第16話 そして毀損に呻く
ぶっはああぁっっ!
爽快っ!
この一言につきます。
乾いた喉を、ごきゅんごきゅんと音をたてて落ちていく生ビール。
濡れたジョッキは、クーラーの効いたこの浜の家の屋内と比べても格段に冷えている証し。
もう、これだけでいい。つまみなど今はただの雑味にすぎない。とか言いながら、お通しのきんぴらごぼうを一口。
そうやって体の芯から涼をとること1時間、やっと後援会の面々らしき人達が現れました。
私の目の前には既に二本目の冷酒のとっくりが転がっています。
繰り広げた戦場にはイカの塩辛、焼き鳥の塩、馬刺しを平らげた小鉢と皿と串が並び、高揚した気分はこれから始まる尋問会に向けて虎視眈々と獲物の到着を待っています。
座敷席の障子は開け放たれ、カウンターからも様子が見て取れます。
後援会の人達は、何があったのか、口から泡を飛ばして口論をしながら座敷に上がり、それぞれに席を取り始めました。
やがて、ひまわりのような山吹色のカーディガンを着た妻が私の後ろを通っていきました。その後ろには、柿崎が。
二人は座敷に上がると隣同士に座りました。カウンターの私に気づいている様子はありません。
しばらくすると、乾杯という声を合図に急に賑やかになりました。やがて、コップを持って席を移動する人も現れ、座敷のあちらこちらで輪を作って盛り上がっています。
妻と柿崎も話をしています。誰も二人に近寄ろうとはしません。
柿崎が顔を上げて、私を見ました。
どうやら私に気づいたようです。私もその視線を受け止めて軽く会釈します。柿崎が大きくため息を吐いたのがわかりました。
妻が困ったように私を見ています。
それを見た柿崎が立ち上がりました。
さあ、始めようか。その女が誰のものか、思い知らせてやろう。
❑❑❑❑
「残念ながら全国大会に出場することは叶いませんでしたが、生徒達は精一杯頑張りました。
武道とは、勝ち負けを超えたところでおのれの身心を鍛えることに意味があるといいます。ですが、本来、剣の道において、負けることは死を意味します。
我々は負けて死んだ。
だからこそ、ここから始めよう。来年こそは全国大会。
去年もそう言ってきたが、チャレンジは続く。戦うのは生徒達だとしても、我々もともに夢を見よう。
有志の皆の情熱が生徒達に伝わらんことを願って、乾杯っ!」
「「「「「「「「「「「乾杯っ!」
会長の乾杯の発声が終わると、いきなり瓶ビールとコップを持った車座があちらこちらにできました。
仲のいい友人同士で今回の大会について話をしています。あの中学の誰の打ち込みがすごかったとか、足さばきが見事だったとか。
席についているのは、友人のいない私と大原さんだけです。
その大原さんは、「お疲れさまでした」と言いながらビールを注いでくれています。
「もう、大原さんには会えないだろうと思っていました」
「あら、どうして?」
「前回の、大島さん、でしたっけ? あの人が許さないだろうと」
「その人なんだけど……今、いるのよね」
「この店に?」
「そう。カウンターに」
確かにいました。
一人でお酒を飲んでいるようですが、何が楽しいのか? こんなどこにでもある居酒屋で、ありきたりの肴をつまみに大量生産された酒を飲むなんて。
その食へのこだわりの無さにうんざりします。
食材や料理人の良し悪しもリスペクトも置き去りにして、安酒を適当なつまみで飲めればいいとか、私とは相容れそうにありません。
どうせ、居酒屋で飲むのも調理や後片付けを嫌っただけのことでしょう。
「あの男は大原さんを監視してるんですか?」
「違うのよ。柿崎さんと話してみたいって」
「私と?」
「そう」
「どうして?」
「わたしと柿崎さんが仲がよすぎるんじゃないかって、疑ってるみたいなの」
「そんな、ばかな」
「だから、言ってほしいの。ただの友人です。疑われるようなことは一切ありませんからって」
「ふぅっ」
呆れてため息が出てしまいます。大島だけでなく、大原さんにも。
「お願い」と手を合わせていますが、そんな戯言に付き合う気持ちも義理もありません。
ですが、大原さんに会うのもこれで最後です。困っているのなら、「何の関係もありませんよ」と言うくらいのことはしてもいいでしょう。
もう一度カウンターを見て、「あの男ですか?」と確認します。
大原さんの顔がぱあっと明るくなりました。ずるいな。そんな顔を見せるなんて。
気持ちが揺れてしまうじゃないですか。
席を立ち上がり、大原さんに連れられてカウンターへと向かいます。
大島の席から一つ離れた席に座ると、大原さんが間に入りました。
「こちら、柿崎さん。啓太の部活の後援会でお世話になったの。こちらは大島さん。わたしの、兄です。ねっ、お兄ちゃん?」
「えっ、ええぇぇぇええっ!」
あまりの驚きに思わず大声をあげてしまいました。
……兄? まさか、兄妹で?
