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第14話 そして色欲に諍う

 んがっ!


 自分のいびきの大きさに驚いて目が覚めました。


 男の声が聞こえてきます。わたしはゆっくり目を開け、眩しさをこらえながらあたりを見回しました。


 目の前には柿崎さんの背中。スリーピーススーツのベストを着る人が他にいるはずはありません。


 ジャケットは? と見ると、座っているわたしの腰で丸まっていました。


 この暑いさなかのスリーピーススーツにきっちりめたネクタイ姿は、見ているだけで暑苦しくなります。それで、今日はできるだけ距離を取るようにしていました。


 なのに、眠ってしまったわたしにクーラーの風が当たらないようジャケットをかけてくれたのです。その心遣いに嬉しくなります。


 それでも、わたしは夫がいる身です。もう二度と心を動かすようなことがあってはなりません。


 あの夜、柿崎さんのあたたかさに触れ、誘われるままホテルについて行ってしまったことを悔やまない日はありませんでした。


 あのときは、雰囲気にのまれ、恋心に素直になって柿崎さんを抱きしめてあげたいと思ったのです。


 けれど、まさにその時、娘が男を家に引き入れていたなんて。


 しかも、相手は柿崎さんの甥の柿崎君。


 この鏡写しのような過ちの結果得たものは、夫への山のような秘密と浅ましいわたしという女の自覚、自己嫌悪。


 そして、破滅の足音。


 あの夜、引き返せた道はあったのに。


 それは、ラブホテルの入口で、タッチパネルで部屋をじっくり選ぼうとする姿を見て、ため息を吐き出した瞬間。


 いつ、誰に見られるかわからないのに物珍しげにじっくり見比べてるなんて、ありえません。


 わたし達は普通のカップルではないのです。


 それでも、わたしをその場にとどまらせたのは、せめてきれいに終わりたいと一夜限りの夢にすがろうとした恋心でした。


 あまりにも未熟で、あまりにも愚かな。


 二人の歩んできた道は遠く離れていて、たまたまここで交わっただけだというのに。


 なのに、やがて離れて、ともに歩く未来がないのなら、せめて、と心が泣き叫んでいたのです。


 わたしは家族を捨てられないし、柿崎さんは入院中の恋人を忘れられない。


 だから、一夜の慰めを別れの記念にしたいと。


 そんな少女じみて気持ち悪い恋心がわたしの足にしがみついていました。


 けれど、それは同時に、柿崎さんの様子をあらためて見ることになり、ためらいがちだったキスの理由もわかってしまったのです。


 わたしの中に、恋心とは別の浅ましい欲望が芽生えていました。


 ただ甘いだけの恋心と比べて、それはとても甘美な誘惑でした。


 けれど、求めるものは同じ。


 両者の利益は一致して、気づいたときには、わたしが横から手を伸ばして部屋を選んでいました。


 柿崎さんの驚く顔に微笑みを送り、素知らぬ顔で腕を組みエレベーターへと向かいます。まるでバージンロードを進むように。


 降り注いでいるのは、天使の祝福か、悪魔の微笑か。だけど。


 これは大切な儀式だから。


 今宵こよい、仮りそめの妻になって大切に手折たおってあげたいと、そう思ったのです。


 恋心をそっと脇に置いて。


 そのやましさから目をそらすように、わたしは、部屋に入るなり、新妻のようについばむキスを繰り返して愛情をふりまきました。


 特別な夜になるよう雰囲気を盛りあげながら、ジャケット、ベスト、シャツと次々に脱がしていきます。


 柿崎さんをベッドに押し倒し、膝立ちになってゆっくりと1枚ずつ服を脱いでいき、最後のショーツを足から抜きとると、下から見上げる柿崎さんのズボンとパンツを脱がしました。


