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12/22

第12話 そして霹靂に疼く

 6月20日の連絡会は、4月以降初めてのにぎわいを見せていました。


 17日に行われた春の県大会で優勝し、7月に行われる全国大会の県予選では第1シードに選ばれたからです。


 県予選では優勝候補同士が中盤でつぶし合うのを防ぐため、春の県大会でベスト4に残った学校を4つのブロックに振り分けて、準決勝まで当たらないようにしています。


 もっと言うと、県大会の優勝校と準優勝校は、県予選で勝ち進んでも相まみえるのは決勝戦という仕組みのトーナメント制。強い学校が結果を残しやすい仕組みができあがっているのです。


 そんな強豪校に有利な大会で、優勝できる力があるのなら、悠然と構えていればいいと思うのですが、子供達の汗と努力を間近で見ていながら、昨年、一昨年と一緒に悔し涙を流す結果になった父兄としては、少しでも全国への道が広がったことを喜ばずにはいられないのでしょう。


 今年こそは全国大会だと、鼻息を荒くして、自分達が出場するわけでもないのに熱く語り、中には素振りのまねをしている父親までいるくらいです。


 そんな会場の熱量をうっとおしく思いながら、私は提案した夏休みの監督当番表の案が承認されるのをひたすら待っていました。


 かつて県議会で予算案が可決されるのを議場の隅に立って待っていたころのことを思い出しながら。


 ただ、私の本当の仕事は連絡会の後の懇親会です。


 なんといっても、県大会優勝に導いたのは有志の方々の指導によるもの。


 今夜も居酒屋で祝勝会という名の懇親会が予定されているのです。


 大原さんは私に気を使ったのか、私から離れるように幹事三役と並んで座っています。


 ときおり聞こえる会話からは、祝勝会に参加するようしきりに促されて困っている様子がうかがわれます。


 前回、前々回のことを考えると、大原さんをそんな場所に連れ出すのは気が引けるのですが、本人が断わらないのに私が口を挟めるわけがありません。


 高ぶる気持ちを抑えようと目を閉じました。


 こうやって少しずつ疎遠になっていく寂しさにもそのうち慣れる日が来ると、自分に言い聞かせながら。


 ❑❑❑❑


「お陰様で優勝できました。日頃の皆様方のご協力に感謝してやみません。


 今宵の宴、ささやかではありますが、大いに飲んで騒いで、日頃の指導のご苦労、うさを洗い流して、来たるべき県予選会に向け、活力の糧にしていただくとともに、後援会へのますますのご支援を賜りたいと願う所存でございます。


 では、剣道部の今後の活躍と皆様方のご健勝を祈念して、…………乾杯っ!」


 会長も絶好調です。この際、有志達のことはこのまま幹事三役に任せておくことにして、私は大原さんを帰らせるタイミングを図ることにします。


 始まって1時間も経ったころ、大原さんに声をかけようと姿を探しましたが、あちらこちらへとお酒をいで回るために座席を移動しているので、なかなか話をすることができません。


 移動する先々でセクハラをされていないか心配にはなりますが、私にできることは何もないと諦めて遠くから見守り、近くに来るのを待つだけです。


 再構築した私と大原さんの関係は、後援会の役員同士というだけのこと。


 そこから踏み出さないよう、意識して、ぶんをわきまえ、目立たないよう心がけ、言いたいことを飲みこんで接しなければなりません。


 近づきすぎないこと。


 それが二人の暗黙の了解だから。


 ですが、そいう関係だとわかっていても、大原さんが有志達とお酒を酌み交わし、一緒になって楽しそうに笑っているのを見ていると、それだけで切なくなり、心がざわついてしまうのです。


 ❑❑❑❑


「いやになっちゃう。挨拶して回ったら、必ず返盃を受けさせられるの。もう、酔っ払って頭がふらふらよ」


 一回りして役員の席に戻った大原さんはそう言って顔をしかめました。


「挨拶ですか?」


「幹事長が、行ったほうがいいって言うから」


 あのババァ!


 有志達はすでに座席を離れ、めいめい好き勝手なところに座り込んでいます。


 入り乱れた会場を見渡しますが、ババァ、もとい幹事長の姿はどこにもありません。よく見ると、会長も、副会長も。


 やられた!