いや、しかし、これで全部わかった。大原さんがストーカー被害を警察に届け出ない理由も。
大島の自信満々の態度の理由も。結婚前から? だけど、それはいいのか?
人倫に反する事実を知って、背中を汗がつぅと流れていきます。
近親相姦、その事実に。
❑❑❑❑
とっさに思いついた兄という設定ですが、われながらグッジョブ!
これなら、わたしと柿崎さんの関係を心配する理由になるし、夫が偽名を使ったことも隠せて恥をかかせないで済むんじゃない?
柿崎さんにしても夫と紹介されるより気楽でしょ。何もなかったわけじゃないんだから。
夫にも友人にも優しいわたしのこの気配り。さすが、わたし。
何度でも言います。
そうだ、兄妹。
兄ですって言えばいいのよ。やぁねえ、なんでこんな簡単なことに気づかなかったのかしら?
ほぼ1か月悩んでいたことが、こんなに簡単に答えを出せたなんてっ! わたし、もしかして天才?
土壇場に強い? 断頭台から始まる妻の逆転ストーリー?
なのに、この二人、「え〜」とか言っちゃって。反応が薄くない?
特に、あなた。拍手するところよ、ここは。
大原里美、絶好調っ! 快進撃は止まりませんわっ!
❑❑❑❑
お兄ちゃん、だと?
驚きの声をあげて、思考回路がフリーズしてしまったことを悔やみます。
この女、なんてものをぶちこんできやがるっ!
やがて、再起動した脳が導き出した次の一手は。
「ああっ。柿崎さん、誤解しないでくださいね。義理の兄ですよ。里美は私の亡くなった妻の妹なんです」と言いながら妻を睨みつけます。
このポンコツがっ!
口をとがらせて不満そうにしているポンコツ妻は放っておいて柿崎に話しかけます。
「先月来ですね。あのときは突然帰ったりして失礼しました」
「……大島さんでしたっけ?」
「とりあえず飲みませんか? オヤジさん、冷酒とグラスを一つ」
「こちらのお嬢さんのはいいのかい?」
「……じゃあ、こちらの姫様には水道水、じゃなかった。ウーロン茶を」
「はいよ」
柿崎にグラスを渡し、冷酒を注いで「乾杯」と勧めます。
酒の席では、こういうやりとりの積み重ねが、お互いが心を開くのに必要だと知っていますから。
真ん中に陣取ってるやつが邪魔だけど。
けれど、この男、グラスに口をつけようとしません。それは私を警戒している証拠。
すなわち、妻との関係を聞かれて、正直に全部を包み隠さず話すつもりはないということ。
ですが。
「私と大原さんの仲を疑ってると聞きましたが、大島さんが心配されるようなことはありませんよ。それより、先日は大島さんのほうが大原さんと仲が深そうな話をされてましたが、そのことを大原さんのご主人はご存じなんですか?」
と、のっけから攻撃的です。
「義弟を悲しませるつもりはありませんよ。ですが、他の男なら話は別です。その意味でなら、私と柿崎さんはライバルですね。しかも、柿崎さん、あれほど自信ありげだったじゃないですか。里美は俺のものだとでも言いたげで。あれを見せられたら、私としても黙って見ているわけにはいきません」
「俺のもの? そんなことは言ってませんよ。適当な言葉で牽制しなくても心配はいりませんよ。前回から1か月、大原さんとは会っていませんし、電話やメールもしていませんからね。そんなことより、大原さんのご主人の不在をいいことに、私のことをだしにして大原さんに近づくのは感心しませんね」
