第17話 そして烈火に漲る
【まえがき】
いずみ「こんにちは。『うなじー見る・プーさん』へようこそ」
柿崎「それは悪口なのか? だとしても、ごちゃまぜで誰の悪口かわからなくなってるぞ。この作品は『柿崎氏は真実の愛を抜け駆ける』第17話『そして烈火に漲る』です」
いずみ「へ、ようこそ。司会担当の大原いずみと」
柿崎「クレーム担当の柿崎洋一郎です」
いずみ「今日のテーマはうなじです。『その着せ替え人形は恋をする』で、海夢ちゃんが五条くんに浴衣でうなじを見せてアピるシーンが可愛かった」
柿崎「だろ! 浴衣、最強だろっ!」
いずみ「最終回の最後のセリフが『またね』。2期、あるといいな」
柿崎「水着回や温泉回もいいけど、やっぱ浴衣回だよな」
いずみ「何の漫画だったか覚えてないんだけど、『うなじを出すなんてマッパと一緒』と言ったキャラがいたね。言い得て妙だね」
柿崎「だろ。だろ。そーだろっ!」
いずみ「今ならわかるよ。リヴァイ兵長もうなじばっか、狙ってたし」
柿崎「それは違うっ!」
納得がいきません。どうしてもっ!
それは、あの夜が明けて時間が経つにつれ、私の心に深く打ち込まれる楔のような不快感でした。
いくら大原さんのことを心配しているからといっても、あの男にあそこまで追い詰められるいわれはありません。
ましてや、ホテルで部屋を選んだのも、キスをしてきたのも、私の服を脱がせてベッドに押し倒したのも、すべて大原さんです。
ホテルに誘ったのが私だとしても。
結果、男としてどうなのかという思いはありますが、私から積極的に行為に及んだわけではありませんし、結局、セックスをしたのかどうかさえ覚えていないのです。
妻に対する罪悪感はあるものの、それと大島から文句を言われることは別問題。少なくともあの男にそんな権利があるとは思えません。
しかも、大原さんはご主人とは別居していると言っていました。つまり、私とのことが原因で結婚生活が拗れたわけではないということ。
ならば、ご主人に慰謝料を払う義務も、大原さんに対する責任もないはずです。
それなのに、あの男、不倫した慰謝料は200万円とか、遊びのつもりなら関わらないでほしいとか、私に義務と責任があるかのような言い方で因縁をつけてきて!
大原さんの義理の兄ということでしたが、あまりの一方的な言い分に思い出すたび怒りが湧いてきます。
そんな法律的にも、道義的にも全く関係のない男に言いたい放題に言われてやりこめられ、きちんと反論もできずに逃げてしまった自分が情けなく、腹が立ってしかたありません。
私の言った言葉を、俺の女とでも言いたげにとか言っていましたが、それこそあいつに言い返したい。
自分こそ、ずっと妻の妹に邪な感情を持ち、すでに他人には言えない関係を大原さんと築いているのではないのかと。
それこそが、大原さんの結婚生活を破綻させた原因なんじゃないのかと。
大原さんと過ごしたあの夜のことは、一夜の幻、夢うつつに見た一時の戯れ、あっという間に散った一瞬の花火。そう思い定めればこそ、大原さんに友人として向き合えるのです。
だけど、大島は違います。大原さんとの関係をひけらかし、浮気女に貶め、あろうことか、私と大原さんの清廉な友情を男女の火遊びのように言い放ちました。
一体何の権利があってっ!
なら、もう遠慮はしない。奪ってやるとまでは思わないまでも、せめて一泡吹かせてやりたい。
そして、できることなら大原さんを解放してあげたい。
大原さんのご主人がどういう人かはわかりませんし、元の鞘に収まるのが大原さんの幸せとは限りません。
それでも、大島という存在が大原さんの人生を変えたことは間違いないのです。
ならばこそ、大島ともう一度会って、奴の言い分に反論したい。自分の非を認めさせ、これ以上、あの優しい人の顔が曇ることのないよう打ち負かしたい。
それでなお、大原さんが大島を選ぶというのなら、どうしようもないことです。
二人して修羅の道を歩けばいい。
いずれにしても、このまま黙って引き下がるわけにはいきません。
気持ちが固まれば、することは一つ。
ですが、その前に大原さんの気持ちを確かめておきたい。大島という悪魔と別れるつもりがあるのか、どうか。
私はスマホで大原さんを呼び出します。
大島との約束など知ったことか。大原さんと会うことは二度とないとは言ったが、このままやられっぱなしでは終われない。
今度は私のフィールドであいつを追い詰めてやるっ!
