第13話 そして衝動は爆ぜる
水曜日の午後、私は帰省する新幹線の中から、どんよりとした気分で流れる景色を眺めていた。
これからどうするか、妻の不倫相手にどう責任を取らせるか、頭の中はそのことで一杯なのに、どうしたらいいかがわからない。
理由は、不倫相手が一体誰なのか、どこに住んでいて、どういう仕事をしているのか、何一つわかっていないからだ。
唯一の可能性は剣道部の関係者かもしれないという細い糸。本当はそれすらも怪しいのだが。
なんとか取得した休暇は今日の午後と明日1日。その間に、少なくとも不倫相手の正体を突き止め、できることなら不倫の決定的な証拠をつかみたい。
だが、具体的な方法もその後の対処方法も思いつかない上に、あまりに時間がなさすぎる。
里美を問い詰めるか?
やめておけ。下着や妊娠検査薬を並べたところで、適当な言い逃れを聞かされてうんざりした挙げ句、不倫相手と連絡をとって口裏を合わせる時間を与えるだけだ。
懇親会が開かれる浜の家に行って里美の様子を探るのはどうだ?
それで、里美が不倫相手と腕でも組んで嬉しそうにラブホテルに入ったらどうするつもりだ? 男にしなだれかかってホテルから出てくるところや別れのキスを交わす場面を見て平然と写真なんか撮れるのか? 不倫相手に殴りかからない自信があるのか?
暴力は苦手だ。それに不倫相手を殴って気が晴れたとしても、それは破滅への道。
里美が相手の味方をした瞬間、犯罪者の汚名を着せられ、すべてを失うことになる。
けれど、目と鼻の先で里美が不倫相手に抱かれるのを黙って見過ごすことができるのか?
だが、そうでもしないと相手の正体はつかめない。ホテルから出た男の跡を追って家を突き止め、住所と名前を調べるしかない。その後の修羅場など、すべてが明らかになってからで十分だ。
強がりを言うな。そもそも、そんなストーカーじみたことをしてでも正体を知りたいのは、不倫相手に対する怒りからだ。妻を奪われ、家庭を壊された怒りからだ。それなのに、不倫相手と妻の逢引を黙って見ている? ありえない。
自問自答する無意味な時間を断ち切るように振動音が大きくなり、耳詰まりの感触に襲われる。
トンネルだ。
そこに奴がいた。
明かりに照らされた車窓の向こう、暗闇を背にして、疲れ切った顔が浮かび上がっている。
赴任先に戻ってからしばしば現れるこの男に私は辟易としていた。
鏡に写る程度ならまだいい。思いどおりにねじ伏せられる。だが、この男はふとした瞬間に、まさに油断したところを狙って私に見せつけてくるのだ。
どろんと淀んだ目つき、だらしない半開きの口から物憂げに告げてくるのは、もう若くはないという現実。
それは、取り返すことのできない時間と失われゆく未来の自覚。
奪われたのは妻だけではない。過去も未来も、私の人生ごと奪われたのだ。
おい、いい方法があるぞ。
窓に映った男が囁く。
家に帰るというのはどうだ? 里美が男といれば一気に方をつけられる。二人してベッドにいるかもしれないぞ。
それは、言い逃れのできない証拠になるな。
昼間から女の家でセックスするような奴だ。正業についているかすら怪しい。反社かもしれないな。だったらどうする? 背中の彫り物を見たら、お前、怖気づくんじゃないのか?
