとしてくれただけなのよ! 変な人からね!」
単身赴任? 本当は、別居してるって言ってたんだろ? 柿崎の態度からバレバレだぞ。
柿崎が調子に乗ったのはお前が原因なんだと、よぉくわかったぞ。
別居中の人妻が、酒飲んで酔いつぶれて隙だらけなら、誘ってくれと言ってるようなもんだ。
柿崎だけじゃない。あのオヤジ達だってそう。
里美ちゃん? そう呼ばれてたじゃないか。
酒の肴、噂の慰みものにされてたのを気づかなかったなんて言わせないぞ。
「じゃあ、後援会の連中が言ってたことはどうなんだ。君と柿崎が付き合ってるのは後援会の誰もが知ってる有名な話らしいぞ」
「それは、多分、連絡会の前日に二人で打ち合わせをしてるのを見られたから。それで誤解されたのよ」
誤解? した方が悪いなんて言うなよ? させた方にも責任はあるんだからな。
特にこの場合はお前と柿崎にな。
楽しくやってたんだろ?
「寿司屋とか、和食レストラン、ステーキハウスに焼肉屋、そしてワインバー」
打ち合わせをするには適当でないことを知っていて、それでも。
「ずいぶんとにぎやかな場所で楽しく打ち合わせをしていたようだな。後援会の連中、目撃情報を面白いように教えてくれたよ。その中に君と柿崎がラブホテルから出てくるのを見たって言う人がいた」
「そんなの嘘よ」
かもな。
人目を気にする不倫カップルは別々に出るからな。だけど、あいつらが言ったことのすべてが嘘じゃないことは、お前も認めているだろ? それなら。
「だけど、毎週会ってたことは認めるんだろ? なら、ラブホテルの件だってあながちでたらめでもないんじゃないか」
「狭い町なんだからラブホテルの前を通ることだってあるわよ」
それは認めるんだ。そういうことがあったって。でも、セックスするつもりもなく?
「二人並んで? ないだろ」
「だったら、絶対に見間違いよ。そんなことはしてないんだから」
今度は、見間違いですか。
やれやれ。お前、裸で柿崎と抱き合ってるのを見られても、違うって言い張るんじゃないのか?
「だとしても、打ち合わせはこれからもするんだろ?」
柿崎は、もう会わないと言ったくせに、その翌週、寿司屋に呼び出すようなやつだからな。お前だってそれなりの理由があればホイホイ出かけるだろ?
「不倫してるって噂されてるのにな」
それでも、やめられないんだろうな。お前、妻とか母とかいう前に、女だもんな。
「それほど柿崎とのデートは楽しかったのか?」
「デートじゃないわ。あなたの気にさわるのならもう会わない」
そんな、できもしないことを簡単に口にするから信用できないんだ。いいか?
「君も柿崎も後援会の役員をしてるから、会わずに済ますなんてできないよ」
それに。
「隠れて会っていても俺にはわからないし。だけど」
本当の問題はそこじゃない。
「噂の真偽はともかく、君と柿崎が噂になっているのはまぎれもない事実だ。俺からすれば、それだけで腹立たしい」
それがわからないくらいにすれ違ってしまったのなら別れるしかないだろ?