仄暗い部屋で私は一人、スマホを握りしめながら固く誓います。
そう、これは聖戦。おのれの矜持と尊厳を取り戻す、逃げることが許されない戦いなのです。
私に力を貸してくれ。
ためらいながらも妻の名前を呼ぼうとしました。
けれど、妻の名前を口にすることはどうしてもできませんでした。それは、妻への後ろめたさからなのか、それとも──
そんな私の決断に水を差すかのように手のひらからは、通話中を知らせる音がいつまでも鳴っていました。
❑❑❑❑
浜の家での一夜が明けて、私は始発の新幹線で東京に向かいます。
窓には頬杖をついた男が映りこんでいました。さえない、くたびれた中年です。
颯爽とした柿崎の姿に妻が惹かれたのなら、私に勝ち目はありません。しかし、この十数年の結婚生活が出会ってわずか数か月の柿崎の見てくれに負けて崩れ去ったとは思いたくはありません。
妻は十数年の結婚生活の先に、私とではなく、柿崎との人生を見つけたのだと、そう思わなければあまりにも自分が惨めです。
たとえ、負け犬の強がりだとしても。
東京駅に着くとオフィスに直行しました。あらかじめ予定していた休暇とはいえ、週の真ん中です。仕事が山積みになっていてもおかしくはありません。
オフィスでは慌ただしく飛び交う声と電話の着信音が、それぞれのデスクに山と積まれた書類とともに私を迎えてくれました。
インターネットが普及してペーパーレス化が進むと思われた未来は、画面では見落としがあるとの理由から、内容をチェックするため決裁権者がそれぞれプリントアウトして紙使用量が倍増するという結果になっています。
この本末転倒の状況に上層部が出した方針は、起案書はA4一枚に要領よく簡潔に記載しろという指示。
さて、いつまで続くことやら。
そんな私を見て、疲れた表情の部下がほっとした顔をしています。
まだ昼前だというのに。
部下達に声をかけながら、かき分けるように私のデスクに向かい、後をついてくる部下にお土産を渡して問題案件のファイルを持ってくるよう指示を出します。
椅子に座ると心が落ち着いてきました。
私の居場所がここにあることを実感します。人生の重大事をその場限りの仕事で紛らわせようとするのは間違いだとわかってはいるのですが。
けれど、そんな私の状況も心境も知らないで、妻からはひっきりなしに電話がかかってきます。
昼休みで賑わう食堂の片隅で。
議論が紛糾した会議室の奥で。
書類の山で埋もれたデスクの上で。
つかの間の安らぎを求めた自販機の陰で。
仕事帰りの身動きできない電車の中で。
このタイミングでっ?