その場合、慰謝料は無理だろうな。だが、子供達を連れ出す理由にはなるさ。
そう告げて男から目をそらす。
月曜日の朝はこんなことになってはいなかった。
赴任先へと戻る新幹線、冷めた頭で考えていたのは、離婚を前提に今後どうするかということだった。
親権がほしいのならくれてやってもいい。養育費も常識の範囲なら支払おう。面会交流は、子供達がつらい思いをしたときに私のところへ逃げ出せるようにしておけば、もうそれだけで十分だ。財産分与は残ローンの返済込みなら土地建物を妻に渡してもいい。どうせ私には無用の長物だ。慰謝料は不倫相手からいただく。
そう思い定め、妻とのことはもういいと、気持ちの整理はできていたはずだった。あのときは。
日曜日の夜、妻と肌をあわせ、渾身の一撃をくらわせてすっきりしたからかもしれない。
涙目で、「許して、許して」と訴える里美をとことん攻め抜き、「愛しています。もう許して」と言わせて当初目標を達成したことも気が晴れた一因だろう。
許して、の意味は違うが。
それでも、翌朝、目を覚ましたときに、里美が私にしっかりとしがみついていたことや、一緒にシャワーを浴びて丁寧に洗ってくれたこと、ネクタイを締めてくれたり、上着を羽織らせてくれたり、玄関で背中から抱きついてきたりと、いつもより愛情深い様子に、妻を不倫相手から取り返しただけでなく、男としての自信も取り戻して気持ちは穏やかになっていたのだ。妻に対しては。
そう。妻が明日、不倫相手に同じことをするのだとしても、もうこれ以上望むことはないと割り切れるほどに。
どんなに身を持ち崩そうとも、一度は死ぬまで一緒にいたいと願った女だからと。
そして。
私と一緒にいるより、不倫相手といるほうが幸せなら、残りの人生は別々の道を歩くほうがいいと、心の底から思ったのだ。あのときは。
17年の結婚生活に未練はあるものの、二十代、三十代の輝いていた時間を私と一緒にいてくれたことに感謝し、黙って妻を送り出そうと決めていたのだ。あのときは。
それくらい私にとって幸せな日々だったからこそ、不倫相手に家庭を崩壊させた責任を追及したいと、それだけを願ったはずだった。あのときは。
それがどうしたことか、時間が経つにつれて、里美の笑顔が目に浮かぶようになり、別れを拒絶する気持ちが芽生えてきた。
未練がましいと思う。無様だと。
それは、あの夜の夢のような快感のせいなのかもしれない。
車窓に映る男が、口元に三日月のような笑みを浮かべて冷たく嘲る
最高に興奮しただろ?
そうだ。気づいてしまった。嫉妬という媚薬があれほどに甘美だったということに。
胸をしめつけられるような切なさも、かきむしりたいほどの絶望も、じりじりした渇望の果てに、高く炎をあげて燃えさかる劣情の薪にすることができる。
それは、不倫相手の女に墜ちた妻を、誰はばかることなく堂々と犯して我がものにしたときの、暗い情念、漆黒の炎、忌まわしい快感、割れんばかりの喝采っ!
そんなことができるとは思わなかった。
不倫相手と私、男としてどちらが上か、女に恥辱の限りを尽くして競い合うしびれるようなシーソーゲームへの誘いに、心を踊らせ堪能する妄想に耽るなんて。
妻と触れ合った夜、そんな禁忌の扉を開けてしまったのか。快感の裏側に潜んだ狂気に取り憑かれてしまったのか。
手放していいのか? あの女を。
悪魔が私を煽ろうとする。
簡単なことだ。見逃してやればいい。
それは、現状維持という名の甘い誘惑。
けれど、同時にそれは、17年の幸せな日々の否定だ。一緒に暮らしてきた女性への冒瀆だ。
そんなことを当たり前に思うようになる前に、私自身が悪意に染められてしまう前に、早くなんとかしなければ。
早急に不倫相手を突き止め、妻を別の人生に送り出し、仕事に戻って、自分の人生を立て直さなければ。
いつの間にか窓の外は明るくなり、悪魔は消えていた。
それなのに、一度降りてきた邪な欲望は、私を取り込んで堂々巡りの底へと引きずり込もうとしていた。
❑❑❑❑
新幹線が駅に滑り込み、音もなく停車したのは、すでに夕暮れが迫るころ。
日差しがプラットフォームに残していった熱気は、地を這いその場にとどまって、蒸し暑さと息苦しさを引き連れ、新幹線から降りた私を出迎えてくれました。
天井がなく、開放されているはずの頭上には、熱波を逃さないよう見えない膜が張られているようで、あっという間に汗が吹き出し、背広の下を首から背中に伝って流れ落ちていきます。