「だけど」
今はまだ心の整理がつかないという気持ちもわかるから。
「君が離婚しないというなら仕方がない。当面は現状維持だ。離婚する気になってくれるまで待つよ」
「そんなこと言わないでよ」
「君にとっても悪くない提案だろ? 夫公認の愛人だ。これからは後援会を隠れ蓑にしないで堂々と会えばいい」
柿崎にも言っただろ? お前を抱いてみないかって。それであいつが遠慮なんかするはずがない。
俺にしてみれば現状追認でしかないし、あいつにとっては、何を今さらってところだろうな。だから、必要なのは第三者への対応策。
「誰かに何か言われたら、夫とは離婚を前提に別居してます、柿崎さんと付き合ってることも知ってますって言えばいいんだから」
もういいだろ? こんなことをしていても何の解決にもならない。
そんな、私と妻の堂々巡りの口論を止めてくれたのは、息子の「お母さん、お腹が空いたよぉ」という声でした。
「ごめんなさい。今作るから」
妻はキッチンに向かい、私も黙り込みます。用意した離婚届の用紙を渡すことも忘れて。
❑❑❑❑
現実はいつも非情です。
夕飯を食べ、寝室で私達はソレに向き合うことになりました。
あんな口論すらバカバカしくなるほど厳しい現実に。
まさに今、ベッドの上で。
お互いの体に書いた落書きに。
「「はあ」」
ため息も出ようというもの。
耳なし芳一のお経のように、相手に書いた「バカ」、「ウソツキ」にとどまらない「うわきはするな」とか「フーゾク行ったらゆるさない」とメッセージを乗せたいたずら書きは、そのまま自分の愚かさ、浅はかさ、バカさ加減を見せつけてきます。
こんな体でよく、柿崎にホテルに行こうとか言えたよねと、妻が向ける非難じみた目つきも加わって身が縮む思いです。
目の前の、妻の体に描かれた、頭の悪そうな落書きを正視できません。
私が描いたんじゃないと言いたい。
けれど、乳房を持ち上げたその下に、尻をかき分けた内側に、股を大きく広げたその奥に、見覚えのある私のサインがあれば言い逃れはできません。
代わりに、毛が剃られた私の局部の上とか裏側に、ご丁寧にも楷書で妻の名前が。
どこから見てもバカップル。
似合いの夫婦がここにいました。
バカ面を下げて。
お互いに自分の描いたところを指さして笑いあい、声が漏れそうになるたび口を押さえて堪え、それでも、互いの体の一つ一つを確認していきます。
これは消さない。
夫婦に証しがあるとすれば、これがそうかもしれない。いや、これがそうであってほしい。
婚姻届とか離婚届など些細なことだ。誰かから押し付けられ、誰かのために署名したものにすぎない。現に、提出した後、控えは私達の手元に残ってはいないのだから。
これは消してはいけない。
私達が十七年かけてやっと見つけた真実がここにある。
こんなことを許してくれる相手に出会えたことを幸せだと思わないで、どこに幸せがあるというのか。
だから、すべてを受け入れよう。
妻の嘘も。揺れた心も。奥に注がれた汚れすらも。
その夜、私達は、汗を流し、体を洗いあった後、再び油性マジックを握ったのです。
今度は赤と青も加えて。
そのせいか、翌朝は恥ずかしくて妻の顔を見ることはできませんでした。
❑❑❑❑
8月も半ばを過ぎました。
街路樹が濃い影を道に落としています。耳をつんざくようなセミの音と陽炎の立つ灼熱のアスファルトから逃れるように、家々の影をつたってわたしは学校へと足を早めます。
今日から夏合宿の後半が始まりました。
予定になかった後半が行われることになったのは、全国大会出場がかなわなかったから。
割り当てられた当番表に従い、わたしも今日の午後1時から4時まで子供達を見守りに行きます。
練習場所となった体育館は、うだるような暑さに包まれていました。
校庭に向いた4か所の出入口のほか、すべての窓という窓を全開にしているというのに、部員達の躍動と掛け声が熱気となってフロアに渦巻き、走り抜けるたびに蹴散らされて全体に拡散しているようです。
時折出入口から吹き込むいっときの涼風は熱波と引き換えた天からの恵み。
それも、汗を冷やすのをわずかに助ける程度で、熱気をやわらげてくれるわけではありません。
人目を気にして薄着になれない女性にとっては最悪です。
流れ落ちる汗をハンカチでぬぐいながら、風通しのいい出入口から離れないようにして、わたしはこの暑さをしのいでいました。
注意しなければならないのは、休憩時間の確保と水分補給の確認。あとは熱射病で具合の悪そうな部員がいないか目を光らすだけ。
剣道の指導は、懇親会で見かけたオヤジ達が体育館のあちらこちらでコーチをしています。
「大原さん」
振り返ると、近藤君のお母さんと山下君のお母さんが立っていました。
「あら、久しぶり」
特段仲のいい人達ではありませんが、子供のお付き合いがあるので、つかず離れずで付き合っています。
この人達も後援会のメンバーですが、今日は当番ではないはず。Youは何しに学校へ?