もしかしたら子供達に何かあったのかもしれないと心配になりましたが、子供達にもスマホを持たせていることを思うと、長くなりそうな折り返しの電話をかける気にはどうしてもなれませんでした。
東京に戻って二日目の夜。
今日も残業です。週末ということで部下達はビアガーデンに行ったようですが、赴任して以来、ずっと週末は帰省していた私が誘われることはありません。
時刻はまだ7時。しかし、オフィスに残っている人影はまばらで、大量消費を謳歌するこの大都会に一人置き去りにされたような孤独を感じます。
妻も今頃は柿崎と食事でもしているのかもしれません。
あの夜、妻が叫んだ言葉が心にずしりとのしかかります。
しかし、家の管理や住宅ローン、住み慣れた環境の変化、子供達の転校、いじめや不登校のおそれ、そういった諸々のことを検討して出した単身赴任という結論だったはず。
次の任地が地元である保証はなく、この先、地方都市の支店を転々としたり、海外赴任ということもありえます。
そして、家族にとって、私とともに転居を繰り返す生活で失うものは大きいのです。
この状況を変えるすべは私にはなく、妻が何をどう選ぶのか、その答えを待つしかありません。
その意味では妻の近くにいる柿崎が遥かに有利なのでしょう。
結局、堂々めぐりの空論はいつまで経っても宙を漂うばかりで、こんなことで思い悩んでいては仕事もはかどりません。
ならば、さっさと切り上げ、酒でも飲んで眠るに限ります。
パソコンを閉じて立ち上がりました。
最寄り駅近くのコンビニで弁当と缶ビールを買い、社宅へと向かいます。
街には飲食店が溢れ、その灯りで街路は両側から煌々と照らされていました。すれ違う人の顔は皆幸せそうで、疲れた足はさらに重くなります。
社宅の前に立って見上げました。
築二十年、十二階建てのしっかりした鉄筋コンクリート造り。その8階の3LDK。家賃は破格の5万円。
世帯用のため、単身者は少なく、どの部屋にも明かりがついて日常生活を営んでいます。
今までは東京での仮住まいのように思っていましたが、どうやらここが本格的に私の生活の場所になりそうです。
エレベーターには監視カメラ付き。その一方でオートロックはなく、外廊下に向いた鉄のドアに覗き穴とインターフォン。この装備で我が身を守れと会社はおっしゃる。
ああ、外廊下に向いた部屋の窓にはステンレスの格子がはめてあったな。簡単には逃げ出せないように。
狭い玄関は、上り口に腰をかけて靴紐を結ぶことを予定しておらず、廊下は狭小のためすれ違うことができない。けれど、来客を玄関で追い返すにはうってつけの構造。
さらには風呂場。浴室にも湯船にも一人しか入れないなんて、欠陥住宅じゃないのか? そのくせ、スイッチ一つでお湯を張れるとか、会社は金の使い方を間違えてるとしか言いようがない。
室内の壁面は吹付け塗装ではなく、クロス張り。天井も含めて。こんなことして、クロスの裏にカビが生えたりしないのか?
窓の外のベランダは火災避難用で、植栽は禁止のうえ、鳥よけのネットが一面に張られている。上の階のベランダが日陰を作っているから、晴れていても室内はなんとなく薄暗い。
挙げ句、ベランダ側の掃き出し窓と玄関ドアを同時に開け放つと、風の強いときはドアが閉まらない。大切な書類もチラシもごみもまとめて吹き飛ばされる始末。
地方転勤を何度も繰り返して出世した役員連中は、押し入れの多さ、広さを一番の利点にあげているが、何をそんなに持ち歩いているのか。どうせ解かない荷物なら、ダンボールごと捨ててしまえばいいのに。
そして、防犯のためなのか、外廊下をまばゆいばかりに照らしているライトの数。これって、一晩中点いているんだけど、電気の無駄遣いじゃないのか。
最後に、ごみの分別の厳しさ。プラは洗って出してリサイクルとか言ってるが、それを東南アジアに輸出してたりしないか? テレビで見たぞ。俺は。
あと、水道水は飲んでいいの? 屋上のタンクに一度貯めてから流してるんだけど。
そんな文句はあっても、都会の生活は快適です。
駅からの道すがら、角を曲がれば別のコンビニが見えます。牛丼屋や蕎麦屋も24時間営業、あちらこちらに点在し、食べたくなったらいつでも入れます。
まあ、数が多いとはいえ、コンビニは実質4ブランド、牛丼屋に至っては3ブランドが軒を並べ、全く同一の店があちらこちらにあるだけで、ラーメン屋のような多様性はないのですが。