「そうですか? 柿崎さんこそ、打ち合わせを口実に里美と食事をするとか、まるでデートじゃないですか。里美の夫の不在をいいことにというのは、柿崎さんのほうですよ」
「働いている私の都合に合わせて時間を融通してもらったんですよ。それで食事に誘っただけです。そのくらいのことでいちいち目くじらを立てられてもね」
「それが毎週ともなると、ただならぬ関係と考えるのが普通じゃないんですか?」
「目的は食事ではありませんよ。後援会の打ち合わせですから」
「焼肉屋、寿司屋。そんな書類も広げられないところで打ち合わせですか?」
「書類仕事だけが打ち合わせじゃありません。そうでしょ、大原さん」
「えっ? ええ、そうね」
この男、卑怯にも里美に振りました。もう容赦はしません。
「じゃあ、美術館は?」
「それは……」
口ごもった様子に、救いの手を差し伸べます。
「柿崎さん。私は柿崎さんを責めに来たんじゃない。場合によっては柿崎さんの潔白を証言してもいい。正直に答えてください。里美をどこに連れて行ったんですか?」
「……美術館と郷土資料館。それに図書館」
中学生かよっ!
妻を見ると、苦い顔をしています。その様子に事実だと確信します。
「……そうですか。てっきり映画やカラオケ、ボウリングを予想していたので」
「あっ、いえ……」
「嘘はだめですよ。柿崎さん?」
「あ、一度だけカラオケに。でも、それだけですから。カラオケなんて中学生だって行きますよね?」
「……行きますね。隠すほどのことでもないし」
「そうですよね」
「まあ、そこで何をしたかが問題ではあるんですが。ほら、防音がしっかりしてるからセックスしても声がもれない」
「「そんなことして」」
「ないっ!」「ません」
「たとえばの話ですよ。柿崎さん、私が望むのは里美の幸せなんです。義弟が里美を幸せにしていないのなら、私が里美を幸せにしたい。亡くなった妻が大切にしていた妹なんです。
だけど、妻の両親はどう思うでしょうか。亡くなった娘のことを簡単に忘れる非情な奴だと思わないでしょうか。だから、私の代わりに柿崎さんが里美を幸せにしてくれるのなら、応援しますよ」
「何言ってるのよっ!」
「里美、ちょっと黙っててくれ。今は柿崎さんの気持ちを聞いてるんだ。君だって疑われるのは嫌だって言ってただろ?
……だけどね、柿崎さん、ただの遊びのつもりで里美を誘っていたのなら、もうこれ以上は関わらないでほしい」
「遊びだなんて……」
「じゃあ、本気なんですか?」
「本気とか、そういうんじゃ……」
「私が妻を亡くしてからも里美の家族や義弟と付きあってきたのは、里美のことを近くからそっと見守りたいと思ったからです。義弟なんて関係ありません。
あいつが不甲斐なく里美を奪われたとしても、それが里美の決断なら私は応援します。柿崎さんのことだって義弟に知らせるつもりはありません。だから、正直に話してもらえませんか。
本当は里美とセックスしたんでしょ?」
「してないわよっ!」
「してません」
「里美? いい加減にしてくれないかな。俺は君の味方だと何度も言ってるだろ?」
「だってぇ……」
「柿崎さん、大丈夫ですよ。
ここだけの話にしますから。誰にも言いません。天地神明にかけて誓います。そうですね。神様なんて信用に値しないから、一筆書きましょうか?