 私と大原さんを人身御供にしてさっさと帰ったに違いありません。


 なにせ、この会はなかなか終わらない。今夜も午前様かと思うと頭が痛くなってきます。明日も仕事があるというのに。


 いつの間にか、大原さんの口数が減り、目がとろんとしていました。


 まずい。もう帰らせなくちゃ。


 ですが、このまま一人で帰らせるのは不安です。


 タクシーを呼ぶ? 駄目だ。行き先も伝えられず眠ってしまったらどうする。


 やむなく、「少し休んでおいたらどうですか」と声をかけると、返事をすることもなく、壁に寄りかかってすやすやと軽い寝息を立て始めました。


 二十数人を詰め込んだ座敷ですが、人いきれで暑くなるのを抑えるためにクーラーがよく効いています。


  風が直接当たらないよう大原さんに私の上着をかけて時計を見ました。


 時刻は9時。解散してもいいはずの時刻ですが、こいつらの言い分だと、いつも10時まではすることに決まっているようです。無理して解散させても、すでにほとんどの飲食店が閉じているこの町では、解き放たれた不逞ふていやからが、路上にたむろして缶ビールをあおりながら大声で騒いで、警察の手をわずらわせるだけ。


 仕方ないと諦めて、あと1時間が過ぎるのを待つことにします。そのとき。


「里美? やっぱり里美だ」


 突然の声に驚いて顔を上げました。


 座敷の上り口から男が身を乗り出しています。


「まさか、酔い潰したわけじゃありませんよね」


 男の詰問するような声に、有志の一人が「休んでるだけだよ」と言い返します。


「もう9時ですよ。疲れ切った女性を連れまわしていい時間じゃないでしょう。子供達だって心配してるだろうし」


 男がとがめるような目で私達を見回しました。


 大原さんを下の名前で呼び捨てにするような親しい間柄です。うかつな対応をして大原さんに迷惑をかけるわけにはいきません。


 ましてや、この男の言ってることは至極当然のこと。


 それなのに。


「まだ9時だよ。それに、里美ちゃんもすぐに起きるよ。大丈夫」


 そう言い放つオヤジにあ然としてしまいます。


 大丈夫とか、言葉を選べよ。考えなしにもほどがあるだろ! 言い訳にすらなってない。それに、里美ちゃんだと?


「里美ちゃんも家族のことを忘れてぱぁっと騒ぎたいときがあるんだよ。わかってあげなよ」


 オヤジがもう一人加わって反論します。


 最悪の展開です。責任を大原さんにかぶせておいて、里美ちゃんと呼んで親しげに振る舞うことで、男に仲間内のことに口を挟むなと言いたいのでしょうが、男は大原さんの家族のことを知って声をかけてきたのです。こちらに分がないことくらいわからないのかな。


「でも、もう9時ですよ。しかも里美は眠ってしまってる。休んだなら、起こして帰らせるべきじゃないですか」


 そのとおり。よくぞ言ってくれました。手を叩いて拍手を送りたいくらいです。


 でも、ここまで。


 これ以上、不毛な会話を聞いてはいられません。まずは祝勝会を終わらせ、オヤジ達と男を引き離し、大原さんを起こして帰らせないと。


「今夜遅くなることは子供達だって知ってるよ。この集まりは剣道部の関係者だからね。心配はしてないんじゃないかな」


 まだ言いつのろうとする態度に、もうやめさせようと腰を上げたとき。


「それに、柿崎さんが送っていくから。心配ご無用」


「「柿崎さん?」」


 私と男の声がシンクロしました。


 一瞬で体が凍りつきました。言いたいだけ言っておいて、私に振りやがった。このくそオヤジ!


 男も驚いています。そして、男の質問に応えるように、全員が私を見ました。


 顔が青ざめていくのが自分でもわかりました。が、前回もその前も大原さんを送っていったのは私です。関係ないとは言えません。


「いつもそうなんだよ。里美ちゃんは柿崎さんが送っていってるんだ」


 このオヤジ、とどめを刺しにきました。男をさんざん煽っておきながら、私を生贄に差し出して逃げ切るつもりです。最低のくず野郎です。


「そうですか」


 そう言って私を睨む目に、男の怒りが私に向けられたのがわかりました。私は何も言ってないのに。


「このままにはしておけませんね」


 誰を? 私のこと?


 男が座敷に上がって近づいてきました。


「柿崎さん? でしたか。送るっていうなら一緒に帰りますよ」


 私は思わずうなずきました。


 そうですね。そうしましょう。みんな、もう帰りませんか?


「そんなこと言われても。なあ」


 はあ?


「そもそも、あんたがどういう人かも知らないし」


 オヤジ達、帰りたくないのなら、自分達だけ残ればいいじゃないか。もう、お開きでいいでしょ? 会長も副会長もババァも帰ったことだし。なんでここに居たがるの? このお店があんたらの家なの? 帰る場所がないの? 帰ってくるなと家族から言われてるの?


「柿崎さんはどう思う?」


 オヤジ達、私に全責任を押しつける気満々です。


「そうだよ。里美ちゃんは柿崎さんの彼女だからね。柿崎さんの考えも聞かないと」


 お前は黙ってろ、くそオヤジ。


 こいつは完全に私に爆弾を押し付けるつもりでいます。そうして逃げ場を失った私に男が。


「彼女? 里美が柿崎さんの彼女って、どういう意味ですか」


 と詰め寄ってきます。ほらぁ。そう聞いてくるに決まってるだろ。なんて言えばいいの?