そして、24時間スーパー。惣菜は9時で終わるにしても、夜中に足りなくなった何かを買い求めるのに朝まで待たなくてもいい。
最近利用するようになったコインランドリーは、いくつもの場所を頭にインプット済み。
そして何より、キャバレーやパチンコ店、風俗店などの大人の施設が駅の周辺に集められ、住宅街に猥雑な雰囲気を持ちこませない、意識の高い街づくり。
そんな理想的ともいえる環境、利便性に恵まれた暮らしを、普通の人生を送ってきた私が享受できるなんて。
……たった一人だけど。
❑❑❑❑
ふぅ。
スマホから手を離して一息つきます。
夫が出ていってからもう何度電話をかけたことか。どこに泊まったのか、何時の新幹線に乗るのか、これからどうするのか、何一つわからないまま時間が過ぎていきました。
わたしからの着信は履歴でわかっているはず。持っているのは色違いの同じスマホ。機能はよく知ってます。
けれど、折り返しの電話がないのは、わたしと話すつもりがないのでしょう。
それでも、電話をかけるのをやめるつもりはありません。この1か月、一度も電話をしていません。このまま会話もなくなり、離れた距離を縮める努力を怠ったら、気持ちまで完全に離れていってしまう気がします。
それに、かけたスマホから発信音が聞こえるということは、夫も電源を切っていないということ。
こうなれば根比べです。
わたしと違って、ときおり会社から電話がかかってくる夫のこと。電池がなくなったら業務連絡に支障がでるからやめてくれと泣きついてくるはず。
と、思っていたのですが、夫は一向に電話に出てくれようとはしません。
これは長くなるかもと覚悟を決め、発信中のスマホを放置したままコーヒーを淹れます。
いきなり、着信音が鳴りました。
急いで手に取ったスマホの表示は、柿崎さん。失望のため息を吐いて通話ボタンを押します。
「もしもし」
『よかった。やっとつながりましたね』
「何か御用ですか?」
この役立たずという言葉を飲み込んで愛想よく答えます。
『大原さんに確認したいことがあって』
「なんでしょうか?」
『大原さんのお義兄さんのことなんですが、このままお話を続けても?』
「はい、どうぞ」
『大原さんと大島さんのお付き合いをどうこう言うつもりはないのですが、もし、困っているのなら』
助けてくれるの?
さっきまで眉間に抱えていた問題が一気に解決に向かいそうで、心が晴れていきます。
「お願いしてもいいですか」
『わかりました。大島さんのことは私に任せてください。大島さんの電話番号を教えていただければ私のほうで連絡を取りますから』
「ええと。……それは」
『大丈夫。うまくやりますよ。先日のようなことにはなりません。はっきりと言いますから』
「ごめんなさい。でも、勝手に電話番号は教えられないわ。だけど、ありがとうございます。わたしが連絡しますから、日にちと場所を決めてください」
『大丈夫ですか?』
「電話で伝えるだけですから」
『わかりました。じゃあ、来週の金曜日、午後6時に、華寿司で。……覚えてますか?華寿司』
「以前連れて行っていただいたところですね」
『そうです。他の人に話を聞かれないよう個室を取っておきますから』
「よろしくお願いします」
『もし、大島さんの都合が悪いなら、大原さんだけでも。じゃ、来週』
勝手なことを言って切られた電話ですが、わたしに勇気を与えてくれました。
電話に出てくれないのなら行けばいいのよ。東京に。
善は急げ。
カレンダーによると、子供達は明日から夏休み。啓太は剣道部で一週間の合宿。いずみは夏期講習の予定が入ってる。
でも大丈夫。あの子は何でもできる子。
そうと決まればと、身の回りのものをバッグに詰め込みます。いずみには置き手紙。急いでいるから簡潔に、『お父さんのところに行く。あとはお願い』と。あの子ならこれでわかります。
財布は持った? スマホは? ハンカチ、ティッシュはと、数えていて思い出したのは、あの深紅のショーツ。
今夜、体を求められないはずがありませんから。
急いで寝室に戻り、タンスの引き出しから深紅のショーツを取り出し、たたんでバッグの内ポケットにしっかり入れます。ついでにピルとコンドームもひとつかみ。
生理は今朝始まったから、今飲めば避妊効果が出るはず。コンドームはピルが切れたときのため。いつまで行くことになるかわからないし。
これでよしっ!
バッグの上から対夫用お泊りセットを叩いて気合を入れ直します。
勝負は今夜っ!