逢魔が時という言葉に背くように、先程まで私を愚弄していた男は、長い影の中に隠れて出てくる気配はありません。
家に帰る気持ちはすでに失せ、直接浜の家へと向かうことにしました。
せめて、ジョッキで喉を潤さなければ立っている気力さえも溶けていってしまいそうです。
なのに、夕暮れの街並みを歩いていると、懐かしさと手繰り寄せた思い出が足を止めようとします。
もしかしたら、いえ、おそらくはもう二度と暮らすことのないこの町を歩くことで感傷的になっているのでしょう。
この町で過ごした15年という短くない歳月を振り返りながら、終焉に近づくように、一歩、また一歩と、浜の家へと向かっているのです。
そうやって浜の家に着いたころには夜も深まり、時刻は8時を回っていました。
見上げた浜の家の看板は照明で煌々と照らされ、大騒ぎをする声が店の外まで漏れています。
閉店するにはまだ早く、外で待つには時間を持て余しそうなので、店に入ることにしました。
「らっしゃい。お一人様ですか? カウンター席にどうぞ」
勧められるままにカウンター席に座って生ビールを注文し、お通しをつまみながら店の中の様子を眺めます。
十人ほどが座れるカウンター席の背中にテーブル席が三つ。店の奥には障子で隔てて座敷がありそうです。
客の姿は見えないものの、大勢の賑やかな声が聞こえてきます。外まで聞こえてきた声は、座敷からだったのでしょう。
その中には妻もいるはずです。そして、おそらくは不倫相手も。
「ナマ一丁。おまたせしました」
店主の言葉に合いの手を打つように、ゴクリゴクリと飲み干して、追加のハイボールを注文しました。
特に考えもないまま来てしまったが、どうするか。
座敷に乱入するわけにもいかず、あわせて注文したなめろうをつまみながら、ちびりちびりとハイボールを舐めて時間が過ぎるのを待つことにしました。
しかし、終わらない。
いつの間にか、握りしめたグラスは空になっています。何も注文しないでこのまま居座るわけにはいかないので、ハイボールのおかわりを注文しました。ついでにつまみも。
「おすすめはありますか?」
「イカ刺しのいいのがあったんだけどね。もう全部出ちゃってね。でも、まかない用でよければ、ゲソが残ってる。どう?バター醤油焼きとか」
「いいですね。じゃあ、それを」
「まいどっ」
「ところで、奥の方、にぎやかですね。常連さん?」
「うるさくしてすまんね。地元の中学の剣道部が大会で優勝したらしくてね。今日はその祝勝会らしいよ」
「剣道部ですか?」
「ああ、剣道部を指導している人達の集まりだね。月に一度、ああやって使ってもらってる」
ひときわ高く「めーん!」「きぇーっ!」と騒ぐ声に二人してあっけにとられ、顔を見合わせました。
「あの様子じゃまだまだ終わらないな。いつものことだけどね。はい、ゲソのバター醤油焼き、どうぞっ!」
時計を見ると、もう9時です。店主も暖簾をしまって閉店の準備をしています。
「オヤジさん、このお店は何時までやってるの?」
「本当はそろそろ閉めたいんだけどね」
「奥はまだ終わりそうにないですね」
「そうなんだよ。使ってくれるのはありがたいんだけど、いつも遅くまで残ってるからね。でも、今度の担当さんはしっかりした人だから助かってるよ」
「どんな人なんですか?」
「お客さんの中に女の人も一人だけいるんだけど、最後まで残って、ちゃんと送り届けてる」
「それは、お持ち帰りされてるんじゃ?」
「いや、いや、そんなことする人じゃないよ。礼には礼で返すことを知ってる。この間、美術館の招待券をもらったんだよ。世話になってるからって。こっちは商売だし。大したことはしてないんだけどね」
「美術館?」
「県庁にお勤めらしいね」
「県庁には知り合いも多いんですが、知ってる人かな?」
「柿崎さん。知ってるかい?」
「柿崎さんですか。いやあ、知らない人だった。……オヤジさん、片付けてる途中、邪魔して悪かったね」
「いいさ。どうせ、あっちはまだ終わらないからな」
そう言って背を向けた店主を尻目に、座敷を見ると、障子が開け放たれ、男達が彼らにしか見えない剣を構えて対峙しています。
いい年してチャンバラごっこかよ。
だけど、その奥で壁にもたれてぐったりしているのは……まさか?