 わたしにとっても初めてのこと。優しく導いてあげなければ。


 今日という記念の日を、第二の生誕を、何一つ身につけていないわたしの姿と一緒に記憶に焼きつけてほしいから。


 そんな願いをこめて腰を振り、股間に触れる柿崎さんの欲望をもてあそびます。


「愛してる」という呟きはキスでふさいで黙らせました。その嘘は最後の瞬間まで取っておきたいから。


 ツンと立てた指に精一杯の愛情をこめ、そっと優しくなでながら、覆いかぶさったままの態勢で、柿崎さんのけがれを知らない欲望を包み込もうと腰を沈めていきます。


 恋心の成就と純潔を散らす喜びを体の芯から味わおうと。


 ですが、そんな浅ましさは、恋心にふさわしくないとでもいうかのように、わたしの腰に回されていた腕が、だらりとシーツの上に投げ出されました。


 いつの間にか、軽い寝息とともに柿崎さんは眠ってしまっていたのです。


 満足したあかしをわたしの股間にべったりと吐き出して。


 突然のことに柿崎さんを揺さぶって、夢の続きをねだりますが、起きてくれそうにありません。


 股間に飛び散った妊娠のリスクは、いつかテレビで観た鮭の産卵のようで、わたしに自分の愚かさを見せつけてきます。


 幾千夜、夫を相手に真剣勝負を繰り広げてきた歴戦の女戦士が自宅警備員との恋に見た夢の果ては、ひたすらみにくい自分の欲望と向き合っただけでした。


 歩く夜道で祈るのは、裏切った恋心の葬送と、ともに暮らした17年と刹那の恋をはかりにかけた後ろめたさ、そして

 秘密を知られた柿崎さんが恥ずかしく思わないようにと。


 彼が苦しむことがありませんように。

 夫が傷つくことがありませんように。


 そんな自分勝手な夜を過ごしたわたしへの罰はそれだけでは終わりません。


 次に下された罰は、娘のよがり声を聞かされるという恥辱。


 そんな娘を叱る声は出ていくそばから力を失い、子供ができたら産みたいと言い切った真剣さに、自分が恥ずかしくなります。


 さらには、娘の交際相手の叔父と関係を持ったことで、娘の恋に対して取り返しのつかない過ちを犯してしまった残酷な事実と、娘の非行を夫に相談できなくなった孤独。


 今となっては、娘が勝手にわたしの名前で買った紐パンツや深紅の穴あきショーツの由来やそんな娘のために用意したコンドームやピル、妊娠検査薬の理由を夫に告げるなんてできません。


 けれど、いつかは知られるように思えてなりません。しかも歪んだ形で。


 それは、沈んでいくボートに似て、船底の穴から入ってくる水をいくら掻い出しても、いつかは浮いていられなくなる、そんな絶望的な状況を思わせます。


 だって、先日の夫の態度にただならぬものを感じてしまったから。


 自力でははずせないよう足を組まされて尻を高く上げ、シーツに額を押し付けた態勢で責められた夜。


 両腕を背中で縛られることなんて一度もなかったのに。


 その鬼気迫る辱めに「許して」と懇願して明けた朝、夫を送り出してから寝室を掃除してごみを捨てようとしたときに見つけた使い終わったコンドーム。


 いつものように目隠しをされていたから気づかなかったけれど、コンドームを使ったとき、夫はわかったはずです。


 そこに妊娠検査薬とピルがあることに。


 それを問いただすことなく穏やかな顔で赴任先へ戻る夫を、見送ったばかなわたし。


 何も気づいてないはずないじゃない!


 あのとき、「今日は大丈夫な日だから」と言えばよかったのに。


 そんな状況で、わたしにできることは、自分の愚かさで断罪されるのを待つことだけ。助けてくれる白馬の王子様などどこにもいないのだから。


 そして、今、この座敷で。


 その白馬の王子様が、違った、元凶となったDTがわたしに背を向けて座っています。


 だけど、その向こう。


 東京にいるはずの夫が、柿崎さんをにらんでいました。


 ……なんでいるのよっ!


 さらに夫の後ろには、大勢の男達が頭を畳にこすりつけるほど下げて、上目遣いでこちらを見ています。


 一瞬ですべてを理解し、慌てて足を閉じスカートを直します。のぞき込んでいる男達の姿に思い出すのは、つい先日した娘との会話。


『いずみにも彼氏ができたのね。まだ子供だと思っていたのに。それとも、最近の中学生は当たり前なのかしら?』


『はぁ? あんな猿どもと付き合うような女子がいるわけないじゃん』


『猿?』


『うちのクラス、女子と猿しかいないんだけど』 


『でも、柿崎君とか』


『あれもおんなじ。猿。あるいは猿の飼い主。似たようなものだよ』


『そんな、猿だなんて……』


 ……いました。


 確かに猿。歳をとったヒヒ。オナガザル科。生息地をアフリカとするマントヒヒ、ドグエラヒヒ、マンドリル、ゲラダヒヒ。違った。好色な狒狒ひひおやじが。


 目を血走らせて、わたしのスカートの中をのぞき込もうと、皆、腹ばいになってこちらに顔を向けていたのです。


 いずみ、あんたは正しかった。でも、あんた、猿とセックスしたわけ?