❑❑❑❑
ガチャリと開く無機質な鍵の音と重いドアにはもう慣れました。
けれど、真っ暗な闇の中、明かりを灯すスイッチの場所は今も手探りで探す有様です。
やっと探しあてても、つけた白色灯が放つ青白い光は、私以外に誰も住む者がいないこの部屋に似合いの寒々しさで気が滅入ります。
全開にした掃き出し窓から涼風が夏のこもった暖気を追い出して、部屋の空気を一新しているせいかもしれません。
いつものように寂しさを紛らわせようと見もしないテレビをつけます。コンビニで温めてもらった弁当を折りたたみテーブルの上で広げて、冷める前にと箸を動かし、もぞもぞと口にします。
けれど、張り付いたような汗と体臭の不快感から食欲は失せ、最後まで食べきることができずにゴミ袋へと放り込みました。
シャツと靴下、下着を洗濯物の山に乗せてシャワーを浴びます。
せめて、この体にまとわりつく汗と臭いだけでも洗い流したい。できることならこの身に巣食う嫉妬や懊悩、諸々の感情も一緒に。
やがて、タオルで水滴を拭き取ると、火照った体を冷やそうと、冷蔵庫から缶ビールを取り出して開け放ったままのベランダに向かいました。
明日は土曜日。コインランドリーで洗濯をして、掃除をして。
さて、それから何をしよう。
缶ビールを一口飲むと、ベランダの観葉植物を乗せる小テーブルの上に置きました。
腹までの高さのコンクリート塀で囲まれたベランダは、私のオアシスです。人工芝を敷いて裸足のまま外に出てくつろげる空間で開放感に浸っていると。
ピンポーンと、チャイムが鳴りました。
時刻はとうに9時を回っているはず。
こんな時間に来るなんて、どうせろくでもない用事だろうと決めつけ、居留守を使うことにしました。ドアの覗き穴から明かりが漏れていることはわかっていますが、気にしたら負けです。この都会では。
無視して缶ビールに口をつけます。ですが。
ガチャリと鍵が開く音に振り返り、玄関を凝視しました。
そこに立っていたのは。
❑❑❑❑
夫が住む社宅に着いたのは、すでに夜も深まったころ。
チャイムを鳴らしても出てこないので、合鍵を使ってドアを開けます。
そこに立っていたのは。
廊下の向こう、ベランダに夫が。
全裸で!
慌てて中に入ってドアを閉め、鍵をかけます。
「なんて格好してるのよっ!」
「別にいいだろ。外からは見えないんだし」
缶ビールを片手にいい気なもんです。なんだかむかついてきました。
「なんで電話に出なかったのっ!」
「忙しかったからな。君こそ、離婚する気になって届出用紙でも持ってきたのか?」
「持ってくるわけないじゃないっ!」
「じゃあ、何しに来たんだ?」
「ちゃんと話をするためよ。あなたはわたしが浮気をしたって疑ってるけど、浮気なんかしてないんだから」
「その話ならもういいよ。で、君は決めたのか? 柿崎か、俺か」
「あなたに決まってるじゃないっ!」
「なら、柿崎のことはどうするんだ?」
キッチンにバッグをおろして夫に振り向きます。
「柿崎さんは関係ないわよ」
「俺が知りたいのはそこなんだよ! 君は柿崎とは後援会の関係しかないって言うけど、柿崎の態度を見ているとそうじゃないってはっきりわかる。俺は、直接この耳で聞いたんだぞ亅
流し台の周りを見渡します。食器を洗った様子はありません。食事はまだなのでしょうか。
「あいつは君のことが好きだと言った。後援会の人が大勢いる前でな。その上、後援会の人達の間では君と柿崎は事実上の夫婦だなんて噂されている。ラブホテルから出てきたのを見たとも言われてる」
夕飯を作ってあげようと、食材を探して冷蔵庫を開けました。
「それに、柿崎の家に一緒に入るのを見たとか、買い物をした後に行くのを見たとか、もう、完全にクロじゃないか」
冷蔵庫には食材は何もありません。もしかして、外食ばかりしてるの?