気づいたときには、「里美!」と座敷に駆け寄り、手をついていました。
急性アルコール中毒という言葉が浮かびます。それを放ったらかしにするなんてと、怒りが湧いてきます。
「やっぱりそうだ。里美!」と、怒りにまかせて座敷に身を乗り出し、場合によっては上がり込むつもりで片膝を乗せます。
こいつら、寄ってたかって潰れるまで里美に酒を飲ませたのかっ!
男が里美を隠すように膝をずらして私の視界をふさぎました。それに対抗するつもりで。
「まさか、酔い潰したわけじゃありませんよね」
声を荒らげて男達を睨みつけました。
「休んでるだけだよ」
「里美は一人でここへ? 連れはいないんですか?」
「ああ、今日は剣道部の関係者の集まりなんだ」
「もう終わったんですか」
「まだだよ。まだ早いからね」
「もう9時ですよ。疲れ切った女性を連れまわしていい時間じゃないでしょう。子供達だって心配してるだろうし」
「まだ9時だよ。それに、里美ちゃんもすぐに起きるよ。大丈夫」
里美ちゃん?
こいつなのか? こんな六十を越えてるオヤジに里美を寝取られたのか!
いくらなんでもおかしいだろっ! どこが良くてこんな男に抱かれたんだっ!
金か? それともセックスか?
ふざけるなっ! こんな男がお前の好みなら、熨斗を付けてくれてやるっ! このジジイ好きの変態女がっ!
「里美ちゃんも家族のことを忘れてぱぁっと騒ぎたいときがあるんだよ。わかってあげなよ」
はあっ?
こいつもか?
お前の愛人、一体何人いるんだっ! それとも3人で仲良くやってるのか? このアバズレの淫乱女がっ!
もう、やめだ、やめだ。やってられるかっ! もういいっ! さっさと連れて帰るぞ。ばかばかしい。
帰ったら泣くまで説教して離婚を突きつけてやる!
何が、不倫相手といるほうが幸せなら別々の道を歩いたほうがいいだと?
何が、二十代、三十代の輝いていた時間を一緒に過ごしてくれたことに感謝だと?
くだらなすぎて話にならないっ!
それに、あのくそ悪魔。
ふざけるなよ。お前、最高に興奮しただろとか、よく言ったな。
そして俺。
暗い情念、漆黒の炎、忌まわしい快感、割れんばかりの喝采? 何言ってんの? ばかじゃないの? 俺と不倫相手のどちらが男として上とか恥ずかしいよ。
穴があったら入りたい。
狂気とか、禁忌とか、あのときの俺は確かに狂ってた。それは認めよう。女を手放していいのかって? どうぞ、どうぞ。
17年の幸せな日々の否定? 一緒に暮らしてきた女性への冒瀆? そうだろうさ。こんな女だなんて知らなかったからな。
俺自身が悪意に染められる? もうどっぷり染まってるよ。今夜にでも、こいつ、叩き出してやるっ!
だけど、今はこいつを連れて帰るのが先だ。
「でも、もう9時ですよ。しかも里美は眠ってしまってる。休んだなら、起こして帰らせるべきじゃないんですか」
努めて穏やかに話そうと言葉を選びますが、抑えきれない怒りで爆発しそうです。
「今夜遅くなることは子供達だって知ってるよ。この集まりは剣道部の関係者だからね。心配はしてないんじゃないかな」
もう、うんざりだ。こんな奴らの相手をするために、わざわざ休みを取って帰ってきたんじゃない。
「それに、柿崎さんが送っていくから。心配ご無用」
「「柿崎さん?」」
私と同時に同じ言葉を発した男がいました。
一瞬で理解しました。こいつらじゃない! 他にいるんだ!