「言葉どおりの意味だよ。里美ちゃんは柿崎さんと仲がいいからね」


 オヤジが男の背を押しているように聞こえるのは気のせいでしょうか。いつの間にか全員で私に詰め寄ってきているように見えるのもすべて気のせいなのでしょうか。


 しかも、私が背にしているのは、すやすやとお休み中の大原さん。


 思い浮かぶのは、魔獣の蹂躙じゅうりんから姫を守る騎士の図。


 いっそ手近のビール瓶を振り回して、こいつら全員、叩き潰そうか。


 でも、そんなことをしたら犯罪者。仕事を失い、収入も断たれ、妻と会えなくなり、大原さんとの秘密もあばかれるような気がします。


 ここは冷静に。そう、クールに。


 ウエストサイド物語のアイスが呼びかけてきます。ボーイ、ボーイ、クレイジーボーイ、冷静になれよと。あんなふうに手と足を高く上げて踊ってはいないけど。


「私の考えですか? そろそろ帰ったほうがいいでしょうね。お店も迷惑でしょうから」


「いや、いや。まだお酒も料理も残ってるよ。これを捨てるのはもったいないだろ? まあ、まあ、あんたもどう? いいから一緒にやろうよ。ほら、ほら、コップを持って」


 ふざけるなっ! 帰るつもりがないのなら、なぜ私に意見を聞いた? しかも、こいつを誘うとか、ありえないだろ!


「そうですか。じゃあ、遠慮なく」


 ええっ?


 オヤジが男に「さあ、どうぞどうぞ」とビールを注いでいます。


「あんたは里美ちゃんとは仲がいいの? 里美ちゃんのこと、呼び捨てにしてたけど」


「結婚する前からの友人ですよ。里美の両親とは今でも行き来がありますし」


「おおう。柿崎さん、ライバル登場だ。どうする?」


 もう私を巻き込むなよ。


 あきれて話す気にもなりません。オヤジ達と男は互いにお酒を酌み交わして打ち解けています。まるで古くからの知り合いのように。


「ライバルって、どういうことですか?」


「ええっと。何さんだったっけ?」


「大島といいます」


 この場で一番関係の薄い人間を選ぶとしたら、間違いなく私でしょう。大原さんが眠っていなかったら今すぐにでも帰っているところです。


「うん。大島さんね。里美ちゃんは、ここだけの話だけど、柿崎さんと一緒に後援会の役員をしてるんだけどね。まあ、仲がいいんだ。そりゃ、けるくらいにね」


 ぶふぅっ!


 とんでもない言葉に吹き出し、あわてて「やめてください。違いますから」と否定します。


 何がここだけの話だっ!


 けれど、こいつらは私の声が聞こえなかったのか、そもそも聞くつもりがないのか話をやめようとはしません。


「里美は結婚してるのに? さっき剣道部の関係者の集まりって言ってましたけど、そういう関係をもありなんですか?」


「ない、ない」


「なら、だめじゃないですか」


「だめでも、人の気持ちはどうしようもないだろ?」


「モラルに反してもですか?」


「大人同士のことだからね。剣道部も学校も関係ないよ。そりゃ風紀が乱れるのは困るけど、まあ、そこは個人の問題だからね。だめだってわかっててやってるんだから、誰にも止められないよ」


 本人を目の前に噂話を肴に勝手に盛り上がり、「酒いきますか?」、「おおっ、かたじけない。じゃこちらからも」、「ありがとうございます」と、私や大原さんそっちのけで楽しく会話に花を咲かせています。もうこれ以上は聞いていられません。


「いい加減にしてください!そんな根も葉もない噂を流して楽しむなんて大原さんに失礼じゃないですか!」


 私は声を荒らげて抗議しました。大島が人差し指を口に当て、次いで私の後ろの大原さんを指差して、静かに、寝ているからと、合図を送ってきます。


「すいません。大声を出して。でも、大原さんをそんな目で見るのはやめてあげてください。後援会のために一生懸命やってるんですから」


 私は声を潜めてオヤジ達を睨みつけます。と、突然、大島が。


「柿崎さんは里美のことを心配してるんですね。私もそうなんです。……いや、それだけじゃない。本当のことを言うと、ずっと前から里美のことが好きでした。結婚するずっと前からね」


 しんみりと語り始めました。右手で日本酒の入ったコップを持ち、肘をテーブルについた物憂げな姿にその場の皆が聞き入っています。


「幸せに暮らしていると思っていたから自分の気持ちに蓋をしてきたけど、でも、チャンスがあるのなら今からでも名乗りを上げたい。柿崎さんがライバルだというのなら今度こそ負けるわけにはいきません」


 そう言って挑むように私を見ています。まるで品定めをしているかのように。


 私への宣戦布告にも取れる言葉ですが、相手を間違っていませんか? それは大原さんのご主人に言うべき言葉では? と思いながら気づきました。ご主人との争いはすでに決着がついていたことに。


 ならばなぜ?