「そんな有様なのに、君は自分を信じろって言う。だけど、一体どうやったら信じられるんだ?」
確か、引っ越したとき、戸棚にレトルト食品を買い置きしてたはず。
「俺は東京から離れられないし、君はあの家から離れられない。そんな状況で」
パスタとシチューのレトルト発見っ! あらあら、玉ねぎもあるじゃない。
「自分に都合のいいことだけ言われても納得なんかできない。……って、聞いてる?亅
「ちょっと待っててね。今すぐ作るから」
「そんなことより、浜の家で柿崎と君が見せた態度だよ」
「態度?」
「…………通い妻とか言われて、押し黙ったときのことっ!」
「?」
「……まさか、覚えてないのか?」
「よくわからないけど、柿崎さんの家なら行ったわよ」
「ほらっ!」
「打ち合わせにね。通い妻とか、冗談でも言わないで。柿崎さんと変な関係になったことなんてないから……」
流し台の下から鍋を出して水を入れます。たっぷりと。今夜はパスタですから。
「……柿崎さんが何て言ったのかは知らないけど、面と向かってわたしに好きだなんて言われたことなんてないわよ。あなた、からかわれたんじゃない?」
コンロに火をつけ、玉ねぎの皮をむいて水洗いし、包丁を持ってまな板の上で刻みます。
「なるほどね。柿崎の家に行ったことは認めるんだ。そうすると、通い妻と言われるくらいに通っていたことも認めるんだな?」
……通い妻? それは言うなって、今言ったわよね!
「おい、包丁をこっちに向けるのはやめろ」
「あなたこそ、そろそろパンツを履いたら? 凶器をむき出しにしてるのはお互い様でしょ?」
わたしの後ろで、こっそり砲身を向けたリしないでよ。
まったく、何に興奮してるんだかっ!
❑❑❑❑
「……今、履くよ」
壁面収納の引き出しからトランクスを取り出します。
ふざけるな。さっき流し台の下を漁るのに四つん這いになって尻をふりふりしてたのはお前だろっ!
腰をくねらせて、俺を誘っているようにしか見えなかったぞ。
お前、柿崎の家でもおんなじことをしてたんじゃないのか?
もしも、それを何の考えもなしにしてるんだとしたら、お前は、ナチュラル・ボーン・ニンフォマニアだっ!
そんなことをぶつぶつ言いながら下着を身に着けます。
❑❑❑❑
フライパンにごま油を引いて刻んだ玉ねぎを炒めます。しんなりしたら細火にして。そうするうちにお湯が沸騰したのでパスタを広げて入れます。後でシチューとからめるから塩は入れません。
「あいつの家に泊まったんだろ?」
「そんなことしてないわ」
「なら、聞くけど、後援会の人達が噂するくらいに親しく見えた理由が必ずあるはずなんだ。それが何か言えるのか?」
「さあ? でも、打ち合わせのときにご飯を作ってあげたことはあったわ。それに」
レトルトシチューを箱から出し、水洗いをしてパスタの鍋に入れます。
「……掃除をしてあげたことも」
「何で今まで言わなかったんだ?」
「別にたいしたことじゃないでしょ? それに、あなたに報告するにしても、あんな関係のない人達の前で言うことじゃないわ」
水を流しながら少しずつ鍋からお湯を捨てます。熱湯が飛び散らないよう、流し台と排水パイプが熱で傷まないよう、そっと、そっとね。ベコンと音を鳴らせるなんて主婦失格だから。
「たいしたことじゃない? そうじゃないだろ? 現に色んな人が君と柿崎のことを噂してる。事実上の夫婦とか言われて、俺の居場所はどこにもない」
パスタをフライパンに移し、レトルトシチューの封を切って回し入れて、細火でグツグツと煮込みます。玉ねぎと馴染むように。
「気にしすぎよ。わたしはそんな噂を聞いたことないわよ」
「本人の前で言うわけないだろ。後援会で噂になってたことを知って俺は驚いたんだぞ」
「そうね。あれにはわたしも驚いたわ」