そして、それは──
全員が一人の男を見ています。
こいつが柿崎。妻の不倫相手か。
❑❑❑❑
さて、どうするか。
冷静になって対策を組み立てます。使い古された言葉なのに、いまだにマスコミが煽りに使っている、絶対に負けられない戦いがここにあるのです。
まったく、ドーハから何年経つと思ってるんだ。
こほん。
現代の経営においては、業務管理をどうするかというのが重要なテーマだと、経営戦略会議に出席した上司が戻ってくるたびに聞かされていたことを思い出します。
それは、経営戦略にとどまらず、自己管理や日常の行動にも応用できる対処方法の概念。
まずは、PDCAサイクルと呼ばれるプラン(計画)、ドゥ(実行)、チェック(評価)、アクト(改善)を繰り返して業務を継続的に改善する方法。トヨタの「改善」に代表される中長期的に組織を育てる経営戦略。
そして、OODAループと呼ばれるオブザーブ(観察)、オリエント(判断)、ディサイド(決定)、アクト(実行)を繰り返して業務の迅速性を管理の柱とする方法。即決即断の積極性で市場に斬り込む経営戦略。
この、不倫相手との絶対に負けられない戦いで勝敗を決めるのは、おそらく、スピードと柔軟性。
であれば、柿崎という男への対策としてはOODAループが適切でしょう。
柿崎の言動を観察し、長所と短所を判断、弱点にどうアプローチするかを決めて実行する。その結果を見て、手を変え品を変えてアプローチを繰り返す。
正面から戦うのを避け、不意をついたり、嘘をついて弱点を探す。勝つためなら欺瞞工作だってありだ。弱点を見つけたら徹底的に攻める。テンポよく攻めて主導権を握り、心理的に追い詰めていく。
これだな。
そうすると、情報量が少ない私が勝利するには、この男の精神を揺さぶることが必要です。
さて、どう料理するか。
「いつもそうなんだよ。里美ちゃんは柿崎さんが送っていってるんだ」
「そうですか」
私の関心はもうオヤジ達にはありません。戦うべき相手はこいつらではなく、目の前の紳士然とした端整な顔立ちのやさ男。
ですが、外野がうるさい。
それに、ノーテンキな顔でスヤスヤと惰眠をむさぼっている里美を見ていると、それだけで何か腹が立ってきます。もごもごと何か寝言も言ってるし。
お腹に掛けられた上等そうな背広にもやつあたりの鉾が向かいます。
お前、口からよだれを垂らして、背広を汚してるぞ。誰のか知らないがざまあみろだ。
だけど、今は。
とりあえず叩き起こして、3人だけで話し合いをしたい。
「このままにはしておけませんね」と、里美を起こそうと座敷に上がりながら、不倫相手に声をかけました。
「柿崎さん? でしたか。送るっていうなら一緒に帰りますよ」
なのに。
「そんなこと言われても。なあ」
いきなりオヤジが口を挟んできました。
はあ? お前、関係ないだろっ!
「そもそも、あんたがどういう人かも知らないし」
「柿崎さんはどう思う?」
「そうだよ。里美ちゃんは」
いい加減、部外者は引っ込んでろと言おうとした瞬間、オヤジが「柿崎さんの彼女だからね」と言い放ちました。
なんと、私が仕掛ける前にオヤジ達が柿崎を仕留める機会を作ってくれました。
「彼女? 里美が柿崎さんの彼女って、どういう意味ですか」
柿崎の顔色が変わります。
「言葉どおりの意味だよ。里美ちゃんは柿崎さんと仲がいいからね」
ターゲットをオヤジに変更します。ここで情報を集めたほうが得策かもしれません。
柿崎は冷静を装って、「そろそろ帰ったほうがいい」とか、「お店も迷惑してる」と言っていますが、オヤジ達、「お酒も料理も残ってるよ。これを捨てるのはもったいないだろ?」と、ボールを回して私をアシストする気満々でいます。この波に乗らない手はありません。
「まあ、まあ、あんたもどう? いいから一緒にやろうよ。ほら、ほら、コップを持って」
ゴォォォル! と川平慈英が叫びました。ような気がします。華麗なドリブル突破でゴールを決めたのはオヤジですが。
ならばと、手近にあったコップを持って「そうですか。じゃあ、遠慮なく」とビールを飲みながらオヤジからゆっくり話を聞くことにします。
オヤジがビールを注いで、「あんたは里美ちゃんとは仲がいいの? 里美ちゃんのこと、呼び捨てにしてたけど」と聞いてきますが、当然、本当のことを言うつもりはありません。
「結婚する前からの友人ですよ。里美の両親とは今でも行き来がありますし」と、嘘ではないけれど、夫であることを隠して餌をまきます。
「おおう。柿崎さん、ライバル登場だ。どうする?」
ほぉら、食いついてきた。
「ライバルって、どういうことですか?」
苦もなく情報が集まってくることに、内心ほくそ笑みながら真剣な顔でたずねました。
「ええっと。何さんだったっけ?」
「お、大島といいます」
あまりに速い展開に、うっかり本名の大原と名乗るところでした。
オヤジのキラーパス、恐るべし。
とっさに思いついた名前ですが、不審に思われた様子はありません。
「うん。大島さんね。里美ちゃんは、ここだけの話だけど、柿崎さんと一緒に後援会の役員をしてるんだけどね。まあ、仲がいいんだ。そりゃ、妬やけるくらいにね」
ヒットォ!
