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第15話 そして道化に墜ちる

 その夜は一睡もできませんでした。


 大原さんのつらそうな顔がまぶたの奥から消えないのです。今頃ひどい目にあっているのではないかと心配でなりません。


 ですが、部外者の私に何ができるというのか。


 大原さんは自立できる大人です。別居中とはいえご主人や家族もいます。


 それなのに、私がしゃしゃり出て、大原さんに迷惑をかけることなどあってはなりません。


 しかも、大原さんが今まで解決できずに抱えていたストーカー問題。


 私が関わったからといって解決できるとは思えません。


『そうすると、泣いている人はいつまでたっても救われませんね』


 大原さんとの何気ない会話の記憶が私をさいなみます。


 ですが。


 本来ならばこれは警察の領分。


 ご主人や家族、あるいは大原さん自身がストーカー被害を訴え、公権力の助けを借りてあの大島を排除しなければ、ストーカーの魔の手からはのがれられないのです。


 その程度のこと、ストーカーに悩まされている大原さんやご主人が知らないはずがありません。


 なのに、そうしないのは、大原さんが大島に弱みを握られ、誰にもそのことを知られたくないということ。


 たとえば、大原さんの不貞の写真、ご主人の犯罪の証拠。


 それとも、大島が大原さんのご両親と行き来があるということは、身近な人からストーカーという犯罪者を出したくないということかもしれません。


 いずれにしても、私の力の及ぶところではないのです。


 だけど。


『先送りするんですね。そうやって』


 大原さんの声が私をえぐります。


 友人を名乗ることすら許されない良心の呵責かしゃくとして。


 あの夜のことを抜きにしても、大原さんは私にとって大切な友人です。このまま何もしないで、あの優しい人の笑顔を曇らせたままでいいのかと。


 今日は火曜日。


 中央図書館で日が沈むまで待っていましたが、大原さんが現れる様子はありません。


 ロビーで缶コーヒー片手に時間が過ぎるのをただ待っているのです。先週交わした雑談を思い起こしながら。


 それは、打ち合わせの空いた時間に交わした戯言ざれごと。過去に置いてきた私の希望ゆめ残骸むくろ


『柿崎さんが美術館とか郷土資料館のお仕事をしてるのは、そういったことに関心があったからですか?』


『いいえ、大学は法学部でした』


『あら、弁護士を志望していたとか?』


『最初はそうでしたね。結局、司法試験を受けることは一度もありませんでしたが』 


『どうして?』


『いつの頃からか気づいたんです。法律で人を救うことはできないと』


『困っている人を助けるのが弁護士ではないの?』


『そうかもしれません。が、違うかもしれない。大学院での研究テーマは公共施設が持つ潜在的財産侵害とその差止訴訟についてというものでした。


 個人や地域の幸福追求権が公共の福祉により制限されるとき、その線引はどこなのか。社会は何をどう選択すべきなのか。


 空港の騒音、原発、ごみ処理施設、基地問題に刑務所や火葬場。どれもこれも社会が必要とした、あるいはこれからも必要とする施設です。


 そんな、人々が必要だと思っていても、自分の生活圏内にはあってほしくない施設。自己を中心に描いた円周上のインフラ。


 民主主義を標榜するわが国では、そんなとき議会の多数決で決めることになっています。


 そうすると、つらい現実は少数に押しつけられ、多数の前にはなすすべがない。


 そこに損害が生ずれば賠償するのは当たり前です。でも、継続的な損害はどうなる? 都度都度、賠償するのか?


 そうなのかもしれません。けれども、それでは困っている人に我慢を強いるだけで、救ったとは言えませんよね。


 それをなんとかするのが裁判所だと、本気で信じていた時期もありました』


『違うんですか?』


『わかりません。ただ、一つだけ言えることは、住民や国民が選挙で選んだ議会で決められたことが、数人の裁判官によってひっくり返される社会は民主主義国家ではありません。