「まるで他人事だな」
「あなたは、後援会で噂になって自分の居場所がなくなったって言うけど、そもそもあなたは後援会とは関係ないじゃない。
そんな会ったこともない人達があなたと関係ないところで何か言ったとしても、気にするほうがおかしいわ。わたしなら平気だわ」
「君はそうでも、子供達はどうなんだ? 学校で何か言われたりしてるんじゃないのか」
水分を飛ばして段々と煮詰まってきたら完成です。お皿に盛って、胡椒をぱらり。
「子供達からそんなことを聞いたことはないわね。それに、柿崎さんは今月で後援会の役員を引退よ。打ち合わせもないし、会うことがなくなれば、噂なんて誰もしなくなるでしょ。まったく、誰も彼も暇なんだから」
さあ、召し上がれ。
❑❑❑❑
とりあえず、口論をやめてパスタをいただきます。
長年食べ慣れた味は、私の口に合っていて文句のつけようもありません。私が同じように作っても、妻のように美味しくはならないのです。まるで魔法にかけられたようにあっという間に皿がきれいになりました。
私の皿が空になったことに気づいて、妻が自分の皿から分けてくれました。
こうして、二人きりで食事をするなんてもう十年以上なかったことです。それだけで豪華な食卓です。
目の前でパスタをフォークで巻く妻を見るのも新鮮で、もう一度やり直せたらなと思ってしまいます。
ですが、裏切ったことを隠そうとする人間は同じことを繰り返します。
このままでは、妻が柿崎と別れたとしても、第二、第三の柿崎が現われるだけのこと。あるいは第一とよりを戻すことも。
夫婦の信頼関係とは、つまるところ、無条件で相手を全面的に信じられるということだと、なぜ理解できないのでしょうか。
遠く離れた町のこととはいえ、妻に愛人がいると噂されて夫が平気なはずがないということが、どうしてわからないのでしょうか。
食器と調理器具を洗っている妻の背中を見ながら深くため息をつきました。
❑❑❑❑
「シャワー浴びてきてもいい?」
遠慮がちに夫に尋ねます。冷房が効いた新幹線での移動とはいっても、道中は暑く、汗もかいています。臭いも多分してるはず。
でも、触れ合うときに、夫がシャワーを浴びていないほうが好きだというのはなんとなくわかっていますから。
「そうだな。俺も後から行くよ」
「えっち!」
脱衣所に向かうと、着ているものを脱いで、深紅のショーツを履き直します。夫を迎え入れるために。
そのままシャワーを浴びていると、夫が入ってきました。
わたしの股間を見て驚いています。
「そそるでしょ? これ」
夫が黙ったままわたしを抱きしめました。
❑❑❑❑
食後のデザートに妻の体を味わおうと、浴室に入った瞬間、私は自分の切り札が失われたことに気づきました。
あの破廉恥な性具の存在を妻と柿崎にぶつけて、その反応から二人に引導を渡すつもりでいたのに。
その上、「そそるでしょ」だと!
そのとおりだよ!
妻を抱きしめました。
そそるよ! 見てのとおりだよ! 見えなかったとしても、お前の腹に当たってるからわかるだろっ!
こみあげてくる気持ちを伝えたくて、キスを求めました。妻が応えてくれるのをいいことに舌を絡ませたり、吸いついたりして口中を味わい、髪の毛と尻をなで回しながら、手のひらと指に妻の形を覚え込ませます。
いつか離れていくのなら、今このときを無駄にしたくない。
別れた後、仮に他の女性と触れ合うことがあったとしても、その感情に揺らされることなく、十数年の人生をともにした女性のことを隅々まで覚えていたいから。
私は妻の前にしゃがみこみ、シャワーに頭から打たれながら夢中で舌を這わせます。理性は吹き飛んで一匹のケダモノとなり、忘我の虜に堕ちるまま、獲物にむしゃぶりつきます。
もう、何もかもがどうでもいい。今はこの女を喰らい尽くす!