 もしかすると、私と大原さんの関係を聞いて妬いているのか? でも、ご主人と関係のないところで人妻を争うなんて尋常な話ではありません。それを平気で口にするこの男はどうかしています。


 まさか、ストーカーじゃないよね?


「違うというのなら、これでこの話は終わりにしますが、どうなんですか?あとから出てきて邪魔をするのはやめてくださいよ」


 人妻相手の、まさかの公開告白です。すきあらば寝取って我が物にしたいと。人倫を踏みにじることに一切のためらいを見せない悪魔の本性をあらわにして、私に迫ってきています。


 なんて答えるのが正解なのかわかりません。こんな大勢のオヤジどもが見ているというのに。それなのに、この悪魔は、にやにやしながら私の答えを待っています。


 大切なこと、それは大原さんの評判に傷をつけないこと。


 その一点に狙いを絞り、泥をかぶる覚悟で、いや、泥をかぶってもらう兄に怒られる覚悟で、独り相撲のピエロを演じることにします。


 ただし、この悪魔を道づれにして。


「大原さんは美人で気立てがいい女性だと思います。誰にでも優しい人ですから、嫌いに思う人はいないでしょう。


 だけど、好きとか嫌いとか、いい年をした大人が集まって、そんな言葉遊びで大原さんに迷惑をかけている現状は納得できません。


 大島さん、あなたは大原さんのことが好きだと言った。しかも里美と呼び捨てにするほどの仲だ。あなたと大原さんの間に何があったのかは知らないし、知りたくもない。


 けれど、その感情を第三者にぶつけるなんて間違っている。ましてや結婚している大原さんを狙ってるなんて、人前で言っていいことじゃない。あなたは大原さんが結婚した段階で大原さんのご主人に負けたんだ。だったら、大原さんの選択を尊重し、幸せを願って身を引き、黙って立ち去るべきなんだ。届かなかった自分の想いを永遠に封印してね。


 それなのに、よこしまな正体を隠して、蛇のように執念深く、大原さんやその家族に近づいて離れようとしない。


 あなたのような人を何て呼ぶか私は知っている。


 そんなストーカーの言い分を黙って聞いて、はい、そうですかなんて言えるわけがない。


 それは、大原さんを、大原さんの家族を、彼女の幸せが踏みにじられるのを、黙って見過ごすことに等しい。


 確かに、大原さんからは別居中だと聞かされた。ご主人とはうまくいっていないのかもしれない。でも、それを好機と捉えて女性を狙うなんて最低だ。


 大原さん(かのじょ)のことを大切に思っているのなら、何ものにもかえがたいと思うくらいに好きなら、大原さん(かのじょ)の幸せを1番に考えてあげたらどうなんですか。少なくとも、私ならそうする。いつまでも待っている。


 かのじょが困ったとき、寂しいとき、悩んだとき、泣いているときに、助けになれなくても、話を聞いてあげたい。できることは全部してあげたい。


 たとえ、気持ちが届かず、想いが実らなかったとしても、私はかのじょを大切にしてあげたい。そうやって一生、かのじょを守っていきたい。いつか、目が覚めて、本当の自分を取り戻し、心から笑った顔を見たい。……それは、もう、私の生きる意味に、心のりどころなっているから」


 辺りは静まり返り、誰もが大島の次の言葉を待っています。これからもストーカーの汚名を着たまま生きるのか、それとも、黙って大原さんの前から立ち去るのか。


 いや、これは大島のことなんかじゃない。私のことだ。


 私だって見方によってはストーカーと言われてもしかたがありません。


 妻がいる身で大原さんと触れあい、忘れたことにしながらも、その実、大原さんとの繋がりを失いたくないとあがいている愚か者なのですから。


 どんなきれいごとを並べても、私はこの悪魔と同じ穴のむじな。なら、私がすべきことは黙ってここから立ち去る以外にないのです。


 それでも。いや、だからこそ、この悪魔をこのままにしてはおけません。


 ここまで言っても大原さんを諦めないのなら、大原さんのご主人に代わって、刺し違えてでも戦う覚悟で睨みつけます。


 やがて、悪魔がゆっくり口を開いて。


「柿崎さん、それは……里美のことを好きだと言ってるも同じですよ」 


 あれぇ?