ここで柿崎さんが言ったことを他言したらお金を支払う。200万。どうですか?」
「200万?」
「人妻と不倫したときに裁判所で認められる損害賠償額の相場ですよ。ひどい話ですよね。家庭が壊され、人生がめちゃくちゃになっても、賠償額は新車1台にやっと手が届く程度の金額だなんて。
金持ちが不倫をやめないわけですよ。人妻を夫から奪う快感に比べたら端金ですからね。
……どうですか? 里美と不倫したことが義弟にばれても、そのお金が補填されるのなら柿崎さんに不都合はないんじゃありませんか?」
「いや、そんな」
「柿崎さん、しっかりしてください。そんなこと、してないじゃないっ!」
「まあ、いいですよ。でも、気が変わったらいつでも言ってくださいね。
……ただね。心配なのは子供達のことなんです。保護者の間で噂になったりすると、子供が学校で肩身の狭い思いをするから。
里美と付き合うにしても、そこのところは気をつけると、それだけでも今、約束してくれませんか? そうしたら、もう何も聞きませんから」
「いや、私は……」
「そんな心配は御無用です。わたしと柿崎さんはそんな関係じゃありませんからっ!」
「何、話してるのぉ?」
「里美ちゃんがいないからさぁ。出張してきちゃった」
「そうそう。いつの間にかいなくなってるから、また、二人して黙って帰ったのかなって。今頃、ラブホかなって」
「いや、柿崎さんちだろ? 一緒に家に入るのを何度か見てるもんね」
「買い物して家に行ったり、もう、柿崎さんの奥さんみたいだったからね。通い妻?」
いつの間にか後援会のオヤジ達が集まってきていました。
……家に行った? 買い物? 通い妻?
妻から聞いていないことを聞かされ、あ然とします。
慌てて妻を見ると、驚きで目を見開いています。柿崎は口を開けたまま微動だにしません。
これは完璧な証拠といっていいでしょう。酔払いオヤジ達の言葉ではなく、妻と柿崎の態度、様子が。
ならば、後は柿崎に引導を渡すだけ。
と思ったのですが、正気を取り戻した柿崎がオヤジ達を「いい加減にしてくださいっ!」と叱り飛ばしました。
「適当な嘘を言って大原さんに迷惑をかけるのはやめてください。私と大原さんはそういう関係じゃありませんから」
そして立ち上がると、私を見下ろして「大島さん」と声をかけてきました。
「今のが、私の答えです。
大原さんとは親しくさせていただきましたが、誰かに後ろ指をさされるようなことはしていませんし、今、この人達が言ったような関係ではありません。
大島さんが大原さんを心配する気持ちはよくわかりました。けれど、私が後援会に参加するのは今日が最後です。大原さんとお会いすることももうないと約束しますよ。
もう、いいですね。皆さん、座敷に戻りますよ。ほらっ、そんなところに座ってないで。お店に迷惑でしょ」
そう言ってオヤジ達の背中をつかんで立ち去って行きます。
オヤジ達の首が締まって、くきゅっとか言っていますが、手を緩める気はなさそうです。
残された妻はじっと下を向いていましたが、座敷から幹事らしき女性が「大原さん!」と声をかけたのをきっかけに、私のほうを見ることもなく、座敷に戻ってしまいました。
後に残されたのは、私一人。
だけではなく、オヤジも二人。
「あ〜あ、行っちゃったねぇ」
「里美ちゃんがぁ絡まれてると思ってぇ来てみたんだけどぉ」
呂律が回らない口調に、宙をさまよう目、完全に酔っ払っています。
「お二人は柿崎さんと里美が付き合っているのを知ってたんですか?」
「そ〜なんだよ〜。柿崎さんと里美ちゃんがぁ、ラブホテルの前にいたのを見たからねぇ。あれは、やることやって出てきたところだったんだろ〜なあ」
「家に泊まったりぃ、ご飯作ったりぃ、も〜、完っ全っに、柿崎さんの嫁なんだよぉ」
……ラブホテル? 泊まった? ご飯を作った?