 夫も柿崎さんも、まだヒヒオヤジの群れに気づいていません。


 あなたぁ! 後ろぉーっ!


 ❑❑❑❑


 私が大島と対峙しているとき、その後ろから腹ばいになった男達がこちらを見ていることに気づきました。


 それはまるでイグアナの群れ。


 しかし、今は目の前のこの男。


 大原さんを里美と呼び、数十年の家族ぐるみの付き合いの中で好意を隠したまま、結婚してもなお、諦めることを知らず、つきまとっていつしか奪うつもりだと堂々と言い放つストーカー。


 大原さんのご主人がいない今、私が目を離したら、眠っている大原さんをさらっていくに違いありません。


 幸いにも、この男、私の言葉を大原さんを好きだと言ったと、勘違いしているようです。


 おろかな。


 でも、それならこちらにもやり方はあります。


「大島さんがどう思おうが勝手ですが、私は大原さんの友人としてあなたのことを見過ごすわけにはいきません。徹底的に邪魔をしますよ」


「ほぅ? ただ後援会の役員というだけの関係なのに、何かできるとでも?」


「確かに役員をしている、ただそれだけの関係です。でもね。それなりのお付き合いはあるんですよ」


「それなりのお付き合いって何ですか? 一緒に食事をしたことがあるとでも?」


「まあ、打ち合わせはしますよ。二人で食事をしながらね」


「それだけですか? 二人で食事をするくらいのこと、私だって散々してきましたよ。それ以上のことだって。柿崎さんはどうですか?」


「そんなの、誰かにひけらかすことではありませんよ。けれど、友人として信頼されている自信はあります。これ以上の問答はやめましょう。お互い大人なんだから」


 精一杯の虚勢をはりましたが、これ以上は本当に無理。


 この大島という男、この場に私達以外にも人がいて、この会話を聞いていることをなんとも思っていないのでしょうか。


 妙な噂で大原さんの居場所がなくなることに気づいていないのでしょうか。いや、もしかしたら、今までもこうやって大原さんの居場所をつぶして回っていたのかもしれません。


 私はイグアナを牽制し、大島との会話を打ち切るつもりで声をかけます。


「あと10分でテーブルの上を片付けてください。今夜はそれでお開きにします。いいですね」


 しかし、イグアナども、動こうとしません。まるで、せっかく確保した場所、動いたら負けだと言わんばかりに、目をギラギラと血走らせて、私を見上げて……いや、私の後ろを……。


 一瞬、振り返って初めてわかりました。


 こいつら全員、大原さんのスカートの奥を覗いていたのです。


「ふざけないでください。皆さん、どうかしていますよっ!」


 私は腕を大きく横に広げてイグアナどもの視線から大原さんを隠そうとしますが、全く動こうとしません。はあはあと荒い息をしながらじっと見ています。


 そのときでした。


 イグアナどもが目をそらし、ゆっくりと立ち上がって散っていったのは。


 さては、女神の降臨、目覚めのときがきたのかと振り返ると。


 両手にビール瓶を持った大原さんが立っていました。


 ❑❑❑❑


 里美が目をこすりながらあたりを見回しています。


 柿崎の意味不明な大声に目を覚ましたのでしょう。


 弾劾裁判は不発に終わりました。


 まったく、だらしない格好で、よくも眠れたもんだ。


 ため息の一つも出ようというもの。そのうち、私に気づいて慌てて足を閉じスカートを直しましたが、遅すぎます。


 いくら減るもんじゃないって、誰かに見られていたらどうするつもりだったんだ?


 それはともかく、成果はありました。


 不倫相手の素性も人となりもわかりました。二人で食事したこと、それ以外にも何かあることも。


 柿崎のあの調子なら、不倫の証拠が出てくるのは時間の問題でしょう。


 それまでは柿崎を泳がしておけばいい。里美との付き合いを続けるもよし、やめるもよし。


 どうせ人の気持ちに鎖をつけて縛っておくことなんてできないのですから。いずれ、収まるところに収まるでしょう。


 大切なのは、子供達の生活を守ること。


 せめて、あと2年。啓太が中学を卒業するまでは、穏やかに、波風をたたせず過ごしていこうと決めます。


 証拠はそれまでにつかんで、最後に柿崎に責任を取らせれば、もうそれで十分です。


 それにしても、なんであいつはビール瓶なんか持ってるんだ?