「先日の連絡会でお見かけしなかったから、今日の当番は大丈夫かなって思って来てみたの。心配になって」
「ごめんなさい。ちょっと色々あって」
「ううん。いいの、いいの」、「大変なときはお互い様だから」と優しい言葉をかけてくれますが、かえって不審に思います。
そんなに仲がよかったかしら? わたし達。
「ところで、大原さん」
山下さんが、意味ありげな顔でわたしにささやきかけます。
「色々あったのは柿崎さんのこと?」
「ご主人にバレちゃったの?」
近藤さんも興味津々。なるほど。
「いやだ。柿崎さんとはなんの関係もないのよ。役員をしてるだけで」
この二人は、今日、わたしが当番だと知って、柿崎さんとの関係を聞き出すために連れ立ってここに来たのです。わざわざこの暑い中を。
御苦労なことです。
「でも、柿崎さんのほうは大原さんにご執心みたいよ。目がいつも大原さんを追いかけてたもの」
「そうそう。大原さんのことをいつも手助けしてるしね」
「そうなの? 知らなかった」
わたしはとぼけることにしました。こんなことにいちいち付き合ってはいられません。
「あらぁ、しらばっくれて。大原さんが柿崎さんとデートしてるのを見た人もいるのよ?」
「まさかぁ、そんな関係じゃないのよ」
「でも、一緒にお酒を飲んでいたって」
「なにかの間違いよ。懇親会のことじゃないの?」
「焼肉屋さんに二人きりでいたのを見た人もいるのよ」
「人間違いよ。そんなことしてないもの」
「大丈夫よ。あたし達は口が堅いから。ねぇ、柿崎さんとはどこまでいってるの?」
「そうそう。あたし達だけの秘密にするから本当のことを教えてよ」
「本当に何の関係もないのよ。でも、変な噂が立ったら柿崎さんにも迷惑よね。どうしたらいいのかしら」
「あら、柿崎さんは独身だから平気よ」
「大原さんだって悪い気はしないんでしょう?」
「わたしは困るわ。夫や子供に知られたら役員なんて続けていられないし」
「でも、大原さんのお仕事はもう終わりでしょ?」
「そうそう、この合宿で」
「えっ。ええ、そうね」
「寂しくなるわね。柿崎さんに会えなくなって」
「そういえば、柿崎さんも寂しそうだったわ。先週の連絡会」
「大原さんを呼んであげましょうかって言ったら嬉しそうな顔をしてたわよ」
「そうなの?」
マダム達のいい加減な嘘も無駄話にもこれ以上付き合ってはいられません。子供の話を投げ入れて話題をそらすタイミングを狙います。
「それでね。あたし達、もしも大原さんが困ってるなら相談に乗ってあげられないかなって」
「そうよ。悩みがあるなら言ってみて」
「悩みなんかないわよ。そうね。強いて言えば」
「「言えば?」」
二人が食いついてきます。
今よ。君に決めたっ!行け、啓太!
「啓太の成績ね。剣道やってて大丈夫なのかしら。部活と両立できてないのよ。あの子」
「うちもそうなのよ。レギュラーになって試合に出させてもらえるなら応援のしがいもあるけど、まだ一年で、どうなるかわからないし、勉強に打ち込んだほうがいいんじゃないかって思うときもあるわ」
「そうね。大原さんのところはお姉ちゃんがいるから、勉強を見てもらえるだろうけど、うちは一人っ子でしょ。秋の新人戦に出してもらえなかったら塾に行かせようと思ってるの」
「剣道部、やめちゃうの?」
「それも含めてね。大原さんのところはお姉ちゃんが優秀だからいいわよね」
「全然だめよ。上の子は受験だし。自分のことで精一杯。弟の面倒なんか見てくれないわ」
「あら、学校ではよく面倒見てるらしいわよ」
「そうなの?」
「そうそう。あたしも聞いたわ。啓太君、いつもお姉ちゃんのクラスの前をうろついていて、お姉ちゃんがそれに気がついて出てきたら仲良く話をしてるんだって」
「いいわよね。姉弟仲良くって」
「……知らなかったわ」
まさかの、息子のストーカー発覚の瞬間です。けれど、いずみにそんな優しい一面があったなんて。
わたしに向ける目なんて、ヒャドラとか、そんな名前がつきそうな氷のモンスターそのものなんだけど。もしくは雪女。
「それにしても、ここ、暑いわね。山下さん、そろそろ帰らない?」
「そうね。大原さん。お邪魔しました。当番、頑張って」
「ありがとうございます」
「またね」
やっと帰ってくれました。