「でもなぁ、お似合いだからなぁ」
「そ〜なんだよな〜。それで、だ〜れも文句言わないんだよな〜。事実上の夫婦だからなぁ」
「嘘よっ! この人達、酔っ払っていい加減なことばかり言ってるのよっ!」
いつの間にか戻っていた妻が大声で叫びました。
こんな修羅場は私の望むところではありません。早々に帰るつもりで、座敷から見ている柿崎に最後の質問を投げつけます。
「家に泊まったとか、ご飯を作ったとか、事実であれば、柿崎さんと里美しか知らないことでしょ。それをどうして他の人が知ってるんですかっ!」
「大島さん、落ち着いてください。そんな事実はありませんから」
ならば、二人を攻めるしかありません。それに、嘘をつかれて困るのは子供達です。嘘ならそれを認めさせないと。
「お二人はどうやって知ったんですか? それとも適当な嘘を言って柿崎さんと里美を陥れようとしているんですか。だとしたら最低ですねっ! いくら酔っ払っていても、やってはいけないことがあるってわからないんですかっ! いい年をしてっ!」
「いや、いや、見た人がいるし」
「泊まったとか、食事をしてるのを?」
「それは……」
「それを聞いてるんですよ。今なら嘘でしたと言っても間に合いますよ。嘘をついたんですか? こんな大勢の前でっ!」
「あ〜、すまなかった。柿崎さんの家の近くのコンビニで里美ちゃんが買い物をしてるのをよく見かけるし、食材や洗剤を買って柿崎さんの家の方に行ってたからそうじゃないかと思ってたんだ。
ほら、里美ちゃんちは逆方向だろ? もちろん泊まったのを見たわけじゃない。買い物をしてたのが夜だったからそうじゃないかと勝手に思ってただけなんだ。
柿崎さん、里美ちゃん、すいませんでした。皆さんもお騒がせして申し訳ない。ほら、お前も謝れ。わしら、今日はこれで帰るから」
すっかり酔いがさめた様子で「すいません」と、オヤジ二人が店を出ていきます。
この騒ぎの最中、他の客は帰ってしまい、浜の家は後援会の貸切状態になっていました。
静かになった店内で、「いやぁ、驚いたね」と声を発したのは、代表者らしき男。
「とかく噂には尾ひれがつくもんだ。でも、これで柿崎さんと大原さんは噂になっているような関係じゃないって証明されたね。皆さんも誤解されないように身を慎んでくださいよ」
事態を収拾し、皆に座敷に戻るよう話します。
「柿崎さんも大原さんも、今後は気をつけてください。お子さん達の学校生活にも関わることですからね」
柿崎と妻は、代表者の指示で座敷に戻ると、向かい合って話をしています。
二人の真剣な表情からこちらまで緊張感が伝わってきますが、周りの人達は気づかないものなのでしょうか。それとも不倫のもつれ話に関わりたくないと逃げているのでしょうか。
そうだとしたら、妻と柿崎の噂はかなりの大勢の耳に入っていることになるのですが。
私達家族が知らないだけで。
『でもなぁ、お似合いだからなぁ』
突然、酔払いの言葉が頭に浮かびました。
こうしてカウンターから眺めていると、周りの喧騒から隔離された二人だけの世界を作っているようにも見えます。
そして、たった一人残された私は、割り切れない思いを抱えたままカウンターに居座る惨めさに堪えられず、勘定を払って店を出るしかありません。
暗い夜道で思い浮かぶのは、二人だけの世界で見つめ合う柿崎と里美の姿。
それは、中学の頃から好きだった女の子にいつの間にかボーイフレンドができていたのを、遠くからただ見ているだけだった高校時代。
美男美女のカップルとはやし立てられ、それでもさわやかに笑ったあいつと、はにかむようにうつむいた彼女。
とうていかなわないと思い知らされたあの日。気持ちを伝えることもなく、終わった初恋。
今夜の私と柿崎の対決は、おそらくは私の圧勝。けれど、もっと深い、根本的なところで、私は柿崎に負けた気がします。
こうして、多分、私は負け続けるのでしょう。今回もまた。
『事実上の夫婦だからなぁ』
そう、あの酔払いが言ったとおり、私の居場所はもうこの町にはなかったのだと思い知らされて。
❑❑❑❑
「大原さん、これは友人としての忠告だけど、あの男とは距離を置いたほうがいい。どう見ても普通じゃない。いくら亡くなったお姉さんの夫だった人だとしても、大原さんに対する執着は尋常じゃない」
確かに、何かに取り憑かれたように興奮する夫の姿には常軌を逸した様子が見られました。
けれど、それをこの人に言われる筋合いはありません。
何をどう言い繕おうと、楽しんできたのは、わたしとこの人。
その裏でつらい思いをした夫がいるということにこの人は気づいていない。
『誰かに負担を押しつけざるを得ないなら、その中心で泣き叫ぶ声を受け止めたいと思ったから』