 やがて、里美が。


「どうして、助けてくれないのよぉっ!」


 と、叫びました。


 もしかして、まだ寝ぼけてるのか?


 ❑❑❑❑


 大原さんの糾弾が私に向けられたものではないと気づくのに数秒かかりました。


 大島が平然と「何を言ってるのかわからないけど、色々と聞かせてもらったよ。ずいぶんとお楽しみだったんだね」と返したからです。


 私も立ち上がり、大原さんの手からビール瓶を受け取り、「よかった。目が覚めたんですね」と二人の会話に割って入ろうとします。けれど。


「もう、終わりだな」


 大島の、大原さんに話しかけているような、独り言のようにも聞える言葉に、大原さんは声を出すこともできず、立ちすくんでしまいました。


 その言葉を放った大島は、大原さんを見るでもなく、ただ座ったままコップを握りしめ、残っている酒を飲み干そうか、そのままテーブルに戻そうかと迷っているようにも見えます。


 うかつに第三者が割り込めない雰囲気に、この二人の関係がなんとなくわかりました。


 すでに大原さんは悪魔の手に落ちていたのです。


 私が、いや、大原さんのご主人すら知らないうちに、大原さんは絡め取られ、蹂躪され、がんじがらめに縛られて、逃げ出すこともかなわないところまで追い詰められていたのです。


 ここにいたっては私の出る幕などありません。なのに、それでいいのかと言う声がするのです。


 男女の色恋に関係のないところで、私も大原さんも充実した時間を過ごしてきたんじゃないのかと。


 男女の間には友人関係は育たないといわれていることは私も知っています。実際、そうなのでしょう。


 それでも。


 私も大原さんもそれぞれに大切に思う人がいるけれど、そういう恋愛感情抜きで、意見を言い合ったり、他愛のない言葉で笑ったり、新聞を賑わせた話題に怒ったり、悲しんだりして、心がやわらぐような時間を共有したこともあったじゃないのかと。


 それは友人ではないのか? その時間をなかったことにしていいのか?


 たとえ、夫婦や恋人でなかったとしても、友人が困っていれば助けたい。力になれないなら話だけでも聞いてあげたい。


 そんな当たり前の関係すら失くしていいのかと。


 今、ここで引き下がれば、大原さんはさらなる地獄に落ちていく。それを黙って見過ごしたら、もう友人ではない。大島に加担したも同じだ。


 いつか、大原さんのご主人が戻ってきて、それで私と疎遠になっていくのだとしても、それまでは、私が守らなければ。


 そう思うのはいけないことなのでしょうか。


 けれど。


 答えが出る前に、大島はゆっくりと立ち上がると、私を軽く押しのけ、大原さんの耳元に何事かをささやき、背を向けて座敷を降りていきました。


 それに追いすがろうと、大原さんが手を伸ばします。


「待って。お願いだから、待って!」


 大島は振り返ることもなく、レジに向かっています。大原さんも慌てて靴を履き、後を追います。


 あ然と見送る私や座敷の男達を残して、支払いを済ませた大島は、大原さんの肩を抱きながら店を出ていきました。


 その途端、静まり返っていた座敷に喧騒が戻りました。


「なんだ? あの男」


「まったくだ。いきなり出てきて里美ちゃんを掻っ攫っていったぞ」


「そうだよ。俺らの里美ちゃんなのに」


「あの二人、これからラブホに行くのかな」


「そりゃそうだろ。なんせ里美ちゃんは旦那と別居中だからな。それが男に連れられて行ったんだからな。これから、誰はばかることなくラブホに直行だろうよ」


「旦那と別居した原因はあの男かな?」


「間違いないな。見たか? あの怪しい雰囲気。あの二人、完全にできてるだろ」


「そういえば、結婚前から好きだったとか言ってたな」


「結婚して何年なんだ? 中学の子供がいるってことは十ニ、三年か?結構長いな」


「うちの嫁にそんな奴がいたら嫌だな。なんか、寒気がするよ」


「でもよ。あの大島って奴と里美ちゃん、できちまってから相当経ってるな」


「ああ、旦那の目を盗んでやることやってたわけだな。女は怖いよなぁ」


「いやいや、お前んとこだってわからんぞ。今まさに男をくわえこんでるかもしれん」


「おい、ふざけるな。っと、俺、帰るよ」


「おい、おい、冗談だよ」


「いや、そういうわけじゃなくてな。でも、やっぱり帰るから。あとはよろしく」


 会場は、大原さんと大島の話題で持ちきりです。噂話にあることないことを付け加え、面白おかしく話して笑っています。


 そんな中、私は、大島が呟いた「もう、終わりだな」という言葉が引っかかっていました。


 何が終わるというのか? 大原さんと大島の関係? それとも大原さんの家庭?