 だから、私は行政に関わる仕事をしたいと思いました。誰かに負担を押しつけざるを得ないなら、その中心で泣き叫ぶ声を受け止めたいと思ったから』


『そうすると、泣いている人はいつまでたっても救われませんね』


『そうですね。ですが、どんなに話し合おうと、法律を整備しようと、泣く人は必ず出てきます。


 大切なのは意思決定のプロセスを可視化し、記録することです。


 すべての情報を整理、公開し、誰もがそれにアクセスできて、他に方法がなかったのか、次はどうするのか、いつでも検証できるシステム作りが必要なんです』


『柿崎さんの考えだと、一定の犠牲はやむを得ない、尊い犠牲は次に生かせばいいってことになりませんか?』


『イノベーションによって社会は変わる。私達はそのことを経験的に知っています。そのために今するべきことをしたいと……』


『先送りするんですね。そうやって。私達県民だってばかじゃありません。情報公開の結果、黒塗りだらけの議事録が出てくることくらい知ってますよ』


『ですから、それは……そうですね。もう少し考えてみます。また、意見を聞かせてください。次の機会にでも』


 わかりましたと言って笑った大原さんがまぶしかったことを覚えています。


 けれど、その機会が訪れることはけしてないのでしょう。


 あのまぶしかった笑顔を見ることも。


 ❑❑❑❑


 時計は約束の午後6時を指しています。


 今日は火曜日、先週までは中央図書館で、柿崎さんとあれやこれやと楽しくお話をして過ごしていました。もちろん、剣道部の事務だってきちんとこなしています。


 けれど、そんなままごとのような時間ももう終わりです。夫に柿崎さんとの浮気を疑われているのに会うわけにはいきません。


 あの夜のことは二人の間では無かったことになっています。


 柿崎さんからそれをほのめかす言葉が出たことは一度だってありません。


 来月、浜の家では、そのことを柿崎さんの口から夫にはっきりと言ってもらわなければなりません。


 だけど、それをどうやって柿崎さんに依頼するかが問題なのです。


 柿崎さんに話してもらいたい相手は、わたしの夫ではなく、大島という第三者。


 を名乗る夫。


 もう、何がなんだかというより、ありえないっ!


 どこの世界に、夫を偽名で紹介するなんて人がいるのよっ!


 その猟犬のような嗅覚には恐れ入るけど、偽名を名乗ったからよろしくなんて、よく言えたわね。


 確かに、柿崎さんに会って話を聞いてほしいと言ったわよ。あのときはそれ以外に方法が思いつかなかったからね。


 柿崎さんだって、あの夜のことをはっきりとは覚えてないだろうし、夫に何を聞かれても「わからない」って、自然に言えると思ったから。


 それが、なんで大島?


 誰よ、それっ? よくもそんな適当な名前を使ってあの場に潜り込んでたわね。


 まさか、あちこちで大島って名乗って悪いことをしてるんじゃないでしょうねっ!


 しかも、最後の最後で思い出したかのように言ってきたけど、わたしが不審に思わなかったら言わないつもりだったんでしょ!


 柿崎さんと口裏を合わせてもいいんだよなんて、変だと思ったのよ。


 柿崎さんが何も知らずに色々と喋っちゃった後だったからなのね。


 あの夜の夫の波状攻撃のような質問攻めに、柿崎さんが耐えられるとは思えません。


 柿崎さんの一見深そうな話も、今となっては、薄っぺらい理論武装でわたしを煙に巻いていたとしか思えないのです。


 そんな人に頼ることになるなんて。


 まるで、ゴール裏の観客に向かって叫んでるゴールキーパー。ピッチとボールと相手選手を見てほしい。


 次の懇親会は7月18日。県予選会も終わって、祝勝会か反省会をしてるはず。


 それまでは柿崎さんとは会わない。必要な連絡事項はメールで済ませる。わたしのするべきことはほとんど終わってるし。


 そう決めて対策を練ります。


 まずは、柿崎さんに夫をなんて紹介しようか。


 こちら、うちの主人の友人で、大島さん。わたしと柿崎さんが親しくしていることを心配してるのよ。


 誤解だって言ってるのに、信じてくれなくて、柿崎さんの口からはっきり言ってほしいの。ただの友人です。心配されるような関係ではありませんからって。


 無理っ!


 おかしいでしょ。なんでそんなことを夫の友人に言うの。ありえないわよ。


 じゃあ、こういうのは? 


 こちら、わたしの友人で、大島さん。わたしと柿崎さんが親しくしていることを心配してるのよ。


 ……なんで、わたしの友人がそんなこと心配するのよっ!