 ❑❑❑❑


 妻の変化に気づいたのはいつのことだったろうか。


 夜、かけた電話に出なかったとき? 古い画家の名前を口にしたとき? それとも剣道部の後援会活動のことを熱心に語るようになったときか?


 違うな。


 あの朝、妻が淹れてくれたコーヒーを二人で飲んだときだ。


 味を確かめることもなく、砂糖とフレッシュをためらわずにどばどば入れてかき混ぜた、コーヒーの香りがする甘いだけの黄土色の液体をがぶっと胃に流し込んでいた妻が、あの朝、立ち上がる香りを鼻で吸い込み、一口すすった後できっちり2杯の砂糖と少量用意したミルクで味を調整して口に含むという優雅な振る舞いを見せて、不覚にも見とれてしまったときだ。


 それからは日曜日に連れ立って外食に出かけたとき、ナプキンを使う何気ない仕草やスープを口に運ぶ所作のふとした瞬間に、どきりとする表情を見せることが増えていった。


 それでも、毎週洗濯物を土産に帰省した私を笑顔で迎えてくれる妻に、愛情を感じこそすれ、その貞節を疑ったことなど一度もなかった。


 その笑顔が、私に不倫を疑われないよう油断を誘うための偽りの顔だったと思い知らされるまでは。


 6月のあの日曜日の午後のこと。


 赴任先へ戻る前に靴を磨こうと覗きこんだ靴箱の中に、黄色いピンヒールのパンプスが無造作に置かれていた。


 それは、子供が生まれてから一度も履く機会がないことを残念がり、まだ履けるのにもったいないと笑いながら、磨いてはシューズボックスに戻していた妻の青春の残滓ざんしだった。


 人は必ず年を取る。妻にしてみれば、子供達の世話に追われてハイヒールの似合う服装からスニーカーの似合う服装に変わっていくことへの最後の抵抗を象徴するものだったのかもしれない。


 それを手入れもしないまま他のパンプスと一緒に並べている。まるで、宝物から日用品へと格下げになったように。


 それが、何かを諦めたことの証しであることはすぐにわかった。


 何か、妻の感情を大きく揺さぶるできごとがあったのだ。


 それは、日常の些細な変化。しかし、けして見逃してはならない警鐘のように思えた。


 だが、妻に何を問う? 何もないと言われればそれまでだ。


 そんな悶々とした気持ちで、洗濯した自分の下着を鞄に詰め込んでいたのがよくなかったのか、ふと思いついてしまった。


 最低な行為を。


 夫婦といえども触れることが許されない聖域がある。たとえば、妻のクローゼット。下着を収めたタンスの引き出しはその最たるものだろう。


 けれど、その禁忌を破ってでも、赴任先へ戻る前にどうしても確認しておきたいと思ってしまったのだ。


 不安を振り払うためだと自分に言い訳をし、妻が夕飯の仕込みをしている音を壁の向こうに聞きながら、そろりと引き出しを開けたときの衝撃。


 これは、何だ? ……紐? ……いや。


 両手で形を整えて初めてわかるそれは、紐パンツと呼ばれるモノ。腰の周りを締める輪を前と後ろを結んだ1本の紐を股をくぐらせて履く代物。


 Tバックなら前を隠すけれど、これは何も──


 下着というよりも、いや、これが下着の役目を果たすことはありえない。実用的な意味では。けれど、それでもこれを履くことがあるとすれば──


 動悸が止まらない。


 荒くなった息を吐き出しながら、引き出しの中に手を入れる。


 何を探しているのか、自分でもわからないまま、絶望に向かってひたすらに。


 ただ地獄の痛みを味わう結果にしかならないとわかっているのに。それだけは確実なのに、一つ一つ手に取って確認していくことをやめられない。


 すでに諦めの言葉が頭の中をぐるぐると回っている。こんな状況を妻に見られたら愛想を尽かされ、それが結婚生活の終わりにつながるとわかっているが、手を止めることができない。


 そうして見つけたものは──


 それを持ったまま、私はその場にへたり込んでしまった。


 私が手にしたもの、それは、多分、妻の下着のはず。他人の下着が紛れ込んでしまったのではないかと期待しようにも、そんなわけがない。ただ、この下着は──


 キッチンから妻の鼻歌と包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。


 ……何食わぬ顔でこんな物を隠し持って、一体何をしていたんだっ!