 浮かんだのは恐ろしい想像でした。


 大島は、大原さんと自分の関係を、大原さんのご主人にばらすぞと脅しているのではないか。


 ばらされたくなければ自分の言うことをきけと。


 そう思うと、色んなことが腑に落ちます。


 まるで夫婦のような濃密な空気は、ニ、三年の付き合いでできるものではありません。


 それに、物怖じせずに人妻の大原さんのことを好きだと言える自信は、すでに大原さんを我がものとしていることからきているのでしょう。


 もしかして、恋人を他の男と結婚させて、都合のいい愛人に仕立てた?


 ご主人の存在そのものを劣情の炎にべて、背徳のスリルに愉悦に浸っているのでは?


 そう考えると、いても立ってもいられません。今すぐ店を飛び出して二人の後を追い、大原さんを助けなければ。


 けれど、それでどうする?


 ただの友人を越えた、出過ぎたことは大原さんの迷惑でしかありません。


 だけど。


 今夜の、私を探るような大島の態度。あれは一体?


 そして、恐ろしいことに気づいたのです。


 大島は、私と大原さんがラブホテルで関係を持ったことを知ってる?


 大島の魔の手が私にまで伸びてくるようで、背筋が寒くなります。


 それは、物陰に潜んで私を見ている悪意のようで、この騒がしい座敷にいながら、私は一人、不安を抱えていました。


 ❑❑❑❑


 暗い夜道を歩きながら、夫に詰め寄ります。


「帰ってくるならそう言ってよっ! 今もまるで監視してるみたいなことをして」


 店を出るときに、わたしの肩に肩に回していた腕は今は離れて、夫は先を歩いていきます。


「監視されて都合の悪いことでもあるのか?」


「そうじゃない。そうじゃないけど」


「なら、いいだろ? 俺がどこで酒を飲もうと」


「違うでしょ。あなた、もしかして、わたしが浮気をしたとでも思ってるの?」


「まさか? それともそうなのか?」


「そんなことするわけないじゃないっ! でも、これでわかった。あなた、わざわざ休みを取ってわたしを監視しに来たんだ?」


「そうだと言ったら、どうする? 本当のことを喋ってくれるのか?」


「わたしは浮気をしたことはありません。これでいい?」


「……あの場に柿崎って男がいたよな」


「柿崎さん。いたわね」


「君とどういう関係なんだ?」


「どういうって。ただの役員よ。後援会の」


「柿崎はそうは言ってなかったけどな」


「なんて言ってたの?」


「美人で優しくて、気がきいていて、服装のセンスやスタイルもいいし、それから」


「うん、うん」


「あそこの締りも最高だったと」


「嘘よっ!」


「嘘って? 何が?」


「……あそこって」


「ん? あそこって? 俺はそんなこと一言も言ってないぞ?」


「言ったわよ。今、言いました」


「おかしいな? 聞き間違いじゃないのか? 俺はそんなこと言ってないんだから」


「じゃあ、なんて言ったのよ」


「何だっけ? ああ、人あしらいも最高だって」


「嘘よ。絶対、言ったのにっ!」


「君にはなんて聞こえたんだ?」


「えっ? あ、その……」


「そんなことより、柿崎って、何してる人?」


「県庁の人」


「それだけ?」


「それだけ。知ってるのは」


「ふうん。美術館に勤めてるとか?」


「さ、さあ、どうかしらね」


 夫に詰め寄っていたはずのわたしの立場は入れかわり、いつの間にか尋問を受けています。


「いつだったか、もう亡くなった画家の話をしたよね。覚えてるかな」


「ごめんなさい。いつのこと?」


「そのとき美術館で展覧会をやってたのがその画家だった。君から大変な秘密を知ったとか言われて。だけど、誰かにからかわれたことがわかったみたいで、怒ってたよね。君をからかったのは、柿崎だったんじゃないのか?」