そう言った口で、『どんなに話し合おうと、泣く人は必ず出てきます』『他に方法がなかったのか、次はどうするのか』と、切り捨てる言葉も優しく口にできる人に、本当に人の心はわかるのでしょうか。
柿崎さんの優しさは多分嘘ではないのでしょう。
けれどそれは、とても高い所から見下ろした優しさで、馬鹿なわたしはそれに気づいていなかった。
この人の心も、大切にしているものも、おそらくは現実には存在していないような気がします。どこか別の次元からこの世界を眺めているような。
だとしたら、わたしがいるべきところはここではありません。
「大原さん?」
「ごめんなさい。わたし、帰りますね」
そう言って座敷から下りたときにはすでに夫の姿はなく、空のカウンターとテーブル席が並んでいるだけでした。
立ちすくむわたしに、店主が黙ってあごで出口を指し示しました。
❑❑❑❑
大原さんが店を出ていくのを見ながら、手酌でビールを注ぎます。
結局、大原さんを大島の手から救うことはできませんでした。
自分の無力さが情けなくなります。
たった一人の女性を守ることもできないなんて。けれど、私には大切な妻がいます。妻を守るためなら、何を切り捨ててもやむを得ないと、コップをぐいっと空けます。
ですが、久し振りに会った大原さんはとてもきれいでした。目を閉じると、まぶたの裏にその姿が焼きついています。
そこへ、大島が大原さんの体を組みしだいている想像が割り込んできました。
今夜も鬱々とした夜を過ごすことになりそうです。
❑❑❑❑
息を切らして追いかけたつもりでした。
けれど、背中を見ることすらできず、家に着いたわたしを出迎えたのは、キャリーバッグを片手に出かけようとする夫でした。
「早かったね。あいつが送ってくれるんだから、もっとゆっくりしてもよかったのに」
「どうして先に帰ったのよ。あなたが帰ったって聞いて急いで帰ってきたけど、置いていくなんてひどいじゃないっ!」
「座敷に行ったまま帰ってこなかったからね。それに、どうせ柿崎が送ってくれるんだろ」
「酔ってないんだから一人で帰れるわよ」
「今日は、君が柿崎と話してくれというから戻ってきたんだ。話が終わったら帰るのが当然だろ? だけど、君と柿崎のことが噂になっているなんて思いもよらなかった。てっきり俺と君と柿崎の3人で解決できるとばかり思ってたんだ。
それが、君と柿崎がラブホテルから出てくるのを見た人もいたとはね。そんなことを聞かされるはめになるなんて思いもしなかったよ」
「嘘よっ! そんないい加減なこと信じないでよっ!」
「もう、問題はそんなところにはない。君と柿崎の関係が、事実上の夫婦だって周りに噂されていて、子供達の周辺で公知の事実として認識されている。
連中からすれば、浮気相手はむしろ俺のほうなんだろうな。そんなところに俺の居場所はないよ。それに比べたらセックスしたとか、しないとかなんて些細なことだ。
なあ、もう、いいだろ? 正直に言えよ。柿崎とセックスしたんだろ?」
「あの人達が言ったことを気にしてるのね。いい? 柿崎さんの家に泊まったことなんてないし、セックスなんて冗談じゃないわ」
「柿崎はずいぶんと紳士的な男だね。ハンサムで優しくて物腰も柔らかい。誰からも好かれて友達も大勢いるんだろうな。君が好きになっても仕方がないと俺は思うよ」
「柿崎さんのことを好きだと思ったことは一度もないわ。後援会の仕事をしてたら一緒にいることもあったけど、それは」
「それはわかってる。仮に後援会の仕事とは関係ないところに行ってたとしてもね。美術館とか、郷土資料館なんて君の趣味じゃないからね。でも、柿崎と一緒にいると楽しかっただろ?」
「柿崎さんと一緒に食事したり、カラオケに行ったことを言ってるのね。楽しくなかったと言ったら嘘になるけど、それでもわたしが嬉しかったのは、柿崎さんがわたしを女性として扱ってくれたことなの。それに心がときめかない女性はいないわ。
それは恋じゃないけど、結婚してから忘れていた、いえ、忘れたふりをしていた世の中の動きに触れた喜びなの。知ってる? わたし、子供を産んでからちゃんと話ができたのは、あなただけなの。
子供達が話してくれたこととテレビ画面がわたしの世界、外側に向けられた窓だったの。着飾って外出してもどこにも居場所はなくて、誰からも相手にされずにこの家に帰ってくる、そういう生き方をしてきたの。あなたが仕事から帰ってきて、今日の出来事やテレビニュースで知ったことを話して、それに返してくれて、やっとこの世界の一員だって思えるの。
たったそれだけのことがここずっとできてないじゃないっ! それは、わたしのわがままなの? こんな生活がいつまで続くのっ?