 瞬間、壁越しに妻を睨みつけた。鬼の形相で。


 肩ではぁはぁと息をしながら、私はあらためて両手でその下着を広げた。


 これが、女性下着売り場に飾ってあることなど絶対にありえない。


 そもそも、下着は誰かに見せるものではないが、これは絶対に違うと言い切れる。


 着心地きごこちではなく、性的に男を惹きつけることを目的に着用するモノ。明らかに男に見せることを前提とした存在だからだ。


 女がこれを身に着けるとき、男に抱かれることを期待して服を脱ぐことまで意識しているはずだ。


 だが、それでもこれは脱がないだろう。いや、脱ぐ必要がない。なぜなら。


 股間が切り抜かれているから。


 見た目は深紅のショーツ。だが、レースで作られたこれを履いたとき、女性の肌は赤い網から透けて、さぞや扇情的に見えることだろう。


 その上、ご丁寧にも開帳した部分にはレースのギャザーが施され、どことなく女性器を思わせる。そういう仕様なのだ。これは。


 つまり、これはショーツを脱がないまま男を誘ってセックスができるように作られた性具なのだ。


 過去、妻がこれを身に着けたことを見たことは一度もないし、数週間前に私の求めに応じたときでさえ話に上ることはなかった。


 そして、綺麗に折りたたまれて引き出しの一番奥にしまってあったということは、一度は身に着け、丁寧に手洗いをして次の機会を待っているということ。


 それは、妻がこの性具を身に着け、私以外の男の前で服を脱いだことがあるということを意味している。


 そのときにセックスをしなかった? そんな馬鹿なはずがない。


 誰といつ?


 許さない。絶対に。これは許せない裏切りだ。


 浮気女にも不倫相手にも制裁を加えてやるっ!


 今すぐにでも妻を問いただしたくて、はやる気持ちをぐっとこらえる。


 妻が正直に打ち明けるとは思えないし、問い詰めた結果、妻が家を出ていけば、後に残されるのは中学生の子供二人。


 いずみと啓太だけは何があっても守らなければならないと、あらためて心に誓う。


 そのために、今は冷静なれ。


 そう、クールに。


 ウエストサイド物語でアイスが仲間に呼びかけたように。ボーイ、ボーイ、クレイジーボーイ、冷静になれよと。あんなふうに手と足を高く上げて踊れはしないけれど。


 達成目標は、裏切り女を私の足もとにひざまずかせ、不倫相手に愛の言葉を囁いたその口から「許してください。あなたを愛しています」と不倫相手を裏切る言葉を吐かせ、不倫相手には社会的制裁を加えること。


 私と離婚した後、二人が結婚して笑って暮らせるような人生を歩かせてやるものか。


 それを実現するために考えろ。


 つちかってきた経験と知識、権謀術数のすべてを総動員して。


 今までだって波風立たない平穏な道を歩いてきたわけじゃない。家庭を守るため、つらい決断をしたこともある。その痛みをあいつらに思い知らせてやるっ!


 考えろ。相手はどこのどいつだ? 怪しい行動はいつからだった? 気になることはなかったか?


 思い当たるのは剣道部の後援会。役員になってからの行動。そうすると、怪しいのは剣道部員の保護者か?


 ならばと、家の中に剣道部の資料から不倫相手に繋がるものはないかと探してみる。くずかごの中、ハンドバッグのサイドポケット、鏡台の引き出しの奥。


 そして目についたのは、後援会の書類の束。寝室の隅のサイドテーブルに乱雑に積み上げられて整理すらできていない議事録と予定表。


 しかし、30分もかけて整理したのに、手帳のほかは、意味不明なメモや判別不能な走り書きのある収支計算書しか出てこない。


 大切なはずの手帳には、数ページに渡って大きくクマだかブタだかの落書きであふれ、頭の悪さ丸出しだ。


 小学生か、お前はっ!うちの会社ならぶっちぎりのリストラ候補だぞ。


 ふと思いついてベッドの枕もとの引き出しを開ける。


 中にあるのは、コンドームだけのはずが、妊娠検査薬と、これは低用量ピル?


 やつら、コンドームを使わずにしてるのか?


 念のためにコンドームの枚数を数えてみると12枚。


 そんな馬鹿な。


 封を切ったのはゴールデンウィークのとき。それから何枚か使ったぞ。


 つまり、これは私が使っていた箱ではなく、妻と不倫相手が使い切った後に補充したもの。ご丁寧にすぐにでも使えるよう箱の封まで切って。しかも、このベッドにこれがあるということは──


 まさか、このベッドで……


 妻と見知らぬ男が私の目の前にあるベッドの上で全裸になって抱き合う姿が思い浮かぶ。


 そのときにあの破廉恥なパンツだか性具を履いたのか?


 赤い性具だけを身に着けた裸の妻がなまめかしく男を誘う姿を想像して、さらなる絶望が私を襲う。


 一体、いつからそんな恥知らずな女になった?


 妻との最後の行為は数週間前だった。特に変わった様子はなかった。いや、気づかなかっただけなのかもしれない。


 それでも、そのときにコンドームのほかに妊娠検査薬やピルがあったら気づいたはずだ。


 だとすると、妻が不倫相手をこの家に引き入れたのは、ここ1、2週間のこと。


 しかも、避妊しなかったときもあったということは、ベッドのシーツに男の体液が飛び散ったこともあったはず。あるいは風呂場でしたのか?