「どうかしら? 覚えてないな」


 夫の尋問をはぐらかしているうちに、やっと家に着きました。でも、ドアを開けながら夫はまだ続けようとします。


「柿崎は君のことが好きだって言ってたぞ。大切にしたいって」


「そもそも、柿崎さんとはそんなに親しいわけでもないのよ」


「本当にそうかな? 後援会の連中、君のことはいつも柿崎が送ってるって言ってたぞ」


「あの人達は何も知らないでしょ。適当なことを言ってるのよ」


「君のことをあいつの彼女だと言ってたけど、それはどうなんだ?」


「からかわれたんじゃないの? そんなことは一切ないんだから」


 彼女って何よっ! 人聞きが悪いじゃない。言ったのは誰よ。あのヒヒオヤジどもめっ! それに、この人、子供達に聞かれたらどうするのよ?


 足早に廊下を抜けて寝室のドアを閉めました。


「わたし、着替えるからっ! あなたも着替えるたら? 今日は暑かったでしょ。汗まみれじゃないの?」


 夫が何か言いかけようとしましたが、無視して服を脱ぎます。1枚、また1枚と、時間をたっぷり使って。


 夫は黙りこみ、クローゼットの前の椅子に座ってわたしが着替えるのを見ています。


 今がチャンスかも。


 わたしは下着姿のまま夫に詰め寄ります。裸に近い格好で夫の注意力を散らして鋒先をかわそうという作戦です。


「あなたは柿崎さんのことを気にしてるみたいだけど、心配するような人じゃないから、安心して」


「よく知ってるような言いぶりだけど、知ってるのは県庁に勤めてるだけじゃなかったのか?」


「それは……話していれば人となりくらいはわかるわよ」


「どのくらいの頻度で会ってたんだ?」


「ええと」


「後援会の集まりだけだと、今夜で3回目かな?それだけしか会ってないのに、人となりくらいはわかるって?」


「……」


「本当は後援会の集まり以外でも会ってたんだろ?」


「そうね。不定期だけど、大会が近いときは週に一度くらいで」


「どこのお店?」


「ううん。中央図書館」


「図書館?」


「そう、図書館」


「という名前のお店とか?」


「違う、違う。本が一杯置いてある。ほら、ライブラリ」


「どこにあったっけ?」


「附属高校の隣の公園の中」


「柿崎は昼間、県庁だろ?」


「だから、会うのは夕方。ほら、あそこは夜9時まで開いてるから」


「食事はしないのか?」


「しない。しない」


「そう?」


「一緒にお食事でもしてると思った? やあね。そんなデートみたいなこと」


「柿崎は、君と二人きりで何度も食事に行ったと言ってたんだが?」


「……ごめんなさい。一緒にお食事に行きました。……でも、疑われるようなことは何一つしてないのよ。信じて。お願い」


「さっきまでのことは嘘だったと認めるんだね?」


「……ごめんなさい」


「じゃあ、単刀直入に聞くけど、あいつと何回寝た?」


「そんなこと、してないわよ」


「浮気してたんだろ? 柿崎と。もう全部わかってるんだ。正直に言えよ。この家にも何度も来たんじゃないのか?このベッドでセックスしたんじゃないのか?」


「そんなことしてないっ!」


「嘘をついたことを認めた口で、信じろなんて言われてもね」


「じゃあ、どうすればいいの?」


「そうだな。とりあえずは」


 そう言ってわたしを抱きしめました。


「君の体に聞いてみようか」


 ❑❑❑❑


 夫の責め苦に耐え抜いたわたしがお風呂場で夫の体を洗っていると。


「いいのか? 俺とこんなことして」


「どういうこと?」


「柿崎に怒られないか?」


「どうしてそんなこと言うのよっ!」


「俺だったらいやだな。好きな女が他の男とセックスしたり、その後、体を洗ってるなんて」


「してないって、何度も言ってるじゃない。あっ、そうか。妬いてるのね」


「そうだよ。君のことが好きだからね」


「……わかったわ。あなた、柿崎さんをだしにして楽しんでるのね」


「ばかなこと言うなよ」


「絶対、そう。後ろ向いて。背中を洗うから……どうすれば信じてもらえるのかしらね」


「それを考えるのは君の役目だな。俺が提案しても納得できなければ意味がないからね。そもそも、俺としては別にこのままでもいいし」


「わたしはいやよ。疑われたままだなんて……ねえ。一度、柿崎さんと会って話してくれない?」


「めんどくさいけど、君がそうしたいならいいよ」


「じゃあ、次のお休みの日、わたしがセッティングするから」


「それは……来月の後援会の集まりのときじゃだめか?」


「どうして来月なの? あなたがこっちにいるときに都合が合えばいいんじゃない?」


「俺は今日、明日と休みをとってるし、来月の後援会の集まりの日も二日間休みをとるつもりでいるから、休日出勤して仕事をこなさないと。それに、今の俺には冷却期間が必要なんだ。しばらくは帰ってこないつもりだ」