 ……困ったな。


 いい考えが浮かばないまま時間だけが過ぎていきます。夕飯の用意をしていても、気ばかりが焦って集中できません。


 買い物に行っても、献立を考えていたはずがいつの間にか、夫の無理難題にどうするか悩んでいる有様で、結局、無難な献立に頼ることになります。


 夕飯に取り掛かる時間を忘れないよう、テレビをつけて時報がわりにします。


 今日の夕飯は焼きそばに半熟の目玉焼きを乗せ、ほうれん草のおひたしとコンソメスープを添えました。


 以前のようなロールキャベツやビーフストロガノフ、酢豚、カレイの煮付けのような時間と手間をかけた料理を作る気力は今はありません。


 しかも、夫ときたら、宣言どおり週末に帰ってこなくなるし。


 子供達には心配させないよう、仕事が忙しいからだと説明しましたが、いきなりの環境の変化に不安になっていることがわかります。


 わたしがこんなに悩んでるのに、どうせ、東京で羽根を伸ばしているんだろうと思うと怒りが湧いてきます。


 だけど、どうしよう。


 柿崎さんに夫をどう紹介するか、いい考えも浮かばないのなら、いっそ、夫との約束も反故ほごにして、懇親会もばっくれちゃおうか?


 でも、わたしから言い出しておいてねぇ。


 とりあえず、妙案が浮かぶまでは夫に電話をしないことにして、電話がきたらどう言い繕うか、それだけを考えることにします。


 妙案があるとは思えないけど。


 そうして一日一日と過ぎていき、連絡会の日は、すぐそこまで近づいていました。


 ❑❑❑❑


 休むということが、こんなにも大きな代償を支払うことになるなんて、思ってもみませんでした。


 たった二日休んだだけなのに、山のような仕事に囲まれてしまったのです。


 部下から初めて見る案件の決裁を求められたのを皮切りに、上司からは4月から6月までの部下の人事評価シートの提出を、人事課からは部下の勤怠報告を、経理課からは部下が申請した経費承認の催促を、矢継やつぎばやに求められ、妻のことがなかったとしても、とても帰省できる状態ではありません。


 土曜日に誰もいないオフィスで一人黙々と書類作業をこなし、つかの間の休みの日曜日は布団の上でまどろんで週末が終る、そんな生きているか、死んでいるかわからない状態で月曜日の朝を迎えました。


 その月曜日から続く日も、残業か、部下につきあって居酒屋に立ち寄るかで、自分の時間どころか、まともに眠れていないような気がします。


 それでも、仕事に没頭している間だけは、妻と柿崎のことを考えないでいられます。


 それは、深夜一人で牛丼を食べているときに見る、二人がレストランで食事をしている幻影、あるいは、一人毛布にくるまったときに見る、二人が図書館で資料を前に楽しげに談笑する妄想。


 妄想の中の妻はセーラー服姿で、二人は、遠くから眺めていた高校時代のクラスメートとそのボーイフレンドに重なって、切ない気持ちを思い出させます。


 遠く離れている現実は、姿が見えない分余計に想像が膨らんで、先日、妻に見せた毅然とした態度をただの強がりにしてしまいました。


 妻に電話をかけて話をする、たったそれだけのことで、そんな妄想など消し飛ばしてしまえるとわかっているのに、それがどうしてもできません。


 それは男としての意地なのか、踏みにじられた側のせめてもの抵抗なのか、あるいは、来たるべき日のために弓を引き絞り矢を放つ瞬間を待っているのか。


 いや、ただ素直になれないだけなのかもしれませんが。


 そんな自分をごまかして仕事で時間を埋めようとしていたのを見透かされたのか、総務課長から、今月末の株主総会の会場サポートを頼めないかと言われ、深く考えもせずうなずいてしまいました。