大物が釣れた感触に心が浮き立ちます。里美が奪われたことが明らかになっていくというのに、胸の内に押し寄せるのは哀しみや怒りではなく、突き抜ける高揚感。
「やめてください。違いますから」
柿崎の慌てぶりが、真実であることを証明しています。それを見て、ここぞとばかりにオヤジを煽ります。
「里美は結婚してるのに? さっき剣道部の関係者の集まりって言ってましたけど、そういう関係もありなんですか?」
「ない、ない」
まあ、そう言うでしょうね。なら。
「じゃあ、ただの思い過ごしでしょ?」
「でもね。雰囲気でね。わかっちゃうんだな」
「それは、二人が付き合ってるということですか?」
「うん。俺はそう見てる」
ほほぅ。
「なら、だめじゃないですか」
「だめでも、人の気持ちはどうしようもないだろ?」
「モラルに反してもですか?」
「大人同士のことだからね。剣道部も学校も関係ないよ。そりゃ風紀が乱れるのは困るけど、まあ、そこは個人の問題だからね。だめだってわかっててやってるんだから、誰にも止められないよ」
どうも具体的な話はこれ以上は出てきそうもありません。
オヤジ、ご苦労さま。
「酒いきますか?」と、ねぎらいの酒を勧めます。
「おおっ、かたじけない。じゃこちらからも」
「ありがとうございます」
順調に情報収集をしているところに、いきなり柿崎が割り込んできました。
「いい加減にしてください! そんな根も葉もない噂を流して楽しむなんて大原さんに失礼じゃないですか!」
無粋なやつです。これからお楽しみの妻を弾劾する裁判が始まろうというのに。
ただ、せっかく寝てくれている被告人を起こすことはありません。異議ありとか言わせる間もなく裁判を進めていきたい。
静かにと、人差し指を口に当て、柿崎の後ろで壁に頭をのけぞらせて大きく口を開けて爆睡中の残念な被告人を指差します。
足を伸ばし、股を開いて、ストッキングを履いているとはいえ、スカートの奥まで覗けそうな格好に、皆が「うわぁ」とどん引きしています。
「すいません。大声を出して。でも、大原さんをそんな目で見るのはやめてあげてください。後援会のために一生懸命やってるんですから」
後援会のため? 後援会を隠れ蓑に不倫している奴が偉そうなことを言うな。
じゃあ、次の爆弾だ。
「柿崎さんは里美のことを心配してるんですね。私もそうなんです。……いや、それだけじゃない。本当のことを言うと、ずっと前から里美のことが好きでした。結婚するずっと前からね」
……結婚してからもね。
今夜だって、里美の態度次第では、当分は現状維持でもいい、子供達の世話をしてくれている間はことを荒立てず穏やかに過ごしてもいい、私とのことも、柿崎とのこともどうせなるようにしかならないと気持ちは軟化しているのです。
不倫相手はわかった。県庁職員の柿崎さん。
証拠を集めるのはもう無理かもしれないが、里美がこいつとの付き合いを続けていればおのずと出てくるはずだ。どうするかを考えるのはそのときだ。
そんなふうに思えるほど、心は凪いでいました。
ですが、遊びのつもりなら、もう里美には関わらないでほしい。
私を裏切った女だけど、やはり、まだ好きだから。
あの無防備なバカ面も、だらしなくいびきをかいている愚鈍さすらもが愛おしいから。
だけど、この男がこれからどうするつもりか、気持ちだけでも聞いておきたい。手段は選ばない。
虚言? 欺瞞? 上等だ。シェリル・ノームのように叫ばなくてもいけるはず。
会場のオーディエンス! 私の歌を聴けぇっ!