それなのに、たまに帰ってきたあなたは、わたしのことをずっとご飯を作ったり、掃除をしたり、洗濯をする人としか見てなかった。
わたしと話をしていてもいつの間にか寝ていたこともあったわね。疲れているのはわかるけど、一人ぼっちのわたしの気持ちはどこに持っていけばいいの?
そんなとき、後援会の仕事をすることになって、最初は面倒くさいと思ったけど、やってみたら楽しくて、昨日できなかったことができるようになって。
そうよ。柿崎さんに会ったら心がはずんだわ。でも、それだけなのよっ!」
「君の置かれた状況も俺の置かれた状況も、どうすることもできない。だからと言って、浮気を正当化したり、隠し事をするのはおかしいと思う。俺が間違ってると思うんだったら、離婚してくれないか?」
「なんでそんなこと言うの? あたしは嫌よ。絶対に離婚なんかしないから」
「君は、不倫はしていないと言う。セックスなんて冗談じゃないって。だけど、今日、柿崎と話して俺は確信したよ。
君と柿崎はセックスをしている。間違いなくね。
これは裁判じゃないから、証拠なんていらない。夫婦が終わるのは、互いが、あるいは一方が相手を信用できなくなったときなんだ。
君は嘘をついた。柿崎と一緒になってね。俺の中でこのわだかまりが消えることは絶対にないよ。
そして、君は自分ではなく嘘のほうを信じる俺に不満を持っているんだろうな。なら、仮にこの結婚生活を続けたとしても、お互いにわだかまりが残るだけだろ。
だから一度自由になってよく考えてみればいいんじゃないかな。君は俺と柿崎を比べて本当に大切に思えるほうと再婚すればいい。
俺は選ばれなかったとしても君のことを恨んだりしないから。それに、離婚すれば君が柿崎と付き合ったとしても、後援会でおかしな噂をされて子供達が周りから変な目で見られることもないし」
「変なこと言わないでよ。あたしは柿崎さんと何もないのに」
「俺が嫌なのは、俺がいない間に君と柿崎が親しくしていることなんだ。それを遠くから指をくわえて見ていることしかできないのが悔しくてならない。
だけど、いつか、君が俺を選んでくれたらすべてを最初からやり直せるような気がする。そうなったら、仮に君が柿崎とセックスをしていたとしても許せるよ。結婚前のことだからね。
とにかく、今は一緒にいられない。今夜はこのまま帰るよ。今すぐ結論を出せなんてことは言わない。
だけど、最初に言ったとおり、君の置かれた状況も俺の置かれた状況も、俺達でどうにかできることじゃない。
これからどうするのが、君にとっても、俺にとっても、そして子供達にとっても一番いいことなのか、よく考えておいてくれ」
「なんでそうなるのよっ!」
わたしの叫び声を無視して夫は出ていきました。
玄関にうずくまったまま、堪えきれずに漏れ出た嗚咽と涙と鼻水で化粧は崩れ、誰にも見せられない醜態を晒しながら、それでも、わたしは決意します。
絶対に離婚なんかしないんだからっ!
❑❑❑❑
妻が叫んでいます。
その声がドアの向こうへと消えていくのを背にして、私は歩き始めました。
風が後ろから追い抜いていくのを懐かしく感じて空を見上げました。
久し振りに見た満天の星空に、深く息を吸い込みます。赴任先の大都会ではけして見ることができなかった光景に涙があふれそうです。
名も知らない星の瞬きが大きくぼやけて私の心に問いかけます。
本当にこれでよかったのかと。
……だけど、他に道を知らない。