 いずれにせよ、風呂場は使ったのだろう。汗や体液を洗い流すのに都合がいい場所だ。二人で一緒に入ったこともあったはずだ。


 妻と不倫相手が明るい照明の中で互いを洗い、肌を重ね、体液を放った浴室で、私はのんきにくつろいでいたのか?


 不倫相手の体液が飛び散った、そんなベッドに私は寝ていたのか?


 妻は、何も知らない私に、それを平気でいたのか? いや、何も知らないことをかわいそうにと嘲笑あざわらっていたに違いない。


 妻だけじゃない。この家もすでに不倫相手に汚染されていた。あまりのことに目の前が真っ暗になる。


 おぞましい。


 いとおしい妻はもういないのだと思い知らされる。


 不倫相手に体も心も道徳心さえも、どす黒く染められて、裏切ることに背徳の悦楽を感じるように調教されてしまったのだ。


 裏切り女に「許してください。あなたを愛しています」と言わせたいだと?


 自分の甘さに笑ってしまう。


 もう、そんなところに妻はいない。取り繕った態度で謝罪してみせた、その翌日には、いや、その日のうちに、けろっとして不倫相手に股をひらき、よがり声をあげているに違いない。


 どうしてこんなことになった?


 確かに私達夫婦のセックスはありきたりのものだった。それを退屈に思っていたのだとしたら、妻に謝罪や反省を求めることに意味はない。愛情などつゆほども残っていないだろう。


 すでに不倫相手と愛欲の地獄をさまようことを嬉々として選んでいるのだから。


 それでもと思ってしまう。夫婦ではぐくんできた愛情は体だけの関係ではないはずだ。


 ただ触れ合う。それだけで互いの愛情を確認し、出会ってくれたことに、生まれてきてくれたことに、家族になってくれたことに感謝した夜もあったのだ。


 わずか数週間前のことなのに、とても遠い日のような気がする。


 普通に抱きあい、飽きるまでキスをして互いに愛情を伝えあったら、優しく触れあって口で下着を脱がせ、シルクのスカーフで目隠しをして両手を縛り、言葉攻めと急所をなぞる筆使いで盛り上げながら、ゆっくりじっくりと時間をかけて体の形を確認し、終わったら優しく触れあって互いの後始末をする。シャワーは翌朝にまわして裸のまま抱き合って眠りにつく。


 クローゼットにはセーラー服があるが、娘が中学生になってからはなんとなくやめた。


 たったそれだけの、ありふれた、ごくごく普通のどこにでもいる夫婦や恋人と同じ営みだった。


 だが、その夜の妻の反応に満足した私は、妻が欲求不満の体をもてあましていることにも、それゆえに別の男になびいていることにも微塵も気づいていなかった。


 夕飯の用意ができたと、妻が家族を呼ぶ声が聞こえた。急がなければ。


 あとはカレンダーか?


 手帳にろくなことが書かれていない以上、スケジュール管理はスマホかカレンダーしか考えられない。


 妻にスマホを見せてくれとは言えないから、カレンダーに照準を絞って徹底的に情報を探す。


 まずは、隠された証拠を探し出すため、そのままの生の情報ごとすべてを写真に残しておこうとスマホを向ける。


 けれど、それが無意味なほど、完璧なまでに何も書かれていなかった。


 あるのは、ただ、6月20日水曜日の欄に、「5時連絡会〜浜の」の文字だけ。それは5月も4月も同じだった。


 見事なまでに証拠を残さない綿密さと卑猥な下着や妊娠検査薬を残している杜撰ずさんさが同居していることが指し示しているのは、決定的な証拠さえ見つからなければいくらでも言い逃れができるという自信があるからか。


 それとも、不倫が私にバレても相手の男の素性を知られなければ逃げ出せる場所があるという用意周到さからか。


 妻はわかっているのだ。


 単身赴任している私より、この家で子供達を人質にしている自分のほうがはるかに有利だということを。


 受験を控えた娘と剣道部を頑張っている息子のことを考えると、それを支えている自分を追い出すことなどできやしないと。


 不倫相手が剣道部の関係者であっても、私が騒ぎ立てて、息子が部活を続けられなくなるようなことは絶対にしないと。


 仮に私に知られたとしても、子供達を学校に送り出した後、男を迎え入れることを、私は遠く赴任先から指をくわえて見ているしかないのだと。


 しかし。


 このまま見過ごすことは絶対にできない。


 もしかすると見当違いかもしれないが、不倫相手を剣道部の後援会、幹事と当たりをつけて、次の水曜日、浜のへ行くことを決意した。


 仕事に都合をつけて、家族には黙って帰省する。そのまま浜の家へ直行して妻を見張っていれば、不倫相手とラブホテルに入る決定的な瞬間を、不倫の証拠を押さえられるかもしれない。