「幸せに暮らしているみたいだったから自分の気持ちに蓋をしてきたけど、でも、チャンスがあるのなら今からでも名乗りを上げたい。
柿崎さんがライバルだというのなら今度こそ負けるわけにはいきません。違うというのなら、これでこの話は終わりにしますが、どうなんですか? 後から出てきて邪魔をするのはやめてくださいよ」
お前のしたことはわかっている、もう、里美に近づくなと、釘を刺したつもりでした。
ですが、この男、「大原さんは美人で気立てがいい女性だと思います。誰にでも優しい人ですから、嫌いに思う人はいないでしょう」と始めこそ穏当だったものの、次第に「いい年をした大人が」とか、「迷惑をかけている」とか、後援会に迷惑をかけていることをそっちのけでオヤジ達を責め始めました。
私に対しても、「黙って立ち去れ」とか、「蛇」、「ストーカー」と言いたい放題です。
挙げ句、「彼女の幸せを1番に考えてあげるべきだ」とか言いながらも、「いつまでも待っている」、「困ったとき、寂しいとき、悩んだとき、泣いているとき、できることは全部したい」、「気持ちが届かず、想いが実らなかったとしても大切にしてたい」「一生、守りたい」とストーカー全開の発言をして、周りをあ然とさせています。
さらには、「いつか、目が覚めて、本当の自分を取り戻し、心から笑った顔を見たい」、「それは生きる意味になっているから」と、絶対に諦めないと、人生をかけて人妻を奪うと高らかに宣言しました。
本気なのかバカなのか、こんな男を抱えている県庁の職場の皆さんに心底同情します。
里美を人妻と知っての公開告白。
しかも、長々と続いた言葉の終わりは不毛な欲望。あまりの自己陶酔に反吐が出そうです。
かつて、自分の父親に、ヒトラーの尻尾と蔑まれた男のことを思い出し、「ジーク、ジオン」と小さく呟きました。
ですが、同時にこの男、感情の起伏が激しい分、煽ったり、おだてたりすれば、簡単に里美とセックスしたことを得意げに話してくれるでしょう。
ただ、自分が言った言葉の愚かさに気づいていないのでしょうか。
平然と私を見て胸を張って、おそらくは、私の言葉を待っているのです。皆の異物を見るような冷たい目にも気づかないで。
誰も何も言わないので、しかたなく私が皆を代表して伝えます。
「柿崎さん、それは……里美のことを好きだと言ってるも同じですよ」
そして、デギン公と同じように小さく付け加えました。
「ヒトラーは敗北したのだぞ」と。
【あとがき】
いずみ「第13話『そして衝動は爆ぜる』を読んでいただきありがとうございます」
啓太「このあとがきは、作者に代わって副音声ふうに僕達でお送りします。物語の舞台は2012年。当時は基本戦略という言葉が会議で踊っていて、プラン、ドゥ、シーは古いとか、これからはPDCAサイクルだ。いや、OODAループだと、具体的な行動も示すことなく、概念だけが先走っていたらしいね」
いずみ「具体的でないって?」
啓太「具体的な行動は現場まかせということ。トヨタ式カイゼンの成功が大きくクローズアップされ、組織論が活発になって現場を混乱させていたらしい。だけど、PDCAサイクルは1950年代に、OODAループも朝鮮戦争のパイロットの行動を参考に提唱されたもので、別に新しいものじゃなかった」
いずみ「別にどうでもいいけど、なんで【あとがき】ってるの?」
啓太「本編で、OODAループは嘘も欺瞞もありって言ってるけど、そもそもの着想が戦争だからあり得たわけで、ビジネスシーンにおいてOODAループが嘘や欺瞞を許してるわけじゃない。そこのところ、勘違いしないように伝えたくて」
いずみ「結局、どっちも古い考え方なんだね。新しいのはないの?」
啓太「数年前に、折木良一氏が提唱したIDAサイクル。インフォメーション(情報)、ディシジョン(決心)、アクション(実行)があるね。絶対に負けないことを目指してる」
いずみ「絶対に負けない?」
啓太「採用してるのは自衛隊。負けることは国家の崩壊を意味してるからね」
いずみ「今のこの時期、きな臭い話は聞きたくなかったよ。あと、ロシアのウクライナ侵攻がガルパンに影響しないといいな」
啓太「北京でパラリンピックをやってる時点で関係ないよ。世界が優しくないことが今まさに証明されてる。現在進行形で」