いつの間にか校庭には西日が差していました。風はやみ、うだるような暑さから生ぬるい空気の塊へと変わっています。
部員達の掛け声もなくなっていて、後援会で用意した麦茶を飲みながら興味深そうにこちらを見ていました。
そろそろ休憩の時間。近藤さんと山下さんは、その空気を察して退散したのかもしれません。
けれど、柿崎さんとの噂が流れていたなんて。
これじゃ、夫の言うとおり、夫の居場所なんてありません。もしかしたら、わたしの居場所も。
部員達が麦茶を飲みきってしまいそうです。わたしは新しい麦茶を作ろうと、やかんを持って校舎の給湯室へ向かいました。
❑❑❑❑
「柿崎さんと大原さん、絶対に付き合ってるわよね」
「なかなか白状しないけど、間違いないわ。柿崎さんが大原さんを見る目はただごとじゃないもの」
給湯室へ向かって廊下を歩いていると、近藤さんと山下さんの声が聞こえてきました。二人は女性トイレから廊下に声が漏れていることに気づいていません。
「もう一線を越えちゃったのかしら」
「二人で仲良く焼肉屋よ。そのあと、エッチしてるに決まってるわ」
「中山さんが見たらしいの。二人でいい雰囲気を出してたって」
「やだぁ。不倫ね。ドラマでは見るけど、こんな身近にあるなんて」
「でもね。それだけじゃないらしいの。剣道部のコーチの人から聞いたんだけどね。大原さんには柿崎さんとは別にお付き合いしている人がいて、その人が偶然、後援会の懇親会の場所にいたらしいのよ」
「きゃあ、三角関係ね! 修羅場? 修羅場なの?」
「そうなの。二人の男性が大原さんを取り合ってたらしいのよ」
「ご主人は知ってるのかしら?」
「知らないんじゃない? 単身赴任してるらしいし。あ〜あ、うちも単身赴任しないかなぁ。あたしも大原さんみたいに羽根を伸ばしたいわ」
「いやだぁ。近藤さんたらっ!」
「離婚はいやだけど、後腐れなく遊べるなら男性の一人や二人くらい」
「バレたらどうするのよぉ!」
「やあねぇ。冗談よ。冗談! でもね。大原さんのご主人のこと、だぁれも知らないのよ。だったら告げ口されることもないじゃない? 大原さんだって、もう一人の愛人のこと、柿崎さんのことがなければあたし達も知らなかったわけだし。単身赴任してれば案外わからないものなのね」
「じゃあ、あたしには無理ね。今日も家にいるのよ。アレ。近藤さんが誘ってくれたのを理由に逃げてきちゃった!」
「うちもそう。日曜日だからって、居間でクーラーかけてテレビ観てるわ。一日中」
「一日中いられると、お昼ご飯も困るのよね。今日、暑くて食欲がないって言うからそうめんにしたのに、手抜きだって言われて」
「そうめんを茹でるのにどれだけ熱い思いをしたか、わからないのよね」
二人は話しながら廊下に出てきます。わたしは急いで隣の給湯室に身を隠しました。
悔しくて唇を噛みしめます。でも、噂になっていたなんて!
暑さとは明らかに違う汗が額にへばりついています。
でも、言われて気づいたこともあります。
啓太が入学してすぐに仲良くなったお母さん方からのランチのお誘いはいつの間にかなくなっています。
6月の終わりにあった三者面談、廊下ですれ違った清水君のお母さん、わたしが声をかけようとしたら無視して行ってしまいました。
あれって、そういうこと? 知らないうちに周りからはじかれていた?
廊下の窓の向こう、夕焼けの照り返しが校舎をオレンジに染めています。
長い長い廊下にわたしは一人。世界が橙色にぼやけて見えます。
この日、わたしは、家族の居場所がこの町からなくなっていることを知りました。
【あとがき】
いずみ「第19話『そして残響は告げる』を読んでいただきありがとうございます」
啓太「このあとがきは、作者に代わって副音声ふうに僕達でお送りします。
いずみ「『敗北が知りたい』で始まったアニメ。転生した先は村人A。というか、少年A。もしくはストーカーA。しかも史上最強の大魔王ヴァルヴァトス。マジやばい」
啓太「えーと、友達作りだよね」
いずみ「出会いを『運命』とか、『あなたのことを何でも知ってますよ』なんて、ストーカーしか使わない言葉だよ。『絶対、俺は諦めない』とか、アオリの『その男、すべてを蹂躙する』なんて、犯罪臭しかしない」
啓太「友達作りなんだけど」
いずみ「あと、目つき。アード君は本物」
啓太「……」