 だが、もう一つ証拠を見つける方法がある。


 それは、今夜妻を抱いて体の隅々まで目をこらし、不倫の痕跡を見つけ出すこと。


 もちろん、妻が応じてくれればだし、それ以前に、不倫相手の体液にまみれて汚れきった妻の肌に舌を這わせる屈辱に、私の精神が耐えることができればだけど。


 ❑❑❑❑


 目の前には夕飯を食べながら家族団らんの中で笑う妻がいる。


 けれど、この女は私の不在をいいことに昼間から男を家に連れ込んでセックスを堪能するビッチだ。妊娠のリスクすら背徳の歓びにかえて燃え上がる性の倒錯者だ。


 そんな妻が私のために食後のお茶を渡してくれた。


 私はそれを作り笑いで受け取り、ごまかされるものかと、心の内でつぶやく。


 目の前の優しく健気な妻と、不倫相手にベッドの上で腰を振り、浴室で戯れる奔放な妻と。


 私の胸の中には割り切れない思いがくすぶっていた。


 ❑❑❑❑


 風呂に浸かる間も惜しんで、念入りに浴室を磨く。


 こんなことをしても無駄だとはわかっている。明日にでも不倫相手に再度(けが)されるかもしれない。それでも磨かずにはいられない。天井、壁、床、浴槽、排水口と余すところなく。


 せめて今夜だけでも心穏やかに過ごして眠りにつきたいから。


 次はベッド。


 ベッドパッドとシーツを剥ぎ取り、洗濯機に叩き込んだ。洗剤だけでは足りない。漂白剤もぶちこんで念入りに洗う。ファブリーズをベッドにぶちまけて男の痕跡を臭いごと消し去る。新しいベッドパッドを敷き、念入りに匂いをかいで汚れのないことを確認したシーツでベッドメイクをする。


 気になり始めると止まらない。


 寝室、リビング、廊下、トイレと、除菌スプレーと除菌シートで、テーブルの上から床や便器、ドアノブまで不倫相手が触れた箇所、立ち入った場所を徹底的にき清める。


 ベッドパッドとシーツが洗い終わると、スリッパとトイレマット、バスマットだ。不倫相手のマーキングをことごとく消し去って家族の家を、私の居場所と尊厳を取り戻す。


 そんな私の振る舞いに、何を勘違いしたのか、妻は「ありがとう。助かるわ」と言ってきた。つくづくおめでたい女だ。


 お前のしていることはバレているというのに。


 ❑❑❑❑


 妻がベッドに入るのを待って、そっと手を握った。もしかすると、不倫相手に操を立てて断られるかもしれないという不安はあったが、それならそれで構わない。


 汚れきったメス豚を抱かないで済むのなら、私も屈辱的な思いをしないで済む。


 しかし、意に反して、いつもどおり妻が手を握リ返してきた。


 どうする? すでに汚れされた体だが、見方を変えれば不倫相手の女。


 ならば、今夜は私が汚し尽くしてやろう。


 不倫相手と愛し合った記憶ごと寝取ってやる。不倫相手のために用意したコンドームも使い切ってやる。


 いつもは両手を優しく前で縛っているが、もう容赦はしない。


 縛るのは後ろ手だ。試すことをためらっていた座禅転がしもやってやる。


 今夜はこの女を眠らせてはやらない。


 私はためらうことなく妻の唇にキスをする。


「疲れてない? 明日、早いのに大丈夫?」


「ああ、今は君がほしい」


「あん、うれしい」


 妻が舌を絡ませてきた。その馴れた動きにいつの間にか私も企みを忘れて没頭した。


 いつもどおりの寝物語が始まる。


 結局、妻の体をあちこち触りながら隅々まで観察してはみたものの、不倫相手の痕跡を見つけることはできなかった。コンドームは3枚しか使っていない。不倫相手が気づくかどうか微妙な枚数だ。いや、枚数を確認することなどないだろう。昨日までの私のように。


 だが、このままではしゃくにさわるので、不倫相手に見せつけるべく、妻の体中をキスマークだらけにして私の痕跡を刻みつけておく。


 すると、さっきまで気を失っていた妻が目を開けて、私の首に腕をまわして抱きついてきた。


「あなたぁ、大好きぃ! 愛してるわ。……でも、今夜はもう許してぇ」


 あれぇ?


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― 新着の感想 ―
[一言]  更新お疲れ様でございます。私は以前も書きましたが、茶番パート否定派ですが、作品をどう書くかの権利は作家にあると思います。読者がどうであれ作家が好きに書くべきです。  ふじわらさんは文章が…
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