 せっかくの土曜日だったというのに。


 そうやって、仕事に逃避して、結果、今夜も眠りにつくためのコップ酒を買って家路につくのです。


 ❑❑❑❑


 7月になりましたが、大原さんからは何の連絡もありません。


 何度か電話をしようとは思ったのですが、そうすると、あの大島のことを聞かずにはいられません。


 聞いても私には何もできないのに。


 大原さんも同じことを考えたのでしょう。打ち合わせをすっぽかした言い訳の電話はおろか、今後の剣道部の仕事について問い合わせてくることもありませんでした。


 互いに気まずい思いをするくらいなら、このまま連絡が途絶えて疎遠になっていくのもいいでしょう。


 所詮はお互い既婚者。


 それぞれが抱える問題を相手に押しつけるわけにはいかないのです。


 そうして、大原さんの声を聞くこともなく、夏休みの間の監督当番、合宿の計画、県予選に向けた準備はすべて終わってしまいました。


 あとは、県予選で部員達が活躍し、その後の合宿を経て全国大会に出場するのを待つだけというところでした。が、善戦虚しく準決勝で敗退するという結果に終わってしまいました。


 3年生は合宿を最後の思い出にして引退します。


 甥の洋一郎は、合宿と日程が重った塾の夏期講習に参加することにしたため、私の後援会での仕事もこれで終わりです。


 連絡会の後の懇親会も、大原さんが出席しないのなら参加しないで帰ることにしました。


 先月の懇親会の様子からは大原さんが出てくるとはとうてい思えませんが、それでも会えたなら最後の挨拶くらいはしたいと思ったのです。


 ただ、あの大島という男が出てくるなら話は別です。


 直ちに撤退。


 大原さんには気の毒だとは思いますが、すねに傷を持つ身としては、大島に関わることで穏やかな暮らしに波風が立つことは望みません。


 私には、寝たきりで意思疎通もままならないとはいえ、守るべき妻がいるのですから。


 そうして迎えた連絡会の日、定刻に学校の体育館を訪れると、幹事席に大原さんが座っていました。


 それは、伸びた芝生に覆われた河川敷にたった一輪咲いたひまわりのようで、私の心をあっという間に奪っていきました。


 ❑❑❑❑


 朝早くから出社して仕事にけりをつけ、なんとか午前発の新幹線に乗りこむことができました。


 妻と約束した懇親会の日です。


 妻と柿崎が何をどう話し合ったかは知りませんが、妻の希望で柿崎と会うわけですから、どういう結果になろうと文句は言わせません。


 ですが、問題なのは私自身。


 私は本当はどうしたいのか。


 子供達のためにしかたないと諦めたふりをしたり、人の心は縛れないと余裕ぶったり、妻が望むなら別れてもいいと格好をつけても、その実、捨てられる自分を認められず、恋仇に一泡吹かせてウサを晴らしたいと思う、そんな無様で惨めな私の本当の願いは何なのか?


 前回の帰省ではっきりと自分の弱さを自覚しました。


 妻の顔を見ると、それだけでささくれだった心がいでしまう。


 血が滲むほど手を握りしめた怒りも、狂しいほどの絶望も、妻と触れ合うだけで雲散霧消してしまうのです。


 浮気をしても私の元に帰ってきたのなら、すべてを忘れてしまえる自分にうんざりしています。


 けれど、それでいいのかもしれません。私は妻を失いたくないのです。


 長年連れ添ったパートナーと別れたくない、子供達を産んでくれた母親を奪われたくない、折り返しを過ぎた人生の中で新たな恋人を探す努力をしたくない、歪んだ欲望をたたきつけてもそれに応えてくれる女体にょたいを失いたくない、そして何より、妻の笑った顔を見ることができなくなるのは寂しくてたまらない。


 理由は色々ありますが、私はこの先も妻と触れ合っていたいのです。


 結果として、柿崎と妻を共有することになりますが、私の元に帰ってきたときに柿崎の臭いがしてなければ、もうそれで十分です。


 だからこそ、柿崎がどういう人間なのか知っておかなければならない。


 その上で、柿崎に対し、男として優越的な立場を見せつける。それだけが私の願いなのです。


 そうでなければ、バツイチだと聞いた柿崎があっさりと妻を連れ去っていくことでしょう。


 私の不在にも慣れ、柿崎の家に入り浸り、愉快な未来を夢見てよろしくやってる妻の姿など見たくもありません。


 そんなことにならないよう、里美のご主人様が誰なのか、奴らの魂に生涯消えることのない焼印を焼きつけ、私の名前を深く深く刻み込んでおかなければ。


 その鍵になるのは、不貞の証拠。つまりは柿崎の自白。


 今夜はそれを根こそぎ吐かせるっ!