やむことのない嵐の中で、逃さぬように尻を掻き抱いて、尖らせた舌を触れるか触れないかのタッチでひたすら妻の歓喜を汲み出します。
その勢いを緩めることなく、妻の股をくぐり、下から狂ったように舌を突き出し、人倫の境界を踏み越えてえぐります。
やがて、立っていることができなくなった妻がしゃがみこみ、狭い浴室ゆえに立ち上がるしかなかった私の下で、舌を這わせ、吸いついてむさぼり喰らい始めました。
道具も何も使わない原始的な営みの中、二人しておのれの体を相手に差し出し、ただ相手を悦ばそうと、思いやりをこめて愛情を注ぎます。
そうして、このわずかな空間で身をよじりながら甘美な世界を創りあげ、ただ感情のおもむくまま、うねりの中を駆け上がり、るつぼの底へと駆け降りていつしか泥のように崩れ落ちて互いの唇を求めあっていました。
❑❑❑❑
この家には布団は一組しかないはずです。
だから、夫にも狭い布団での同衾を我慢してもらいます。
体をタオルで拭いただけのまま、タオルケットに潜り込みました。洗ってない枕カバーから夫の匂いがツンとします。
夫が明かりを消して隣に入ってきました。
暗闇の中、夫が触れてくるのを待っていると、「コンドームはないんだけど、大丈夫なのか」と聞いてきました。
「一応持ってきてるわ。でも、ピルを飲んでるからそのままでも平気よ。あなたが帰って来たときに生理で応えられないなんて嫌だから、病院で処方してもらったの」
「そういえば、妊娠検査薬があったね。あれはどういうつもりで?」
「生理が止まったのが、ピルの効果なのか、妊娠したからなのかわからないでしょ? 不安解消のためね」
「この間、コンドームを数えたら数が合わなかったんだけど?」
「さあ、どうしてかしら? ああ、そうか。掃除してたら何枚かベッドの脇に落ちてたのを見つけたのよ。それを元のところに戻したからじゃない?」
「……そうか」
「ほこりはきれいに拭き取っておいたから大丈夫よ。パッケージは破れてなかったし。それとも気になる?」
「いや、そうじゃなくて……もういいよ」
「どうする? 眠る? それとも?」
夫は、黙ったままわたしに覆いかぶさってきました。
❑❑❑❑
妻を体ごと揺さぶりながら、私の頭は冷静でした。
私の望みは、たった一つだけ。
家族と暮らしたい。妻を信頼したい。たとえ家にいなくても、自分の居場所がそこにあるのだと信じたい。
そのどれもが叶わず、そして、妻はまた一つ嘘を重ねました。いや、二つ、三つか。
柿崎とのことを正直に話してほしい。壊れた絆でも妻が柿崎への思いを断ち切れるのなら、もう一度やり直せるはずだ。
だけど、あの町で妻と柿崎が噂され、陰で笑われるのはごめんです。せっかく買った家だけど、そんな町で暮らしていくことはできません。
ましてや、妻と体を重ねた男がいる町でなんて。
それでも、子供達の生活を考えると──
そんな私の悩みにも気づかないでしがみついてくる妻を、振りほどくこともできずに、ただ、つのる不満を快感に乗せて吐き出しました。
そのうち、旅の疲れが出たのかスヤスヤと眠り始めた妻の胸に腕を置いてみます。
十代のころ、小説で読んだ胸の上に腕を乗せると夢見が悪いというくだりをまねして。
妻が眠りに落ちる直前、つぶやくように言った言葉のせいです。
『柿崎さんはわたしを守ってくれただけなの』
その言葉のどこに、柿崎との関係を断ち切る気持ちがあるというのか。
悪夢でも見て少しは反省しろ!
【あとがき】
いずみ「第17話『そして烈火に漲る』を読んでいただきありがとうございます」
啓太「このあとがきは、作者に代わって副音声ふうに僕達でお送りします。
いずみ「テレビを見ていると、世界が変えられていくことを実感するよ」
啓太「ウクライナ侵攻。心が痛むね」
いずみ「悲劇の前にあたし達は力が足りないけど、それでも、Zとかオデーサとか、映像とか名前を既存の言葉と結びつけられると、心まで侵略されたような気がする」
啓太「チェルノブイリとかオデッサという名前には歴史的な意味合いがあったし、Z旗は日露戦争という日本台頭の象徴だったね。それにフェアレディZの由来にもなってる。最後の、究極のって意味なんだ」
いずみ「あたし的には、マジンガーZ、ドラゴンボールZ、Zガンダム、ZZ、ケロロ軍曹ZにZかな」
啓太「ケロロは乙ね。Z?」
いずみ「知らないの?NATO情報部のクラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ少佐の部下で、青池保子先生の作品の主人公」
啓太「そもそもが、きな臭かった!」
いずみ「あとZ会。高校生のころ、いつの間にか机の上が侵略されていた」
啓太「……それは、いずみちゃんが答案を提出しないからだよ」