「そんなぁ」


「寂しかったら柿崎に会ってもいいんだぞ」


「もう会わないわよ」


「役員をしてたら会わないわけにはいかないだろ? 打ち合わせもするんじゃないのか?」


「それはそうだけど……でも、あなたと会う前に口裏を合わせたなんて言われるのは……」


「口裏を合わせても構わないよ。修羅場はごめんだ」


「……結局、信じてくれないのね」


「今日の様子では無理だよ。だけど、これだけはわかってる。


 誰かを好きになるのは理屈じゃない。好きだっていう気持ちは、ある日いきなり心臓を鷲掴わしづかみにされたように生まれるものなんだ。


 誰もそれに抗うことなんかできやしない。


 だから、君が他の男を好きになったとしても、俺はそれが悪いことだとは思わない。その気持ちを我慢したり、一生隠すほうがよほど酷だよ。それは、誰にとっても不幸でしかないと思うんだ。


 それでも、夫婦の間で隠し事をしたり嘘をつくのは相手に不誠実だ。好きな人ができたら夫婦で話し合うべきじゃないかな。これからどうするか。君はどうしたいのか」


「だから、わたしは」


「一般論だよ。好きな異性が現れたとき夫婦としてどうするか。いろんな考え方があるけれど、俺は、君が好きな男と一緒になりたいのなら、君の幸せのために身を引いてもいいと思ってる」


「子供達のことはどうするのよ」


「二人ともあと5年もすれば、親から離れて一人暮らしをしてるよ。それに、離婚しても親であることに変わりはない。子供達のことは理由にならないな」


「もう、いいわよ。あっ、でも、それなら浜の家で、わたしだけに聞こえるように言ったわよね。『いずみと啓太のことは心配しなくていいから』って。あれ、どういう意?」


「そのとおりの意味だけど?」


「違うでしょ。柿崎さんに当てつけるような態度にしか見えなかったわよ」


「あぁ、それか。いや、確かに他の人には聞かれたくなかったからね」

「子供達のこと?」


「そうとも言える。……実は、君の夫だとは……言わなかったんだ」


 夫はてへっと笑うと。


「柿崎には大島って名乗ったから、3人で会うときは他人のふりをしてくれ」


 えええぇぇぇえっ!



【あとがき】


いずみ「第14話『そして色欲しきよくいさかう』を読んでいただきありがとうございます」


啓太「このあとがきは、作者に代わって副音声ふうに僕達でお送りします。


いずみ「ところで、作中に出てくるDTって何?」


啓太「戦士の称号です」


いずみ「略語でも伏せ字でもないよね」


啓太「アニメ、イクシオンサーガDTのオープニングで、歌詞の『DT』に『戦士の称号』って、文字を当ててあった。一説によると、歌詞が色々とアレで、『DT』とるびをふることでテレ東がオーケーを出したとか」


いずみ「そんな卑猥な意味なんだ。DTって」


啓太「けして卑猥ではありません。戦士の称号なので。むしろ、きよらか」 


いずみ「きよらかなら隠さなくても」


啓太「きよらかだからこそ、隠してる人もいるんだ。不思議だよね。女性なら尊いのに、男性は恥ずかしいなんて」


いずみ「尊い?ジェンダー的なこと?」


啓太「そうともいえる。時代ときは2012年。主題歌を歌ったゴールデン・イクシオン・ボンバーDTの本体の金爆は人気急上昇。アニメは福山潤さん新境地の異色作。深夜アニメとはいえ、ぶっ飛んだ作品だったね」


いずみ「それはむしろ深夜にふさわしいんじゃ?」


啓太「そうだね。当時の深夜アニメ、おにあいのオープニングも凄かった。茅原実里さんのSELF PRODUCERにのせて色々とエロかったよ」


いずみ「あんた、当時、何歳だった?」


啓太「……」


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