 柿崎に言いたいだけ言わせ、矛盾をついて事実をあぶりだす。今夜はそのつもりで帰っていくのです。


 ❑❑❑❑


 はあっ。


 今日何度目かの大きなため息をつきました。


 とうとう連絡会、つまり懇親会の日を迎えてしまいました。


 今日になっても柿崎さんになんと言って大島の皮を被った夫と話をするよう伝えればいいのか、皆目検討がつきません。


 それなのに、時間だけはどんどん過ぎていきます。しかも、反省会というか、残念会。荒れることを考えると気分も陰鬱になろうというもの。


 ……すっぽかしちゃおうかな。


 でも、今日は夫が帰ってくる日です。


 夫のことだから、私が行かなくても勝手に柿崎さんに会って根掘り葉掘り聞きだそうとするに違いありません。


 ……うぅっ、やだなぁ。行くの。


 気持ちが沈んで出かける気になりません。


 それでも時計が催促してきます。そろそろ出かける時間だと。


 ようやく、お化粧する前に服を選ぶことを思い出し、下着のままクローゼットに向かいます。


 よろよろ歩いて、姿見の前で立ちすくんでしまいました。


 鏡に幽鬼のような姿が映っています。


 あまりの姿にそのまま床の上に崩れ落ち、ついには寝転んで大の字になりました。


 ……もう、どうなってもいいわよ。とにかく、今日は行かないっ!


 そうやってどのくらい時間が経ったでしょうか。寝室のドアが開く音に驚いて、そちらに目をやりました。


 開け放たれたドアから夫が入ってきます。


 ……やだっ! わたし、こんな格好でっ!


「何してるんだ?」


 ❑❑❑❑


 寝室のドアを開けた私の目に入ってきたのは、床の上で下着姿のまま転がっている妻のあられもない姿でした。


 こいつ、こんなときにっ!


 ありえない姿に立ちすくんでしまいました。


 妻は転がったまま私に目を向けましたが、そのまま体を縮ませるだけです。


 お互い気まずい状況です。


 先月以来、禁欲生活を続けている私は、妻の肢体から目を離すことができませんし、妻は、おそらくは自慰行為を私に見られた恥ずかしさで丸まっているのでしょう。


 こんなときまでっ! どこまで淫乱なんだ。お前はっ!


 けれど。


 緩やかなカーブを描く体のラインと柔らかそうなふくらみに、ごくりと、のどが鳴ってしまいました。


 むくむくと、何かが起き上がります。


 場所は寝室。目の前には裸同然でオナニーにふけっていた妻。そして禁欲生活で欲望をもてあましている私。


 そろってしまったカードは、だけど、私に警戒心を呼び起こさせます。


 もしかすると、それが妻の狙いなのかもしれません。今日、私が帰ってくることを知ってのこの姿。前回、前々回と、私は妻の体に目が眩んで抱いています。


それはもう、欲望を思い切り吐きだして。


 今回もそれで乗り切ろうとしているのかもしれません。なんせ、私には妻の他に慰めてくれる女性はいないのですから。


 馬鹿にするなっ!


 ここまで軽く見られて甘い顔を見せることはできません。


 今は絶対に我慢する。いつのことになるかわからないが、絶対、こいつの目の前に証拠を叩きつけてやる。


 ズボンの中の異物感で前かがみになりながらそう誓います。


「支度がまだなら手伝おうか?」


「わたし、具合が悪いから行かないっ!」


 ねるような、投げやりな口ぶりで返ってきた言葉は、まるで駄々っ子のようで、気持ちがほっこりとします。


 けれど、今は。


 というか、妻の反乱とズボンの中の戦争、そのどちらも沈静化させなければ。


「どういうこと? 柿崎から話を聞いてくれと言ったのは君だったよね。まさか、まだ柿崎に話してないのか?」


「……勝手に話してくればいいじゃないっ! 前のときもそうしたんだからっ!」


「それでもいいけど。柿崎が君に不利なことを言ってもいいってこと?」


「いいわけないでしょっ!」


「じゃあ、行かなくちゃね」


「いやだあ。行きたくないよぉ。ねえ、お願いだからわたしを信じてよぉ」


 じたばたする姿は、それはそれで可愛いのですが、いつまでも床の上で寝かせておくわけにはいきません。


 私のズボンの変化に気づかないはずがありませんから。


 せめてベッドの上にと、抱き上げようとすると。


「何するの!」


 妻が形だけの抵抗を見せました。これが男をそそらせるための演技だとすると見事としかいえません。現に、口であらがいながらも両腕は私の首に回しているのですから。


 そして私は、今すぐトイレにこもりたい。せめて一人になりたい。


「行きたくないなら、行かなくてもいいよ。後は俺が全部片付けるから」


「どういうこと?」


「柿崎と話をつけてくる。これ以上あいつと会わなくて済むようにな」


「柿崎さんとは会ってないわよ」


「……いずれにせよ、俺は行くよ。君はこのまま家で寝ていればいい」


「……冗談じゃないわよ。あなたの好きにさせたら、柿崎さん、逃げたい一心から嘘をつくかもしれないじゃないっ!」


「おや? それは行く気になったってこと?」


「しかたないでしょ」


「じゃあ、今日着ていく服は俺が選んでもいいかな?」


 妻に笑いかけ、手を引いて立ち上がらせました。


 これ以上妻に触れていてもいいことなんかありません。クローゼットに振り向きながら妻を背にして、さり気なくズボンに手を入れて位置を整えます。


 前かがみでいないで済むように。


 今、後ろから妻が触れてきたら大変なことになりそうです。特に下着が。いや、多分ズボンも。


 それこそ、すべてをかなぐり捨てて妻を犯し尽くさなければその恥ずかしさを埋められないくらいに。


「クローゼット、開けてもいいか?」


 念のために聞いておきます。妻の行き過ぎたプライバシーがこぼれ落ちてこないことを祈りながら。


 たとえばメイド服とか、看護師や婦人警官、チャイナドレス、キャビンアテンダントのスカーフ、バニーガールのレオタードとうさ耳。


 柿崎の趣味がどれなのか知りませんが、何が出てきても驚かないよう覚悟を決めます。


 まさか、ミリタリーはないよな。それは性的異常だぞ。そして銀行員。それは犯罪者の所業。許されない禁忌。


 妻がうなずくままに扉を明けました。


 中にあったのは、見慣れた服に混ざって妻のセーラー服。


 心がなごみます。私の聖域がここにありました。


 私の夢を守るために、いつの日か妻にもう一度セーラー服を着てもらうために、決意を新たにします。


 さあ、ここからが仕込みの始まりです。妻を着飾って視覚で柿崎を挑発するのです。


 宙に消えてしまう言葉と違って、ずっと目の前にいる妻のあでやかな姿はさぞかし柿崎を刺激することでしょう。


 この餌を柿崎の目の前で褒めそやしたり、いたぶったり、なだめすかしたりして獲物に食いつかせて釣り上げてやります。


 黙って従っている妻を騙すようで気が引けますが、身から出た錆です。容赦する必要はないと自分に言い聞かせます。


 クローゼットを探して肌の露出の多いキャミソールを選びました。


 これに合わせて肩口から胸元までが大きく開いた白いボレロとお尻のラインが際立つ黒のタイトスカートを用意して妻に着せす。


 鏡台の前に座った妻の肩に両手を置いて、鏡の中の妻の目を見ながら、耳元で囁きます。


「チークも少しだけ濃くしてごらん。君はそのほうが映えるから」


 妻の化粧する一挙手一投足から目が離せません。


 瞳を閉じて塗るファンデーション、瞳を凝らして弓なりに描く柳眉、つややかな唇を彩るピンクの色彩。


 その仕草に見惚みとれて抱きしめたくなります。


 そんな私のよこしまな思いを隠すように、立ち上がった妻に山吹色のカーディガンを羽織らせました。


 懇親会の席で、柿崎は妻の体に釘付けになることでしょう。その隣に私が座ることで、ジェラシーに駆られた柿崎が何を言い出すのか、今から楽しみです。


 段々と興奮が抑えられなくなってきています。


 それは、柿崎との対決に向けてのものなのか、それとも着飾った妻への欲望からなのか。


 自分の中の劣情と必死で戦いながら、私は妻を玄関から外へと誘います。


 夕方とはいえ、うだるような暑さがまだ淀んでいる日の下へ。


 私の歪んだ企みをとぐろのように妻の身に巻きつけて。


 妻を中学校まで送り届け、運動部の掛け声が聞こえる中、何度も振り返りながら体育館に消えるのを見送って、一人になれる場所を探して街の雑踏へと足を向けます。


 とにかくこの熱を放出しなければ、これから始まる戦いに冷静でいられる気がしません。


 沈着冷静に柿崎を追い詰め、うろたえる姿を楽しみたい。その期待が歩調を速めます。


 じりじりと肌を焼く太陽の熱でアスファルトは溶け、道の先に陽炎が立っています。


 その中を、私は凄惨な殺し合いを楽しむ狂戦士のように、目を血走らせて戦場へと向かおうとしているのです。


 デパートの個室トイレを目指して。


 ❑❑❑❑


 中学校までの道のりは、灼熱の太陽が罪人を生きたまま焼こうとしていました。


 その中をまるで処刑台に引き立てられるようにわたしは夫に手を引かれて校門までたどり着きました。


 そして、ここから先は一人で歩くよううながされたのです。


 体育館の前から校門を振り返ると、夫が仁王立ちになってわたしが逃げ出さないよう見張っています。


 まるで獄卒のように。


 体育館にはクーラーはありませんが、全開となった入口とグラウンドに面した大きな開閉口を吹き抜ける風で、快適なくらいでした。


 いつものように幹事席に座って始まりを待っていましたが、会場は半分も埋まりません。


 やがて、校長と後援会の幹部の人達、それに続いて柿崎さんが入ってきて席につきました。


 冒頭で、校長から今年も全国大会への出場を逃したことが告げられ、会長からは今後のスケジュールと、夏休みの合宿での協力、新人戦までの取り組みへの説明がありました。


 内容はよくわかりませんが、要は3年生の引退とともに役員の一部も引退するので、残った皆さんの協力をお願いしますと聞こえました。


 冗談じゃありません。


 家庭が大変な今、人の補充もないまま後援会の仕事なんてやってられません。


 これは、啓太と一度よく話し合わなければ。


 連絡会が終わって席を立つと、柿崎さんが話しかけてきました。


「私の仕事は今日で終わりだそうです。短い間でしたが、大原さんと一緒に仕事ができて楽しかったです。もう会う機会がないと思うと残念ですが」


 これはチャンス到来?


「あら、役員を引退しても協力をお願いしますって、さっき会長さんが」


「そうは言ってましたが、3年生が引退すれば人数も減るし、今までのような大きな活動もなくなりますから、私なんかがでしゃばらなくても」


「そうですか。残念ですね。なら、今夜は柿崎さんのお別れ会ですね」


「いや、私は……」


 渋る柿崎さんに、「浜の家へは行かないの?」と、首をかしげ、上目遣いでじっと見上げます。


「ですが、あの」と、抵抗しようとするのを、にっこり笑って「最後に柿崎さんとお酒をご一緒したいな。だめ、かしら?」とダメ押しをしました。


 ……悪い女でごめんなさい。


 胸の内で呟いた謝罪の先には、夫に、違った、大島という第三者に説明をしてもらう役割が待っています。


 素直に話してくれればいいのよ。結局、何もなかったんだし。


 このときのわたしは、最後の交わりさえしていなければなんとかなると、浅はかにも考えていたのです。


 だって、映画で女優さんもしてることだし。


 ❑❑❑❑


 そして、浜の家。


 乾杯が終わった直後、わたしは柿崎さんをカウンター席に連れ出しました。「お願い」って、拝み倒して。


 柿崎さんは嫌そうな顔を隠そうともしないで、「あの男ですか?」と言っていますが、この際、そんなのは無視です。


 わたしを挟んで夫と柿崎さんが座り、二人を紹介します。


「こちら、柿崎さん。啓太の部活の後援会でお世話になったの。こちらは大島さん。わたしの」


 これは、夫への意趣返し。


「兄です。ねっ、お兄ちゃん?」


「「えっ、ええぇぇぇええっ!」」


 二人して口を開けたまま固まってしまいました。


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